Ⅳ 翌日、雨
……探偵?
そう。私は探偵。今決めたの。今、なったの。
……馬鹿げたことを。
馬鹿げてないもん!
だって、それなら――
*
「違うのウェイトレスじゃないのサワァニャンよ――!!」
そのことをテリィが思い出したのは、結局のところ翌朝となった。
喫茶店でウェイトレスの仕事を手伝い、夜に手伝い分の賃金とまかないを貰い。疲労感とそれに見合う報酬を得たテリィは、事務所に戻ると「今日は充実した一日だったけど、ちょっと疲れたからもう寝るわ。おやすみ、ワトソン!」と挨拶し、何もかも忘れて自室に戻ってしまった。
翌朝、ワトソンが二階の共有部分で煙草を吸っていると、階段からばたばたばたと駆け下りてきて今に至る。くまもなく肌つやも変わりないところを見ると、しっかり熟睡したようだ。
「あ、思い出しましたか」
「思い出しましたか、じゃないわよ! なんで教えてくれないの! 助手の役目でしょ!」
怒りに任せ叫びながら、アーサーでぼすぼす叩いてくる。大事なぬいぐるみだろうにいいのだろうか。
と、いうかそもそも記憶力の悪さは自分の落ち度であって、助手に責任はないだろう……いろいろ思うがどれを口にするのは面倒だ。
ワトソンは煙草の火を消すと、「ところでセンセ、朝食はどうなさいました?」と尋ねる。
テリィはきょとん、と目を丸くした。
「クロックマダムを作って、食べたわ」
「今、暖炉でケークサレを温めていますが。よかったら、お召し上がりになりますか」
「ちょうだい!」
そしてまた、意識は別の方向に逸れる。
ほどよく温まったケークサレを皿に載せて渡し、旨そうに頬張るテリィ。彼女の怒りが消えたのを確認すると、ワトソンは彼女の望む話をすることにした。
「で、予告状の件ですが」
「うん」
「まだ何もわかりません」
「そうね」
あっさり同意するのもいかがなものかと思うが。
昨日の午後、もう少し街を歩き回れていたら違ったかもしれないが、今更だ……とはいえ、情報が足りなさすぎるのは問題である。ワトソンも昨日帰宅してから頭を捻ってはみているけれど、特段しっくりする答えが出ているわけではない。
そしてさらに、不思議なことに――これもまた重要だ――いくら外を気にしてみても、悪意、あるいはそれに類する張り詰めた気配というのを一切感じないのだ。このすっとぼけた主とは異なりワトソンは昔からその手の気配に敏感だが、それでも。奇妙である。
「今日はどうされます?」
「そうね」
テリィはケークサレを頬張りながら、天井を見る。こういうときの彼女は深く思考しているようにも見えるが実際何も考えていない。
はむはむ、はむはむと食べ終えて「ごちそうさまでした」と行儀よく挨拶してから、彼女はもう一度「そうね」と言った。そして、
「やっぱり、捜査よね」
そう言うだろうとは、思っていた。
というわけで今日も今日とて元気に散歩――捜査――へ繰り出す。
しかし今日の空は、昨日と違ってあまり芳しくなく、一面に灰色の雲が立ちこめている。春の雨がひどいものとなることは滅多にないから、そこまでの被害は出ないだろうが、立ち並ぶ家々の中に洗濯物や布団を干しているところは一軒もない。露店の件数も少なくて、ひと気もまばらだ。
そんな中、テリィはワンピースとカーディガンに鹿追帽というアンバランスな格好で、クレープを頬張りながら道を歩いていた。街の様子「妙な気配はないようね」とクレープの感想「ブルーベリーがおいしいわ」を交互に伝える彼女へ、隣を歩くワトソンはどちらの言葉にも「そうですね」と返す。
クレープを買ったのはテリィだけだから、クレープの味のことは知らないが、街の様子についてはワトソンも同意見だ。やはり今日も、悪意ある視線は感じられない。なんとも奇妙だ――と考えていると。
テリィが、唇についたクリームを舐め取りながら「だけど、不思議よね」と言った。
「はい?」
「予告状。なんだか変じゃない?」
「お、気づきましたかセンセ」
言ってしまってから、悪手だったなと思った。案の定、テリィは不機嫌そうに唇を尖らせる。「気づいていたならどうして言ってくれないのよ!」といったところだろう。
