Ⅰ 宵の口、怪盗
「今日も難事件を解決してきたよ、アーサー」
暖炉の前の揺椅子に座り、膝の上に置いた黒猫のぬいぐるみアーサーをもふもふ撫でるテリィ。それは彼女の気に入りのぬいぐるみで、事務所を閉めたあと、二階の住人共有スペースにある安楽椅子に座り、彼――なのだろう。名前からして――に仕事の報告をするのが、彼女の日課だった。
本日、テリシラット探偵事務所が受けた依頼は猫探し。飼っている猫がいなくなってしまったから探してほしいと、市内のコンドミニアムに住む女性から依頼を受けたのだった。
「依頼主さん、とっても喜んでくれたのよ。にゃんすけも依頼主さんに無事会えて嬉しそうだったし」
「エドゥアルトです、センセ」
「……ワトソンに私の名探偵ぶりも見せてあげられたし。とってもいい一日だったわ」
聞いていない、ふりをしているだけなのはすぐにわかった。声が震えている。とはいえワトソンがここに勤めるようになって、もう長い。雇い主のこのとぼけた性格にももう慣れた。
――ワトソンがこの探偵事務所に住み込みの助手として就職したのは、今から三年近く前のことである。求人情報誌の片隅に載っていた、『三食つき住み込みで探偵助手をしてくれる方、未経験者大歓迎。テリシラット探偵事務所』という広告。
給与は相場に比べればやや低めに設定されていたが、そのときのワトソンはその晩の、またその翌晩翌々晩の、またその翌々々晩の――つまりその先しばらくの寝床も決まっていない状態だったから、悪くない条件だった。
同日昼過ぎに事務所を訪ね、面接。その後採用となり、今に至る。ワトソン自身、様々な職を渡り歩いてきたが、この少女の下で働く穏やかな毎日は『一点を除けば』さほど悪いものではない――
――暖炉の前の温かな席で、テリィはうーん、と大きく伸びをした。
「だけど、依頼が猫探しとか、落とし物探しばっかりっていうのもね」
探偵事務所と銘打ってはいるが、基本的にはこの事務所に持ち込まれる依頼は『街のお手伝い屋さん』と言ったところだ。テリシラット探偵事務所の所長が十七歳の少女であることは街の皆に知られているし、そんなところに厄介ごとを持ち込もうと考える人間はそうそうおるまい。そもそも重大事件なんて、起きたとしても警察局の仕事だ。
うにゅうにゅうにゅ、とテリィの口が動く。あくびを噛み殺したようだ。
「ワトソン、あなただってそう思うでしょう? 何かこう、大事件が起きないかなぁって」
「俺はそこそこ楽しいですけどね」
ワトソンは眼鏡の位置を直し、手元のファイルをめくった。解決済みの依頼書を閉じたファイルだ。猫探しや失せ物探しから始まり、近所の赤ん坊の子守り、犬の散歩なんていうものもある。
その中の一ページで手を止めた。
「この間の、猫を追いかけて垣根に嵌ったセンセの姿なんて、屈指の面白さでしたし」
「そういうのじゃなくて!」
「垣根から頭だけ出して『私ここで干物になるのかしら……』『私おいしい干物になれるよう頑張るから、猫ちゃんに食べてもらえたら幸せよ……あっでも猫ちゃんはお魚の干物しか食べないかしら……』ってさめざめ泣いているセンセの姿は、物陰から軽く一時間半は眺めていられるレベルの面白さでした」
「そういうのじゃな……だからあのとき助けにくるの遅かったのね!?」
「なので俺の心配はしなくていいですよ、センセ」
テリィの下唇がきゅっとつり上がった。機嫌を損ねたときの彼女の癖だ。
「とにかく、そういうのじゃないわ。事件よ、事件。たとえば、そう、怪盗サワァニャンとか」
怪盗サワァニャン――
その名を聞いた瞬間、自然とワトソンの眉が寄った。それは、しばしばこの統都を騒がす怪盗の名前だ。黒いマントに黒いシルクハットで闇を駆け、予告状を出しては高価な美術館やら絵画やら、宝石やらを盗んでいくという謎の窃盗犯。目撃者の話によると、シルクハットにはなぜかふざけた猫耳がついていて、こちらも黒い色をしている。
