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Ⅴ 翌日昼、あの夜




「びっくりね、いきなり降ってきたわ。それも、ざばーって」

 バケツをひっくり返したような強烈な雨は、ほんの少しの時間を降っただけですぐにやんだ。

 急いで喫茶店に飛び込んだおかげで、テリィの衣装に大きな被害はなかった――が、捜査への関心はすっかりどこかへ行ってしまったようだ。ウェイトレスによって席に通された彼女は、いそいそとメニューを開いている。

 そして、意欲を削がれたのは彼女だけではなかった。向かいの席で腕を組み、ぼんやりとテリィを眺めているワトソンも同様だ。単に通り雨に打たれただけならこうも不機嫌にはならなかろうが、いけ好かないあの男のすかした笑みが脳裏にある。テリィにわからないよう、鼻から細く長く息を吐くことで、ため息の代わりとした。

 一方で。テリィはしばらくうんうん唸ってから、メニューから顔を上げた。

「これにするわ! すみませーん!」

 元気よく腕を振る彼女に応じて、笑顔のウェイトレスがやって来る。テリィはチョコレートパフェを頼み、食欲などないワトソンは、メニューを一瞥すらせずホットコーヒーを頼んだ。「ワトソンも何か食べ物、頼んだら? お腹空いたでしょう」という勧めは、丁重に断る。テリィの指が、メニューの『チョコレートケーキ』と『チョコレートパフェ』の間を行き来していたのに気付いていたからだ。どうせ、ワトソンにチョコレートケーキを頼ませて、少し奪って食おうという腹づもりだろう。

 当てが外れたテリィはしばらく不満そうに唇を尖らせていたが、やがて諦めたようだ。メニューを開いて『チョコレートパフェ』の文字を指で示すと、「知ってる?」と言った。

「ここのお店の、チョコレートが使われたメニューってね、上に猫の形のチョコレートが載っているのよ」

「へぇ。そうなんですか?」

「とってもかわいいのよ。パフェが届いたらワトソンにも見せてあげるね」

「ありがとうございます」

「あげないけどね」

「いりませんよ」

 しかしワトソンの言葉などテリィが聞くわけがない。パフェを待ちわびているようで、ちらちら、ちらちらとキッチンの方を見ている。

 猫の形のチョコレート。――彼女がそうして猫に固執するのは、やはりあの怪盗が原因なのだろうか? そう考えるとなんとも落ち着かない気分になって、気付くとワトソンは尋ねていた。

「……三年前、どうして助けたんですか」

「えっ?」

「サワァニャンに会ったのは。……彼を、助けたのは。『探偵になりたかったから』ですか?」

 あの浮かれとんちき怪盗に初めて会った日の彼女が、探偵ではなかったことを、ワトソンは知っていた。テリシラット探偵事務所の開設日の記録は、彼女がサワァニャンに会ったと申告する日より後になっていたからだ。

 ただの世間知らずのお嬢様であったはずの、彼女が。

「ワトソン、あなたは探偵にはなれないわね。だって……その推理は、外れているもの」

 テリィが、彼の名を呼んだ。そしてふと、笑みを零した。

 その表情を見て、ワトソンはなぜか、居心地が悪くなる。そうなって初めて、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれないと気づいたけれど、そのときには彼女は語り始めていた。

 三年前の夜のことを。

「ワトソン。あの夜、わたしはね……」



     *



 それはとある、月の照る夜のこと。

 とても、(ぬく)い夜だった。

「そこの者。何をしている」

 それが自分への言葉であるとテリィが気づくまでに、さほどの時間はいらなかった。

 振り返る。顔見知りの警官が立っていた。

 少し、表情が、強張っているように見えた。

「セルジュさん。こんばんは」

「……失礼。テリィさんでしたか」

 ゆっくりと頭を下げ、いつものように挨拶をすると、彼の頬の強張りは少し緩んだようだった。

 非礼を詫びるセルジュに、テリィは微笑むことで答えとする。

「このような時間に、こんな路地で、何を?」

「母の墓参の帰り道ですが、かわいらしい猫がいたように見えたので、つい。馬車はそこに待たせております」

 視線で、通りの先を指す。

「セルジュさんは、いつもの見回り……」言いかけて、いつにない装備の物々しさに気づいた。「……というわけでは、ないようですね」

「今宵の街は危険です、どうぞみだりにお出歩きになりませんよう」

「何か、事件でも?」

「大したことではないのですが。……盗人騒ぎが、少々」

「もしかして、噂の」

 囁くように尋ねると、セルジュの表情は曇った。質問自体を不快に思ったというよりも、犯罪者の犯行が市民の『噂』に上ってしまっていること、そしてそれを防げずにいる警察局じぶんたちへの憤りか。

