Ⅱ 朝、思考する
――あなたが、怪盗サワァニャン?
――私? 私はね。ええと……
――そう。
――探偵、なの。
*
翌朝。
「ただーいまぁ」
「お帰りなさい」
朝の散歩から帰ってきたテリィを、ワトソンは茶を淹れながら迎えた。
「何か気になることはありましたか? センセ」
「特になさそうだったわ。街はいつも通り、平和そのものよ」
朝の散歩はテリィの日課で、曰く街のどこかに困っている人、助けを必要としている人がいないかを見回っているらしいが、それは探偵の仕事ではなく警察官の仕事ではなかろうか。
ただ、街の皆も、そうして見回りをする鹿追帽の少女を、街の名物のように思って温かく見守っているらしく、よく菓子や食べ物などを差し入れてくれる。「おみやげ。朝市のおじさんが、今日もご苦労様って」と、ワトソンに紙袋を差し出した。
今日はパイを貰ったようだ。いつもなら、早く温めるようにせがむのだが、今日のテリィは。
「女神像。女神像って第四広場の女神像かしら。大きな手を回す彼? 手を回す……?」
昨晩の、謎の暗号文に気を取られているようだ。
唐突にポストに放り込まれた手紙。予告状にもとれる謎の暗号。そして――差し出した者の名前。テリィの気を惹くには充分すぎる要素があった。手紙を受け取った直後、まだサワァニャンが近くにいるかも! さっそく捜査に! と飛び出していこうとするテリィを「夜遅いから」と宥めるのに、ワトソンがどれだけ苦労したかは筆舌に尽くしがたい。
手を回す、手を回すと呟いては、ぱたぱたと両手を振って悩むテリィに、ワトソンは声を掛けた。
「何かわかりそうですか」
尋ねるとテリィは、少し首を傾げて。
「手首の筋肉が柔らかくなったような気がするわ」
「それはよかった」
健康のためには喜ばしいことだ。
――それはそれとして。
ワトソンは自身の上着のポケットから、昨日の『予告状』を取り出して、告げた。
「俺は警察に行ってきますから、先生は事務所をお願いしますね」
「警察? 何をしに?」
「予告状の捜査依頼に決まってるでしょう」
「えー!!」
眉を寄せ、机をばんっと叩いて椅子から立ち上がり、同時に放つは耳をつんざくような声――予想していたがやはりやかましい。耳を押さえてなんとかやり過ごしたけれど、鼓膜を打とうとするものはそれだけではない。さながら波状攻撃のように、今度は抗議の声が飛んできた。
「駄目ー! 駄目よそんなの!」
「駄目も何もありません。怪盗だなんて、探偵事務所で扱える案件を超えています。それに、春の十三日って明後日でしょう。時間もないですし、市民の義務として、通報は速やかに行わないといけません」
予告状を奪おうとしがみついてくるテリィ。その手に捕らえられないよう、ワトソンは腕を高く掲げた。ぴょんぴょん跳びはねて予告状を取り返そうとするが、無論のこと、テリィよりワトソンの身長の方が高い。「駄目です」掲げた予告状は彼女の指にかすりもせず、やがて体力が尽きたのか、諦めた。
その場に座って、しょんぼりと項垂れるテリィ。
雇い主がわがままなのは今に始まったことではないが、どうしてこうもサワァニャンにこだわるのか。そういえば聞いたことがなかったな、と思って、尋ねた。
「なんでそんなに、サワァニャンを捕まえたいんですか」
「もう一度、サワァニャンに会いたい理由があるの」
「……理由?」
「だから、お願い。……ワトソン」
会いたいの。と、潤んだ上目遣いを向けられて。
――ワトソンはまったく、とため息をついた。まったく、この人はずるい。そんなふうに懇願されたら、駄目だと断りにくいのはわかっているだろうに。
まぁ、いい。もう一度ため息をついた。先ほどのは呆れ、今度は諦めだ。
「……わかりましたよ」
「!」
こんな手紙、出した人間はどうせ『ろくでもない』奴だ。
予告状なんて重く考えず、子供のなぞなぞに付き合ってやる、程度の気持ちで臨めばいいだろう。結局解読できなくて諦めてしまうなら、それはそれで、構わない。
「とにかく、手を洗ってきてください。お茶をしながら、暗号のことを考えましょう」
「うん!」
とことことこ――ばたん。洗面所へ向かうため、テリィが奥の戸に姿を消す。
と、同時に。
事務所の呼び鈴が鳴った。
「……誰だ?」
ふと、昨晩のことを思い出して緊張が走る。