しかし、それをそのまま言わせてしまえば、しばらくぎゃあぎゃあ騒ぎ続けるだろうことは明白だ。自分の鼓膜のためにも、また時間の節約のためにも、ワトソンは思考を巡らせ、そして。
「気づいていたなら――」
「実は俺も不思議に思っていたのですが、残念ながら俺は助手で、ご聡明な名探偵でいらっしゃる我が主テリシラット先生ほどの推理力があるわけではありません。いや、推理力どころか観察力すら平凡な己の判断が本当に正しいものかすら、俺には判断できなかったのです。ですがもしこの感覚が本物であったなら、恐らく穎悟なるセンセの叡智の泉がまたセンセの炯眼が見逃すわけはないだろうと考え、この助手、あなたのその碧い眼が何かを発見するときを、今か今かと待ち続けておりました」
適当なことを言う、と――
――『穎悟なる叡智の泉と炯眼をお持ちのご聡明な名探偵』は、眉を寄せ、鼻の穴を大きく開き、喜びに唇が歪むのをなんとか押さえながら、むふん、と息を吐いた。
「そうだったの、待たせてしまって悪かったわねワトソン!」
「とんでもない」
乗せやすくて、大変助かる。
「それで、センセ。この予告状の、どこを変だと思われたんです?」
「何を狙うのかが書いてないのよ」
ほう。感嘆の声がつい口をついて出そうになったのは、このポンコツ探偵――もとい我がテリシラット探偵事務所の誇る名探偵が、珍しく正しいことに気づいたからだった。
彼女の言う通り、この予告状には『何を標的としているか』が書かれていないのである。怪盗なんていうのはたいていが愉快犯である。わざわざ犯罪予告をする目的は何かと問われたなら、単純にその犯罪によって世間を騒がせることが目的だ。犯行予告には犯行日と、犯行の場所あるいは標的を記入しておくのが定石である。実際、何年か前に現れたときの怪盗サワァニャンの予告状には、犯行の日付と、盗み出す標的を表す暗号が記されていた――というのに、今回は。
「数年の間にうっかりさんになったのかしら」
まさか。
相変わらずとぼけたことしか考えない主だ。現場の感覚を忘れたのかしらーなどと分析するテリィの様子に、ため息をつきそうになるのを堪え、ワトソンはあたりを見回した。
ヴィーアルトン市第四地区。街の行政によって取り決められた区画の一つで、第四広場を中心に広がっている。市から厳密に土地の用途が定められているわけではないが、比較的低中住居の多い地区である。市役所を初めとする公共施設や鉄道などが密集し、『大陸統都』として栄えているのは第一地区の方で、このあたりは、いわば昔ながらの町並みが目立つ。大陸統都の特徴物としてよく語られる大時計台があるのは隣の第三地区だが、場所によっては遮られるものの、ここからでもよく見える。数年前、最後に『彼』が現れたのも、あの時計台だった……それはともかく。
大陸統都とも呼ばれるヴィーアルトン市は、その名の通り大陸でも最大規模の都市で、人が多い。人が集まるところであれば自然と犯罪は増え、それゆえ治安維持にも力が入る。大陸警察局本部のお膝元とはいえ、不埒なことを考える輩というのはいくらでもいるのだ。
「そんな中で我々善良なる市民が安心して日々生活できるのはひとえに警察局の皆様のおかげと言えましょう。嗚呼まったく、我らが警察局様々でございます」
「心にもない文句をどうもありがとう、ワトソン君」
にっこり笑って感謝の言葉を述べると、警察局ヴィーアルトン本部警邏刑事部所属セルジュ巡査もまた優しい微笑みと共に答えてくれた。
――あたりを見回して目が合ったのは、顔見知りの警察官セルジュだった。ワトソンが、げっ、と思ったのもつかの間、彼はテリィとワトソンに気がつくと、迷わず二人を目指し歩いてきて、今に至る。セルジュはにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべているけれど、こちらのことを見つけた瞬間、彼の瞳が大変鋭く細められたことにワトソンは気付いていた。