 この頃ヴィーアルトン市では、怪盗を名乗る謎の人物が盗みを働いている。その正体は誰も知らず、警察局も手を焼いており、しかもその警察局を『捕まえられるものなら捕まえてみろ』とあざ笑うように、犯行の予告状を送りつけてくるのだという。

 テリィの言葉に、セルジュは笑った。無理やり笑ってみせたようでもあった。

「何、大丈夫です。というのも先ほど、予告のあった屋敷から、例の盗人を追い出すことができまして。身柄はまだ確保に至っていませんが、怪我を負わせることもできました。この辺りに逃げ込んだという情報も入っています、確保はもう時間の問題でしょう」

「そうですか。……セルジュさんも、どうぞお怪我のないように」

「ありがとうございます。そうだ、もしよかったら、馬車までお送り致しましょう」

「すぐそこですから、一人で大丈夫ですよ。……お忙しいのでしょう? どうぞ、わたしのことはお気になさらず」

「……。ありがとうございます」

 一瞬迷ったようだったが、時間がないのは図星だったのだろう。彼は一礼すると、そのまま、早足で去っていった。

 その後ろ姿を見送って――見えなくなって――

「……もう、大丈夫よ」

 テリィはうずくまった影に、そっと声をかけた。

 黒ずくめの身なり。道の端、積まれたゴミの陰に隠れるようにしているのは、眼光こそ獣に似ているが、先ほどテリィが言ったような生き物ではない。ただ、被った帽子には、猫に似た耳がある。

 月影も遮られ、顔はよく見えない。彼自身、見られるのを嫌がっているようでもあった――

「腕は、痛むかしら」

 彼の前に腰を下ろし、テリィは尋ねる。

「あなたが、怪盗サワァニャン?」

 聞かずともわかっていたことだったけれど、テリィは聞いた。彼は答えない。その沈黙はまるで、聞かずともわかっているだろう、と言っているようだった。

 左腕を庇っているようだ。二の腕が濡れている――その色まではわからなかったけれど、先ほどセルジュの言っていたことからすれば、きっと。テリィは鞄からハンカチを取り出して、彼の腕に押し当てた。何の力になれるとも思わなかったけれど、そうせずにはいられなかったのだ。

 ……彼が、口を開いた。

「なぜ、庇った」

 押し殺したような声。

 なぜ――自分の心を表現する正しい言葉が思いつかなくて迷っていると、彼がさらに言葉を重ねた。

「俺に『仕事』でも依頼するつもりか。いいだろう、だが高くつくぞ、何せ俺は、名の知れた悪党だ」

 闇の中で、彼が笑ったのが見えた。喜びではないようだけれど、それがなんだか、テリィにはよくわからない。

「アンタは誰だ、お嬢様。俺に何を頼みたい?」

 けれど彼が、自分を助けた理由を尋ねているのはわかった。何か頼みをしたいから、自分を助けたのだろうと思っていることも。だけどテリィは、頼み事をしたいわけではなかったのだ。

「私? 私はね。ええと……そう」

 だけどそう言ったら、彼はまた、何かを馬鹿にしたように笑うのだろう。そんなふうにされて、嬉しいわけがない。テリィはたくさんたくさん、考えて――

 一つの答えを、彼に返す。

「探偵、なの」

 すると。

 彼は。

「……探偵?」

 繰り返すのは、怪訝そうな声――あっけに取られたようだった。

 探偵。口に出して言うと、自分の決定に自信が出てくる。テリィはうん、うんと大きくふたつ頷いて。

「そう。私は探偵。今決めたの。今、なったの」

「……馬鹿げたことを」

「馬鹿げてないもん! だって――」

 言いかけて――しかし。

 それを告げたところで意味のないことだと、テリィにもわかった。一笑に付すか、もしくは怒るか。だからテリィは言わなかった。言わずに、かぶりを振った。

「何でもないわ」

「……変な奴だ」

 そのとき、あたりの黒がうごめくのがわかった。彼のまとったマントだ――彼が立ち上がろうとしているのだ。テリィの手の中に残る、白かったレースのハンカチは、べったりと赤黒く染まっている。これだけの出血だ、

