第12章-36 そろそろ
それから、フヨウは再びつぶやいた。
「本当に、よかった……」
と、そのとき。
「姫さま」
近くでモエギと一緒に話をしていた若者が、フヨウに声をかけた。ライモンはいまだに彼の名前が思い出せずにいた。確かに昨日会ったはずなのに。
フヨウがその声に、彼を見やる。その後ろにハシドイがいた。
「ハシドイさまが」
ハシドイが一歩手前に出て、軽く一礼した。ライモンは幾分戸惑ったようにぎこちなく彼のほうを向いた。
「姫さま」
フヨウもまた、ハシドイに体を向けた。
「そろそろ出立いたしませんと、お約束の時間に間に合いません」
「そう、そうね……」
フヨウはうなずいたが、名残惜しげに吐息をついた。
それから、ハシドイを見てにこっと笑う。
「その前に、手を洗いたいのですけど」
「はい、かしこまりました」
この会話に戸惑ったのは、ライモンだった。母屋の裏にある井戸のほうを指し示して言った。
「手を洗うのでしたら、あちらに井戸がありますので、そちらで洗えますよ、フヨウさま」
その言葉に、フヨウは困ったような微笑みを浮かべた。ハシドイも苦笑を堪えているように見える。
ライモンは不思議そうに首を傾げた。
「あの、そういう意味では……」
困ったように、フヨウが答える。ハシドイが助け舟を出すかのように、手を上げた。
「次期さま、姫さまがおっしゃっておられるのは、そういうことでは……」
「私がフヨウさまをお連れします」
静かに声をかけたのは、モエギだった。全員のまなざしが少年のような守護精に向けられる。モエギはにこにこと微笑んでいた。
「私がフヨウさまをアカネのもとに連れて行きます。アカネが案内してくれると思いますが、いかがでしょうか、フヨウさま」
フヨウはほっとしたように息を吐いて、こくりとうなずいた。
「ええ、お願いいたしますわ、次代さま」
では、とひとつうなずいてからモエギは先に立って、母屋に向かった。そのあとをフヨウはついていく。
その背を見送って、ライモンはため息をついた。
「手を洗いたいと言うから、井戸の場所を教えたんだけど、なにか違ったのかな」
ライモンのつぶやきに、ハシドイがひとつ咳払いをした。
「次期さま、フヨウさまのは手を洗いたいということだけではございません」
「え、やっぱり違うのか」
驚いたように、ライモンはハシドイを振り返った。ハシドイは重々しくうなずく。
「姫さまは御不浄にお行きになりたいとおっしゃっていらしたのです」
「御不浄?」
ライモンは初めて聞く言葉に、きょとんとしてハシドイを見返した。その表情を見て、ハシドイは大きく息をつく。