「とんでもない、常に魂の底から思っていることですよ。ところでセルジュ巡査、本日は何を? また事件が、何か」
「いや、単なる街の見回りだよ。『不埒なことを考える輩』が、今日も街のどこかにいないとも限らないからね」
「なるほど。お仕事ご苦労様です」
「ありがとう」
上っ面だけの会話。しかしそれに気付かないテリィの「二人は仲良しねぇ」というほのぼのした言葉のせいで、乾いた笑いが二重になった。
――そうだ。引きつった笑みを浮かべている最中、ワトソンはふと思いついた。
「あの、セルジュ巡査」
「ん? 何かな」
「最近、街で、何か事件とかはありましたか?」
「事件? ……話せるものと話せないものがあるが。たとえば、どのようなものかな」
それはそうだろう。少し考えて、ワトソンはこう言う。
「不審者とか、空き巣とか……泥棒とか。あとは、昨今見慣れない……とにかく、不審な感じの、何か。そういった人間の、目撃情報とか」
怪盗、と断定して告げるのははばかられた。自称怪盗、実質コソ泥がどのような形で街に潜んでいるかわからない、もう少し枠を広めに取る。
けれど――この、言い回しでは。
思った通り、セルジュは呆れたように肩を竦めた。
「あるといえば、ある。が、あまりに漠然としていて、具体的には答えられないね。なんと言ってもこの街は、大陸の中枢機能を担っている街だ。君も知る通り、事件は大小様々日々起こり、そのたび我々の手を煩わせている。とはいえ被害者本人にとっては、それがどんな小さな事件であったとしても自身の平穏な日々を脅かす大きな害悪であって、それゆえ我々は事件の解決に尽力しなければならない。また、事件の未然防止も我々の仕事であるから勿論絶えず休まず不審者情報の収集を行っている。故に君の質問に対する答えは『ある』だ――が。それは君の本当の質問に対する答えになっているかい?」
「……いいえ」
「そして、ワトソン君。君は私のこの回答を受けて、現在抱えている案件の詳細を語ろうとは思うかい」
いいえ、と答えるしかない。
するとセルジュは「まったく君も、私たちを信用してくれればいいのに」と言って、にっこりと笑った。――やはり、いけ好かない。
「ワトソン、ワトソン」
上着の袖をくい、くいと引かれて我に返る。振り返ると、斜め後ろでテリィが表情を曇らせていた。不肖の助手がセルジュに何か言ってしまわないかと心配なのだろう――想像は当たっていたようで、彼女は「よくないわ」と囁いた。食べ終わったクレープの包み紙を丸めながらだったから、緊張感は皆無だったけれど。
「それでは、セルジュ巡査。我々はこれで」
「うん。今日は天気が良くないようだ、君らもあまり――っと」
と、別れの挨拶の途中で、セルジュが言葉を切ったのは。
二人の間、乾いていた地面が、ぽつんと黒く染まったからだった。たった一点だけだったそれは、みるみるうちに道の色を染め変えて――
「ひ、ひゃあぁぁ」
雨。背後のテリィは帽子ごと頭を支え、近くのカフェに飛び込んでいった。
セルジュは傘を差さない。警察官という、緊急対応を強いられる職業柄、職務中の傘の使用は認められていないのだ。傘を持たぬ者は街を走り、持つ者は鮮やかな色を空に開く。そんな中でセルジュだけは、何事もないかのように悠然と在る。その佇みようもまた、腹立たしい。
気を紛らわそうとして、テリィの向かった先を向く。愛すべき主は、窓ガラスの向こうで、顔見知りの店員に頭を拭かれていた。広場を見る。雨粒が乙女像を打っている――おや?
「どうか、君らの抱える謎が解けますように」
声がして、はっ、と振り返る。しかしセルジュの姿はすでに、傘の群れの中に消えていた。
成る程、そういうことか。雨に濡れる像を見て、ワトソンは『それ』を理解した――しかし。それを教えるために、今日ここでわざわざ出会ったというわけではないだろうが、それを差し引いたとしても忌々しい奴め……つい、無意識のうちに舌打ちをしてしまって、負けた、と思った。
根比べはどうも、苦手だ。
温い春雨の中、尻尾を巻いて、主の元へ逃げることにする。