繰り返す人
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふうう、市営バスに乗るのも久しぶりだなあ。
私は昔から、タイヤの上の座席に座るのが好きでね。一人だけで利用するときは、真っ先にそこを選んでしまう。これがバスの最前席であるなら、なおよしだ。
大学時代によく利用したバスは、中乗り前降り。そして私が降りるのは終点で、乗客がどっと出口へ押し寄せてくる。
その流れへ途中から分け入っていくのが、どうも苦手でね。ならば、川水が来るより前に立ち、先陣を切っての降車。時間も生かせるというわけだ。
だから、自分でバスの降車のチャイムを押したことは、あまりない。座席に背中を預けるまま、うとうとする日も多かった。
だが、ある時を境に、ちゃんと起きていた方がいいかもと、考えるようになったんだ。
そのきっかけとなった話、聞いてみないかい?
大学2年生の春。新年度を迎えたためか、いつも乗るバスにも新しい顔ぶれが増えた。
いつも同じ乗り場を利用しているから、見知った顔もいくつかはある。けれど、新入りの中に、少し苦手とする人が混じるようになってしまったんだ。
「バスが発車します。ご注意ください」
ある停留所から発車する際、流れるアナウンス。機械的な女性の音声だ。
「バスが発車します。ご注意ください」
それをおうむ返しにする、肉声が耳に入り、私はそちらを向く。
車内の通路を挟んで向かい側。右前輪の上座席に位置する私に対し、左前輪の上座席に、彼は座っている。
ワッペンがいくつもついた、灰色のミット帽。チェックのポロシャツとジーンズに身を包むいでたちに、つい顔をしかめてしまう。
一度、乗り込んできた彼は、自分が降りるまでずっと車内のアナウンスを繰り返し、つぶやいていくんだ。
ASD。いわゆる自閉スペクトラム症かと、私は思った。
厳密には病気というより、個人が生まれ持つ特性に近く、強いこだわりを持つ傾向にあるのだとか。
このアナウンスのリピートも、声を出すことで自分を落ち着かせたり、好きな言葉を繰り返したくなったりする、ひとつの傾向ゆえ。
そう理解はしていたんだが……すんなり受け入れられるかどうかは、また別の問題。
残念ながら、私はどうにも苦手を感じてしまってね。彼が乗ってきたと分かるや、イヤホンを耳にし、音楽を聞き始めてしまうことが多かった。
あからさまに距離をとるような素振りを見せず、でも声は遠ざけたい。私の考える、ぎりぎりの妥協点がここだったんだ。
彼とは大学へ向かうバスでも、大学から帰るバスでもたびたび一緒になった。
これまでより一本遅らせたり、早めたりもしたが、それでも顔を見るときはある。
ついてないなと思いつつ、音楽聞く以外にうたた寝も選んだりする私だったが、何度か乗っているうちに気づく。
彼は、バスが停まらず停留所を通過してしまうポイントでも、アナウンスをつぶやいていくんだ。直前のチャイムの音さえも、口真似しながらね。
おかげで彼が乗っている時は、実際にチャイムが押されようと押されまいと、停留所の名が漏れなく呼ばれていく。
おかげで短いスパンで現実に引き戻され、私はまともに寝ることもできず、いらいらを募らせていたんだ。
おまけに、どうやら彼は私と同じ大学に通っていると見える。乗るのも降りるのも、同じタイミングだ。キャンバス内で顔を見ないのは、私にとってありがたかったと、言わざるを得ない。
彼の存在を知ってから、二カ月ほど経った帰り際。
課題のレポート作りもあり、ギリギリまで大学に残っていた私は、いつもよりかなり遅いバスへ乗り込んだ。
乗り場には私以外おらず、乗り込んでから発車するまで、新しくやってくる奴もおらず。
あのミット帽を見ないまま、ドアが閉まるのを確かめ、思わずほっとした。
今日は車内に私だけ。心置きなく眠れそうだぞと、いつもの座席に背中を預け、目を閉じる。
大学から最寄り駅まで、バスでおよそ20分。
あきらかに夢まで見はじめた熟睡を感じ、私ははっと目を覚ます。
バスは暗がりの道を走っている。大学から駅へ向かう路線はいくつもあり、中にはこのように国道を外れた遠回りをするルートがあるのは知っていた。
それにしても、外からの明かりが少ない。車内で煌々と灯る照明におされているにしても、店や民家の放つ光すら、満足にないとはどうしたことか?
