手記
「ふあ~ただいま~」
朝、それぞれがお仕事に行き、私も店に戻った。
「姉ちゃん!」弟がいきなり駆け寄ってくる。
ダンは店のソファで私を待っていたようだった。まじめな顔をしている。
「なんだ?昨日のストレートペティちゃんについて何がききたい?」
「それはっ、…それもあるけど、それより先にこれを見て!」
私の胸に、紙の束が突き付けられた。
「え?」
ファッション雑誌だ。新しい号。
「さっきあの部屋に行ったら、あった」
私はそれをじっくり見ようとしたが、ダンに腕を引っ張られた。
「それだけじゃなかったんだ」
店の裏に回り込む。勝手口のドア。
そういえば、店の中から勝手口を開けてもただの勝手口なのだ。外からでないと繋がっていないらしい。
私たちがかつて住んでた家の書斎。
何度見ても本だらけだ。地震が来たら本で死にそう。
靴を脱いで上がると、ダンがデスクを指す。
「あれ…見て。日記なんだけど」
本の山をよけながら、ゆっくりデスクに近づく。
こんなに散らかっているのに、デスクには一冊の本とペンしかない。
分厚い本だが、人の字しか書いていない。
青めのインクで、時々誤字をぐちゃぐちゃっと消しながら、日記が書いてある。
──〇月〇日、娘と息子が事故に巻き込まれた。助からなかったらしい。とはいえ、10年以上も会わずにいて今更家族面もないだろう。
非常に淡々と書いてある。
(やっぱり、私たちは死んだことになってるんだ)
──〇月〇日、メモが落ちていた。ただ「お久しぶりです」と書かれていたが、写真も添えられていた。息子の写真だ。何年にも渡って独り暮らしだというのに。
「アルバムの写真を、置いといたんだ」
そうでないと、わからないもんね。イタズラだと思われるし。
──〇月〇日、何かしてみた方がいいかと思い、昔息子が欲しがっていたらしい望遠鏡を置いてみる。
──〇月〇日、望遠鏡が消え、ありがとうとメモあり。
──〇月〇日、双眼鏡を二つ置いたらやはり消えた。彼らはいる。私は確信した。
「息子」しかあいさつしてないのに、「彼ら」と書いている。
ページはいくらかめくることができた。
──〇月〇日、今度はセラミックについて質問をされた。息子が大学へ、しかも給付制の奨学金で入ったとは聞いていたが、大した向学心だ。しかし娘の文字はまだ見たことがない。
当然のことだろう。
ここから、私は文字がニガテなのに、するすると没入していく。
──〇月〇日、残してあったアルバムを見た。私にとって娘は10歳のままだ。ひどい親だった。
生まれたものの、触ると泣かれてしまい、扱いに戸惑い、何度も試したが、難しく。
なぜ、キリエにはなつき私は駄目なのだろうと思ったものだ。
キリエは、母の名だ。
──私は大学の助手だった。当時の私は臆病で馬鹿だった。あいつに毎日怒鳴られ、笑われ。地位にしがみつき、動く勇気がなかった。命を削ってまで何を守りたかったのだ?
数年後私は精神を病み、仕事を辞した。保育園に預けている時間以外、娘とほぼ一対一になる。
「あんた、これ母さんから聞いたことある?」
弟は首を振った。「こればっかりは」
──本と向き合っている時しか、安らげなかった。娘は愛しかったのに、しかし人間である。こどもである。言葉を解すわけがない。じっとしていなさいと言っても無理である。わかっているのに、あの時の私はそれが割り切れず、そしてそんな自分が許せなかった。
ドキドキした。ページをめくるのが怖くなってきた。
──そして、娘は本を破いた。苦労して手に入れたものだ。~先生や~先生のお力添えもあった。
私は娘を叩いてしまった。
帰ってきたキリエが娘の異常に気付き、病院へ連れて行った。娘はギプスをつけて帰ってきた。
そうだったんだ。あの本…私にとっては父を奪う敵でしかなかったんだけど。
──私は、娘に触れなくなってしまった。私は大人で男である。これ以上娘を傷つけてしまわないかと恐ろしくなった。
食事だけは用意し、あとは我慢するしかなかった。申し訳なかったが、私にはそれしか思いつかなかった。
「今更…」
──私はキリエに、私の精神が落ち着くまで離れた方がいいと話した。しかしキリエはそうじゃないと言ってくれた。
愛の深い女性だった。私を仕事で支え、見捨てはせず。
そして、息子が生まれた。
「今更、こんな」
──今度こそ、二人を愛そう。私は息子を抱き上げた。息子は泣かなかった。これは相性というしかない。
しかし、キャッキャと声を上げる息子を見て、娘は私を、刺すように見つめたのだ。
もう、手遅れだったと気づいた。
「こんなこと今になってズラズラ書いて。ずるいよ…」
大きなすれ違いだ。大学の助手が大変とか、ニュースでいろいろ聞いたことはある。父はあきらかにパワハラに遭っていたし、家にいたのは心を病んでいちばん辛かった時じゃん。
母さんは店で仕事をしていたから、私の面倒を見るのは父しかいなかったんだ。そんなのヤバいに決まってる。
──私はそれから縁あって大学に戻ることができた。まとまった金が入るようになり、決心をした。キリエとは別れる。金は資料諸経費以外ほとんど渡す。これが彼女らにできる償いだと思っていた。しかし今、キリエを亡くし、息子と娘まで失って、後悔が募るばかりだ。
「お父さん、バカじゃん…」
でも、私があれ以上一緒にいられたかというと、自信はない。全然、ない。
今ならいろいろな救済措置があるけど、二十年近く前のことだ。両親に身よりはほとんどなくて、頼れる人もいなかったのに。
──〇月〇日、息子のメモと一緒に娘のものらしきメモがあった。筆跡が違うから、そうだろう。
ファッション雑誌を欲しがっている。美容師になり、キリエの店を継いだというのに、事故はその直後だったという。
しかし、二人はどこかにいる。誰に話しても無駄だが、私だけ、そう思うことにした。
大人の文字だった。
「ダン…!!」
「うん、父さんには分かってもらえてる」
二人で泣きながら抱きしめ合う。
すると、書斎のドアが開いた。ぎょっとした。
人の姿はなかった。でも足音がし、デスクの椅子が動いた。ギシッと音がした。
ペンが動いた。
──〇月〇日、雑誌がなくなっている。娘がいる。役に立てただけで、うれしい。
「お父さん…っ」
私はデスクに座っているらしき人の影を、抱きしめるように包んだ。
ごめんとかありがとうとか、今はそうは言えない。
私の気持ちは、まだ割り切れないから。
さっきの日記は、今じゃないと理解できないことばかりだった。
子供の私は、まだ怪我したままなんだ。
「私たち、離れているけど元気にやってるよ。いつか父さんを許せるかもしれないから。それまで、父さんもどうか生きてて」
私はメモを残した。
ただ、「ここにいるよ」って。