「あなた、まだ体が」

「もういい。それなりに休めた。時間が経てば経つほど、警察局の捜査網は強固になるだろう、潮時だ」

 とん、と地を蹴る。すると、何かの道具を使ったのか、彼の体はそのまま屋根の上まで跳躍した。

 月影を背に負い逆光となった彼の顔は、テリィからはやはり見えない。テリィは声を張り上げた。

「私は探偵。テリシラット探偵事務所のテリシラット! あなたは?」

 彼は名乗らない。ただ――

 こちらを見下ろしたことは、わかった。

「お前の顔は覚えた」

 夜の中、屋根の上から降る、囁くような声。

 いざないのようだった。

「いずれどこかで、この借りは返す」



 怪盗はもう一度跳躍して、建物の陰に消える。

 慌てて立ち上がりその姿を追うけれど、もうどこにもそれを見つけることはできなかった――しかし、それを悲しいとは思わなかった。自分にはやることがあると、すでに気づいていたからだ。

 テリィは今、彼に『自分は探偵だ』と告げた。ならば自分は、探偵として在らなければならない。探偵事務所を開き、職業探偵として在り、そしていずれ、探偵として、彼の好敵手として、彼を捕まえなければならない!

 大きく一つ頷くと、テリィはたくさんのことを考えながら、馬車の待つ路地へと向かった。探偵になるにはどうしたらいいのだろう。何が必要だろう。探偵事務所を開くには?

 ――明日からは、忙しくなりそうだ。



     *



「……つまり、総合すると」

 テリィの話を聞き終えて。

「『その場のノリでつい探偵って名乗っちゃったけど探偵じゃないしこのままじゃ嘘になっちゃうから探偵目指してみたポンコツ探偵です』ってことですか」

「ポンコツは要らないんじゃない!?」

 長々した語りを一言にまとめたところ、ショックを受けたようなテリィの言葉が返ってきた。ショックを受けたいのはこちらである。深刻そうに始まった長々した語りを最後まで聞かされただけでなく、総括すると、自分はそんな『その場のノリ』で始まったポンコツ探偵事務所の助手を勤めているとはっきりしたわけだ。それに――

 まったく。ため息一つ。

 一方、テリィのショックは軽かったようで、手を打ち合わせながらにっこり笑っていた。「そういえば、あれはちょうど、今日から三年前のことね。懐かしい」とほわほわ楽しそうに言っている。

 話し終える頃には、ワトソンのコーヒーはもちろんのこと、テリィのパフェも空になっていた。このまま放っておいたらお代わりを頼みそうだ――同居の助手として、雇い主の体に悪そうなことはなるべく避けたい。

「そろそろ『捜査』を再開しますか」

「そうね。ごちそうさまでした」

 一足早く席を立ち、店の出口へ向かうテリィ。ワトソンは一歩送れて、伝票を持って立ち上がった。レジへ向かうと、ウェイトレスのエレスが会計をしてくれる。伝票ぴったりの金額を渡すと「ありがとうございました」と告げてくれた。

「雨上がりだから、足下にはどうぞお気をつけて」

「忠告、ありがとう」

 そのとき店の外から「ひゃあ」と間の抜けた声がした。見ると、不用意に道に飛び出したテリィが思いきり水たまりを踏み抜いて、びしゃびしゃになっている。

「でもね――」

 エレスが伝票で口元を押さえてうふふ、と笑う。その笑い方は、どこか悪戯っぽい。

「下ばかり見ていても駄目なのよね。意外と上にも大事なものがあって、そっちを見落としてしまうの」

 そのとき店の外から、また「ひゃあ」と間の抜けた声がした。見ると、足下を濡らしたテリィが首もとを押さえている。慌てて店内に戻ってこようとして、今度は軒から垂れてきた雨水に打たれたようだ。

 ウェイトレスの、二つの忠告。――しかしそれは、きっと。

 ワトソンは「わかっているよ」と答えた。その表情は、セレスの笑顔によく似ていたはずだ。



 そのときちょうど、時計塔の鐘が鳴った。






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