灰色と、塩辛さ
「どこだろ、ここ…」
息が切れ、足が止まる。裏通りをまっすぐ走ってきてしまった。横の道に入れば、石畳の大通りになるのかな。
カラフルな屋根の街並みに比べ、こちらの色の少なさ。すべて灰色に見える。
とにかくどこか道を曲がろう。そう思ったら、黒い壁に阻まれた。
「なんだ、貴様は」
黒い鎧だ。古い形で、とても重そう。そして、見たことがない人たち。
でも、メリクールの兵士だよね?
「あの、大通りはこの先ですか?」
指さしたが、彼らは薄笑いした。
「さあなあ。お前、変な恰好してるな。異国人か」
「おい、こいつ噂の『神の手』じゃねえのか?変なかっこだって聞いたぞ」
「このチンケな女がか」
黒い小手で右手をつかまれる。痛い!
「放してよ!あんたら、この国の兵士でしょ?」
男たちは下品に笑う。「うるせえなあ。こちとら近衛と違ってただのゴミくずだよ」
「なあ、『神の手』が本当なら金になるんじゃねえのか」
「俺たちみたいな下級兵士でも、『あの方』に差し出せば」
抵抗してるけど、びくともしない。
「その前に手を付けても何も言われねえよな?」
一人が近寄って、顔をじろじろ見る。「細っけえけどな」
まずい…こんなの、こっちでも向こうでも初めてだ。
「脚もよく出てるな。どんなアバズレだよ」
太ももから撫で上げられる。ぞわっとする。
「やめ…っ、やめなさいよ!」
怖くて声がかすれる。でも、言わないともっと声が出なくなる。
「何も出来ねえくせにピーピーうるせえな」
建物の壁に体を叩きつけられた。向こうでガチャガチャと音がする。意味など考えたくない。
ああ、これが弟を傷つけた罰なのか。
大嫌いなんて言ってしまって。思ってもないことなのに。口にするなんて思わなかったのに。
「ごめんなさい…」
「しおらしいとこもあるじゃねえか。そそるなあ」
あんたたちのために謝ってるんじゃない。涙がこぼれる。
「う──っ…ゴメンねダン…」
「お前のオトコの名前かあ?まあ叫んでろよ。俺たちが代わりに相手するからよ」
下着をぐっと下げられる。もうだめだ。
「ダン…!!」
それだけ叫んで、覚悟をする。
「貴様ら何をしている!」
聞き覚えのある声。身軽なアーマーを身につけたディーが走ってくる。
「近衛だ!やべえ!」
鎧たちは逃げ出した。私はいきなり解放され、ずるずる壁を背に座り込んだ。
「サギリ!大丈夫か!痛いところは?!」
スカートの下に隠れるずれた下着。何もなかったけど、なかったけど。
「エルドリスからサギリがこのあたりにいると聞いて。ダンと揉めたと言っていて俺にはまったく訳が分からん。一体何が?」
私は、ホッとしたのと、悔しいのと怖かったのと、全部がぐちゃぐちゃだった。
だから、泣くしかなかった。「ふ、ふああ、ふあああ、ぶああ、うわあ、あ、あ…うわぁ──ん…」
広い胸にしがみつく。
「サギリ…お前に泣かれると、困る…そんな顔、するな…」
「うああああん…」
それでもディーは頭を撫でてくれた。ボティーアーマーは私の涙と鼻水でぐっしょりだ。
二つの月が、見ている。
店に戻るのを私が嫌がったため、困り果てたディーは街の中にある近衛の小さな建物に連れてってくれた。
(私たちの世界で言う、交番かな)
街の地図が壁に貼ってある。
二つしか部屋はなかったが、奥へ通された。取調室みたいなところだ。デスクと、椅子が二つだけ。
前の部屋からお湯を持ってきて、私にくれた。鉄のコップに入れられたただのお湯だけど、のどに体に染み渡った。
落ち着いてきた。私はコップを両手で抱えて見つめた。
「ダンと、ケンカしちゃったんだぁ…」
「そういうことも、あるかもしれんが…何が原因だったのだ。信じられん」
彼は椅子を横につけ、座った。
「ダン、私に秘密があったの。ここに来てすぐの頃から、今の今まで。私に隠してたのに、それをペティちゃんに見せてたの」
ディーは何も言わなかった。私はつづけた。
「悔しかった。なんでも言える仲だと思ってた。生まれた時から面倒見てさ。オムツも替えたし。年の差あるからね。
いい子だし、頭いいし、支えてくれるし、大好きなのに、秘密があるとわかったらムカっときちゃって」
「そういうことはある。俺も兄上とはよくケンカした」
「でもね。その秘密が父…離婚した父に関係することでね。私、父が嫌いで。大っ嫌いで。
ダンはそれを知ってたから私に気を遣って黙ってたのに、怒っちゃって」
「うん」
「私には…父の記憶が、殴られたこととダンに笑いかけたこと、それしかないの。
父は、ダンだけは、好きだったの…私は、いらない子で…」
だめだ。ここなんだ。私が弱いのは、ここの部分だ。
愛されなかった。ただ一人、父親に。
20年以上、心の奥に突き刺さって取れないんだ。
「う──っ…わたし…ダメだっ…」
まだまだ涙が出てくる。どれだけ流し切ればいいんだろう。
ディーは私のコップをデスクに置き、ハンカチを出して涙を拭いてくれた。
「サギリ、泣かないでくれ…お前はいつも笑ってて強くて、日の光みたいなのに…だめだ、泣かれると俺はどうしたらいい」
「私は強くないよ。ここに来て、強がってただけだよ。ディーみたいにいい人たちに囲まれてラッキーだっただけだよ。さっきの黒いやつばっかりだったら」
「思い出すな!」
あっ。
ふわりと、匂いがした。私があげたワックスの匂い、汗の匂い、アーマーの工業的なにおい。
背に回されたたくましい腕が、あたたかい。
胸がごつごつする。
「ディー、大きいんだね」
「お前はこれ以上力をかけると折れそうだ」
私はおそるおそる自分の手をその広い背中に回し、抱える。「落ち着く」
「そうか。サギリ…お前にはできる限り、笑っていてほしい。俺が立場を失いかけた時の、あの強さは今も忘れられない。
しかし…欲するだけの俺では、ダメだな。今は泣いていい。俺が抱えられる分、泣けばいい」
一旦ギュッと抱きしめたあと、私のぐしゃぐしゃな顔を見た。
「鼻が出ている」ハンカチで拭う。
「ごめん」
「涙は、塩辛いのか」
「そんなの当たり前…」
頬に、唇が当たった。ほんのりあたたかくて、私は目をみひらいた。
え?
ディーは眉を下げた。
「俺が与えられるものは、すべてお前に渡したい」
ひび割れた唇。でも熱かった。
私の涙も交じって塩辛くもあった。
ぎゅっと下唇が噛まれて、口が離れた。
…え?
「サギリ、俺はずっと臆病だった。こんなきっかけでしか行動に示せないとはな」
もう一度、唇が重なった。
「お前が好きだ。お前なしの世界は、考えられない」
「うそぉ…」
ぶわ──っと涙があふれてしまう。でもさっきの涙と温度が違った。温かい。
「私も。私も、ずっとディーが好きだった! でも私は…こんなんだし細いし、相手にされてないと思ってて」
「なぜだ?! お前はかわいらしいのに」
「やだ! なんでそんなに驚くの? かわいいって何よ、初耳だよ!」
彼は笑った。「いつものサギリだ」
「そうだね」
私たちはもう一回キスした。心が満たされる。
こんなに、家族以外の愛が大きいなんて、思ってもみなかった。