気がかりな点はまだある。車内の振動だ。
人が少ない車内で放置されているつり革は、どの道を通っても相応に揺れるもの。それが先ほどからうかがうに、微動だにしていない。
私の席も同じくだ。
後部座席ほどでないにしても、前部のタイヤ上なら、席からも足元からも揺れを感じるはず。
いや、道路の揺れどころか、エンジンそのものが放つものさえ、みじんも……。
「あ、あの。駅にはまだ着かないんでしょうか?」
駅は終点。寝過ごしはない。
しかし、腕時計は発車する直前の時間から動いていないようで、車内に時間を確認できるものはなく、心配になってきたんだ。
「走行中、運転手へみだりに話しかけるのは、ご遠慮ください」
運転手に正論を返され、私は黙るよりない。
あらためて席へ腰を下ろし、赤信号を待った。同時に、頭の中で秒数を数え出す。
……100……200……。
変わらず、揺れのないまま、まっすぐ進んでいくバス。開く気配のない、暗い道。
ようやく私は異変を察した。
生涯、まだ数えるほどしか触れていない降車チャイムに手を伸ばし、強く押す。
鳴らない。戸惑いながら、数回押すも結果は同じ。
ならばと、席を立ったところで狙いすませたアナウンス。
「走行中、席のご移動はご遠慮ください」
知るか。
私は柱やつり革に手をやりながら、片っ端からチャイムに触れていく。
だが、ダメ。どれを強く押そうが、音は出ないしランプも灯らない。
とたん、バスが急にカーブを始めた。ロクな減速さえしない動きに、私の足はつるりと滑る。とっさに柱を掴めなければ、座席に頭をぶつけていた。
「バスが止まるまで、席をお立ちにならないようご注意ください」
追い打ちのアナウンス。だが、これはたいていチャイムを鳴らしてから、流れる文言だった。
あざ笑っている。明らかに、私を。
それを証拠に、私が立とうとするたび、バスはいきなりの蛇行を繰り返す。どこかを掴み、踏ん張らねばならないほどに。
こんな道など、どこの路線にも当てはまらない。
――乗るべきじゃない……いや、乗ってはならないものだ!
いいように揺さぶられながら、私は目を走らせる。
ドアコック。もし効いてくれるなら、たとえ走行中だろうと飛び出し、逃げてやるつもりだった。
「ピンポーン」
車内へ、唐突にチャイムが響く。
機械のものでない。肉声によるものだ。
前を向く。確かに先ほどまで、誰もいなかった私の向かい。通路を挟んだ、左前輪上の座席で、ワッペン付きのミッド帽が揺れていた。
「次は終点、○○駅。○○駅です。心と体を元気にする、スポーツクラブ……」
最寄り駅のアナウンス。私が降りる駅に差し掛かる際、いつも流れるお約束のものだ。
それをミッド帽の彼が紡いでくれている。一言一句のよどみもなく、さらさらと車内へ響いていく。
ふと見ると、先ほどまで微動だにしていなかった、つり革がかすかに揺れ始めている。
私をさんざん翻弄したカーブもすでになく、バスはひたすら真っすぐな道を進み続ける様子を見せ……。
気がつくと、私はかの駅の乗り場にぽつんと立っていた。
バスの姿はなく、駅の電光掲示板は私がバスに乗ってより、一時間以上が過ぎていることを告げていたよ。
やはり腕時計は止まったまま。しかし、私には降りた記憶はまったくなかったんだ。
以降もたびたび、彼を見かけることはあった。
私と共に乗り込み、変わらず停留所のアナウンスを欠かさずつぶやいて、私と共に大学前で降りていく。
礼をいう意味でも、私は何度か彼に接触しようとしたけど、ことごとくかわされてしまってね。
一度、走行中に席を立って彼のそばに立ったことがある。
でも、彼は私の声掛けに反応しないまま、アナウンスの繰り返しを続け、さりげない通せんぼもやんわり退けて降車。
あとを追おうとしても、とてつもない足の速さで、駅や大学の雑踏の中へ紛れていってしまったんだ。