本田と峰の関係
12月から年末年始にかけて全国の予備校は、忙しさの極みを迎える。あと1ヶ月に迫ったセンター試験に追い込みをかける受験生と、来年度の受験のために早くから準備に取りかかろうとする2年生でごった返すからである。受験生は一旦私学や国公立の対策を横に置き、基礎英単語だの、sin cos tan だの、金剛力士像がどうたらこうたら、中にはコール無担保モノの0金利について知ったように語る学生なんかがいるしまつ。あるいは、センター英語を1時間以内で解ききったことを自慢するものばかりだ。2年生に関しては、入学試験の結果を見て、ある種の絶望を味わい、校舎の人間から、1年間にすべきことを列挙され、さらなに奈落の底につきつけられたりしている。予備校にとっては、合格者を多く出すためのスパートをかけると同時に、新受験生の囲い込みに躍起になる時期である。そんな師走であるから、バイトの大学生も普段より多く待機している。
「峰先生ー、ベンゼンの置換がわからないから教えてくださーい」
ここの予備校は、オンデマンド授業が基本なので講師はいない。東京のスタジオで事前に収録された、あるいは一部の対面授業を行っている校舎の録画を、インターネットを通して配信しているのだ。峰と本田の校舎は、オンデマンドのみを扱っており、受験を経験した大学生が、彼ら彼女らにとっての先生になる。
「はーい、今、小谷さんに数学教えてるから、5分待って」
「えぇー先生分身したらいけるやろー」
「努力はしてみるけど、無理やったら英単語覚えながら待ってて」
「職務怠慢だわー本田先生は?」
「ごめん、私、私学文系なんよ」
基礎を復習していると、思わぬ落とし穴に出くわすことは多々ある。駅地下の小さなビルの4階に、緊張感と虚脱感が入り混じった声が木霊する。
受験生の先輩として、すぐにでも教えたい気持ちは山々なのだが、先約はいるし、そもそも受験科目でなかったりするので、この時期は手が回らない。師走とはよく言ったもので、一年前の知識が、頭の中を駆け巡る。
午後の6時ぐらいから溢れかえっていた小さな学び舎も、10時半を過ぎたころには、半分以下まで減っていた。1つ2つ授業を受けて、すぐに復習をして、あとは各自の勉強をする。それがこの予備校の生徒の基本パターンだ。それぞれが自分のルーティーンを片づけ終えるのが、だいたい10時半ぐらいで、女子はそれぐらいにはだいたい帰宅する。あとは、男子が下ネタの話をしたり、バイトの先輩をからかってみたりと、しばしの羽休めをするものもいれば、11時まで自習室にこもる熱心な学生もいる。受験への挑み方は人それぞれだ。
「峰先生、ゴミの出しと回収お願いします」
「わかりました」
10時半も過ぎれば、生徒が少ないこともあってスタッフ陣も締めの作業に入る。カン・ビン・燃えるゴミと分別させたゴミを所定のやり方で、片していく。自習室の手前に設置されているゴミ箱の中を回収しながら、いつかの自分の姿と重ね合わせる。
「俺も3年前はこうして遅くまで勉強してたなー」
いつもの定位置、山積みになった参考書、お尻を硬いオフィスシートから守るための低反発の四角いクッション。それら、浪人時代の苦しくも、いや苦しかったからこそ、未だに鮮明に思い出せる風景が、脳裏を闊歩する。
「峰くん、手伝おうか?」
知らず知らずのうちに、手を止めて物思いにふけっていたのを気づいたのか、同期のしかし年は一つ下の本田が声をかけてきた。
「ありがとう、でももう終わったよ」
「そっか、ならいんだけど。じっと部屋見てたから」
「あぁ、少し受験生の時思い出してたのよ。ほら、僕2年も居座ってたから。」
「んーまぁ人生で一番大変だったよね。私もたまに思い出すの。今やれって言われても無理(笑)」
「無理だね。でもなんかこう、あんなに勉強したことが、無駄になるんじゃないかって」
「と、言いますと?」
「就活」
「あぁ、思い出したくない。峰くんどこの業界とか決めてるの?」
「ほら、話してないで上に戻る。高橋くん待ってるよ」
タイミング悪く、自習室の様子を見に来た塾長に咎められた。
「あ、はい、すいません」
塾長が自習室に入ったのを見計らって、
「ごめん本田さん、またあとで」
「うん、終礼終わったらね」
バイトの身分で怒られることはないが、峰の正直さ素直さ故に、本田にも塾長にも、もちろん高橋にも申し訳なくなる。本田は、元々3階に降りて来た理由である、生徒の棚の整理に取り掛かった。峰もそのままゴミを回収して、1階のゴミ置き場に捨ててから、4階に戻った。そうすれば案の定高橋が、
「先生遅い、このビルゴミ屋敷なの」
「ごめんごめん、ちょっと思い出してた」
「何を?」
「自分の受験生時代を」
「ふーん、まぁいいや時間ないし、タードのp.87、数列の問題マッハで教えてください」
ちらっと時計を見ると、すでに長針は9を指していた。先約がいたとはいえ、約15分も待たせている。この時期の受験生にとっては、人間の三大欲求の時間を割いてでも捻出したい15分だ。そのことへの贖罪の意味も込めて、今度は違う思い出が頭の中を疾駆する。大丈夫15分で教えられる、まだ思い出は鮮明なままだ。