そしてこれが、ワトソンが現職に不満を持つ『一点』でもある。我が主テリシラット女史は、その怪盗にご執心なのだ。いつかそれを捕まえることを彼女の探偵人生の目標としているそうで、暇さえあればサワァニャンの話をし始める。彼女の大好きなぬいぐるみアーサーも、露店で「サワァニャンみたい!」と一目惚れして購入したのだという。
しかし。ワトソンはここに就職してから彼女に何度となく言った言葉を、また繰り返した。
「あいつ、最後の犯行って確か三年前でしょ。サワァニャンの歳は不明ですけど、もう壮年って説もあるみたいだし、どこかでのたれ死んだんじゃな」
「そんなことないもん!」
ぶんぶんかぶりを振った。
「サワァニャンは生きてるわ! 私が捕まえに来るのを待ってるはず!!」
それは単なる彼女の希望ではないか。やはりいつもと同じことを言うテリィに、ワトソンは内心でため息をついた。
テリィが怪盗サワァニャンに執心するのには、理由があった。というのも、テリィ曰く、彼女はかつてサワァニャンと対峙したことがあるのだそうだ。ワトソンがこの事務所に就職するより少し前のこと。耳にたこができそうなほど繰り返し聞かされた、彼女の思い出。繰り返すたびにさらなる脚色がなされているように思えるのは、気のせいではないはずだ。
そして今宵も、彼女の思い出語りが幕を開ける、かと思いきや。
話はまた遮られ、テリィがふと顔を上げた。ほぼ同時に、ワトソンが椅子から腰を浮かす。階下の呼び鈴が鳴ったのだ。
「来客ですかね……こんな時間に?」
「誰だろうね?」
ぬいぐるみを抱いて椅子から立とうとするテリィを、ワトソンは手で制した。早春とはいえ、ヴィーアルトン市の夜は暖房がなければまだ寒い。それに、
「俺が行きます」
来客の対応は、まず助手がすべきだろう。
鳴らされた呼び鈴は、一階玄関の外に設置したものだ。住人共有スペースを出て、階下へ向かう。三階建ての貸し物件であるこの家は、三階全てがテリィの占有空間、二階がワトソンの占有空間と住人共有スペース、そして一階が探偵事務所となっている。
一階に着く。洋灯を点ける。扉に近づき、声を掛ける。
「どちら様ですか? あいにくと、本日の営業は終了しておりますが――」
返事はない。ガラスに映る影も、ない。
扉を開けてみるけれど、やはり誰も――
「ん?」
ただの悪戯か、と思いかけたときそれに気づいた。
玄関脇の郵便ポストからはみ出した、白い――用紙?
夕方、事務所を閉めるときにはなかったはずだが、いつの間に。
怪訝に思いながらポストから抜き取ると、それは名刺より少し大きいくらいの封筒だった。差し入れた角度の関係で、完全に落ちきらずポストの入れ口に引っかかっていたようだ。矯めつ眇めつ眺めてみるが、事務所の住所も、宛名も、差出人の名前もない。
「なんだこりゃ……」
封筒のペロに触れてみる。糊づけもされていなかった。
中に入っているのは、一枚の厚めの用紙。メッセージカードだろうか、何が書かれているのだろう。しかし、どう見ても胡散臭い。少なくとも、チェックもせずあのとぼけた主に渡せた代物ではない。
彼女に渡してもいいものかどうか、中身を改める必要がある――
「ワトソン?」
しかし。
――聞こえた声に、心の内で舌打ちをした。
時間を使いすぎた。さっさと二階に戻り、自室に引っ込んで、そこで中身を確認するべきだった。自分の判断を悔やむが、すでに遅い。振り返れば思った通り、くりくりとした碧眼がこちらを見ている。
ぬいぐるみの尻尾をいじりながら、首を傾げる。
「様子を見に来たんだけど。お客様はお帰りになったの?」
「あ、いや……」
「それは何?」
目敏く、封筒を見つける。こうなってしまっては、彼女の好奇心からは逃げられない。呼び鈴で玄関に出てみたものの来客の姿はなかったこと、ポストにこの封筒が入っていたことを伝え。
取り出すようにと指示をするので、いかがわしい内容でないことを祈りながら中の厚紙を取り出し、ひっくり返すと――
そこには。
やけに整った筆跡で、短い文章が書かれていた。
春の十五日、地を求める乙女像が涙に姿を隠すとき。
大きな手を回し続ける彼の者の下で、お目にかかりたくございます。
怪盗サワァニャン