しかし昨晩と違っていたのは、扉の向こうに人影があったこと。また、呼び鈴に次いで「ごめんください」と挨拶が聞こえたことだった。その声はよく知っているものであった――が、ワトソンの眉は寄った。あまり相性の良くない相手だったからだ。しかしそれでもその挨拶は知っている人のものだから、聞かなかったふりはできない。軽く目を閉じ一呼吸して覚悟を決めてから、鍵を回す。
扉を開けると、そこには予想通りの人間がいた。
ワトソンよりほんの少し高めの身長に、スーツがよく似合っている。母親譲りであるというやや垂れ目がちの目尻と灰色の瞳はとても穏やかで、しかしその顔立ちとは裏腹に、いくつもの事件を解決に導いてきた勇ましさも持ち合わせているという。
「おはよう。ワトソンくん」
「……朝早くからご苦労様です、セルジュ巡査」
警察局ヴィーアルトン本部に在籍する警察官、セルジュ。所属は警邏刑事部、階級は巡査。実家は資産家だが、なぜ家を継がずに警察官という危険な職業を生業にしているかというと、行方不明の兄を捜すためなのだそうだ。
街じゅうのあちこちに彼の『ファン』がいるこの人のことを、ワトソンもまた、よく知っていた。が。
人々が『優しそう』と称するその瞳、しかし見ようによっては常に周囲を見張っているかのようなその灰色を、ワトソンはどうも好きになれずにいた。
しかし事務所への来客を無碍にするわけにもいかない。愛想笑いを返す。
「どのようなご用件で?」
「いや、いつもの見回りだよ。先生はいるかな?」
今、奥におります――答えるより早く、奥の戸が開く音がした。
振り向けば予想通り、金の髪と青い瞳。腕には黒猫のぬいぐるみ。
「ワトソン、どうしたの。お客様はどなた――にゅっ」
奇声。手を洗い戻ってきたテリィは、セルジュの姿を見るやいなや、目を見開いて硬直した。
テリィとセルジュ――というか、テリィと警察官は基本的に仲がいい。探偵という、あらゆる事件に縁のある職業だからというよりは、単純にテリィの愛想がいいからだろう。彼女はよく人に好かれる性質をしている。また、少女なのに探偵なんて仕事をしている彼女を気に掛けてくれている、というのもあるようだ。
そしてテリィもまた、探偵として、地域住人や警察官とよい関係を築くのは重要なことと考えている。普段の彼女なら、顔を見ればにこにこ笑って寄っていくような間柄だ。だから、今の表情の引きつりよう、挙動不審ぶりは明らかにおかしい。そしてそう思ったのはワトソンだけでなく、セルジュも同様だったようだ。「ああ、やっぱり」と言った。
「今そこで、散歩中のテリィ先生に会って挨拶をしたんだけど、なぜか私から思いきり目を背けたから。何かまた、面倒な依頼を受けているとか、変な依頼人に絡まれているとか、困っていることがあるんじゃないかと思ってね。話をしにきたんだ」
「んめめめめめめめメンドゥーな面倒なメンドゥーな依頼だなんて。だなんて。うち、うちは、うちはそんなものを受けた覚えはございませんなのでしゅよ?」
白いブラウスの右腕をあっちに振り、こっちに振りながら、なんとかかんとか否定を重ねるテリィ。同時に左腕に抱かれたアーサーの首が順調に絞まっていく。ぬいぐるみでなく本物であったら、悲鳴の一つも上げていただろう。ともすれば泡すら吹いていたかもしれない。
アーサーが命ある生き物ではなかったことに感謝しながらワトソンがセルジュを見ると、彼もワトソンを見ていた。笑っているが困ったように眉を寄せている。きっと、自分も同じ顔をしていただろう。
「……と、まぁ。そういうことなんだ」
セルジュが言った。
そわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせながら、呂律の回らない口で紡がれる「問題ないです大丈夫です」の、なんと説得力のないことか。誤魔化そうとしてか「そういえば昨日はあったかかったですねー今日もあったかくなりますかねー暑くて暑くて仕方がないらしくてワトソンが髪を丸刈りにしたいって言い出して困っちゃいましたうふふ」などと勝手かつ適当極まりない妄言は適当に聞き流す。
「どうも、何か秘密にしたいことがあるようだ。私たちには話してくれないようだから、ワトソン君。彼女のことを頼むよ」
「まぁ、助手なので」
雇い主である彼女に危険が迫るのなら、守るのは当然のことである。
するとセルジュは、人々曰く『優しそうな瞳』を歪めて微笑んだ。ワトソンの答えを気に入ってくれたようだ。「うん」と、軽い調子で頷いて――
「君は、『利害が一致したときは』信用できる人間だからね」
ワトソンの笑顔が、引きつった。
――つまるところ。
セルジュもまた、ワトソンのことをよく思っていないということだ。