最後の生徒を見送ると、他の会社でも行っているように、毎日終礼をする。内容としては、各生徒の単語や授業の進捗状況、特に注意の必要な生徒の話は、毎日のように議題に上る。今日は〇〇君は、ちゃんと授業を受けていただの、〇〇さんは単語テストが遅れ気味になっているだの、事細かに話す。社員側特に塾長からすると、生徒だけでなく、自らのノルマに関わる話なので、より敏感になっている。
あるいは、新年は始業式の日にどこの高校にビラ配りに行くだの、会計実績だと、内密な情報も共有する。普段から、生徒とよく触れ合っている峰や本田、講師陣にとっては、ある意味一番仕事を思い出す時間かもしれない。たとえどれだけ生徒が質問してこようが、たとえどれだけ自分の受験生時代を思い出そうが、そこにはやはり見えない壁がある。お金を払う側からお金を受け取る側、顧客から従業員、あるいは子から親へと繋がる一連の、しかしどこかで反転してしまっている鏡のような障壁。手を伸ばせど触れられず、追えど捕まらない虚像である。
たったの10分にも満たない、しかしモーセの十戒のように強烈な洗礼を受けた後、各々帰り支度をする。
その帰路、校舎の入っているビルから最寄りの駅まで徒歩約5分の道のりを、峰と本田が一緒に歩いている。バイトではスーツでの出勤が義務付けられているので、自ずと帰りもスーツだ。峰は黒のジャケットとスラックスに白のシャツ、赤のネクタイを締めて、その上から深いグレーのコートを羽織っている。本田は、色は黒だが、パンツではなくスカート。寒さ対策のパンプスも黒く、白いのはシャツだけ。もちろん厳冬ということもあって、黒のコートを身につけている。
帰り道は、マンションとマンションの合間を縫ってできている細道を、道のり通りに歩く。時折、アパートの一室で個人塾を解放しているらしい張り紙や、大学生用と思わしきアパートの一室からこぼれ出ている光が目に入る。真っ暗という訳ではないが、月明かりがいくらか夜道を照らすのに役立っている。静寂に包まれた住宅街にはふさわしくない足音を鳴らしながら、2人は歩いている。いくらか不安を煽るような外景の中、峰が話しかける。
「さっきの話だけど、まだ業界とかはあれだけど、S商事とかT証券とか受けてみようなーって。僕の学部から結構入ってるみたいで」
「へーすごーい。」
「すごくないよ、僕が受かったわけじゃないし」
「でも、ちゃんと考えているんだなって。私まだ何もしてないから」
「前の、ガイダンスには参加したんでしょ?」
「したけど、よくわかんなかったの。防戦一方って感じで」
「なんじゃそりゃ。」
四方を閉鎖されたくらい夜道の雰囲気がそうさせるのか、お互い乗り切れないトーンで会話を続ける。特段に暗い話をしているわけではない、むしろ将来を見据えているという点では、明るい話なのかもしれない。しかし、学生から社会人になる、いわゆる大人の階段を登ろうとしている二人からすれば、決して気楽にできる話でもない。小・中・高・大と上がって来た時は、扶養控除の対象にも慣れたし、学割も効いた。問題を起こしても、誰かが解決してくれた。今まで当たり前のように生かされてきたのが、社会人になるだけで、全ての責任を負うことになる。ミスをすれば減給になるかもしれない、仕事を覚えられなければクビになる。仕事のない社会人はニートや無職といった烙印を押される。そして誰もそこから引き上げてはくれない。全ては自分の責任。自分の足で生きていかなければならない。そんな途方もなく、しかし全ての人間が強いられる苦役を享受しなければならない。
そんな、社会への不満をわずかでも晴らすには、苦役を楽しもうとする気構えしかない。楽しい仕事、やりがいのある業務。蜃気楼をオアシスと錯覚するかのような自己暗示をかけなければならない。そのために今できることが就職活動たるもの。同じ不安を抱えているだろう同士に向けて峰は、提案のつもりで聞いてみる。
「もし、わからなくて迷っているなら、今度一緒にやらない?」
「何を?」
「就活会議ってのをする予定で、みんなで助け合いながら準備していこうみたいな。」
「おもしろそうだけど、私が行っていいの?」
「もちろん。同じ学部の崔って奴と企画してて、なるべく違う学部の人を誘うつもり。男女も混合にして、就活仲間として助け合う。そんな感じ。」
「私、友達多くないし、それ助かるかも。いいの?」
「もちろん。なんなら、1人ぐらい他に誘ってもいいよ。ていうか誘ってきて」
「え、私、今友達少ないって言ったところ」
「できればでいいから」
「う、うん、わかった。同じように悩んでいる人いたら声かけてみる」
そうこうしているうちに、二人は駅の側まで着いていた。二人が心の中に抱く真っ暗な闇とは対照的に、スナックや居酒屋、ファストフード店の明かりが眼球の奥底まで差し込んでくる。地方の町とはいえ、駅前だけは無駄に明るい。客引きに勧誘されている酒で出来上がったサラリーマンを見ていると、ああはなるまいという思いがこみ上げてくる。それと同時に、どんなに努力しても、人はいっときに快楽を求めねばならないほどに、社会に出たら疲弊してしまうのではないかという不安が押し寄せてくる。
「じゃぁ僕は上り行きだから。また何か決まったら連絡するよ。お疲れさま」
「うん、お疲れさま。」