私が見守る魔王な奥さまの逃避行
《天は伏せ、地は崇めよ!》
奥さまは泉の縁に佇み、高らかに唱えます。
《深淵に棲まう神霊達よ、来たれ、集え、我が命に応えよ!》
そして奥さまの前に置かれた洗い桶が、煌々と光を放ちました。
「奥さま、今のは?」
洗い桶の中には、旦那さまのシャツが詰め込んでありました。
光の消えた洗い桶を眺めながら、私は奥さまに尋ねます。
「うむ、これこそが先日開発した家庭用禁呪の一つ」
奥さまは胸を張り、高らかに告げます。
「怨素漂白術だ!」
奥さまはシャツをじっくりと見詰め、満足げに頷きます。
「うむ、実験は成功だ。襟元の黄ばみが見事に消えたな!」
それだけではありません。シャツ全体が、まるで新品のように真っ白になりました。
「さすがは奥さまです」
「であろ? であろ?」
奥さま、得意の絶頂です。まるで我が世の春が来たと言わんばかりです。
「主婦が衣類の染み黄ばみと戦ってはや幾星霜。有史以来、数多の主婦達が挑みながらも叶えられなかった悲願が、ついに成就したのだ! 道半ばに斃れた先人たちよ照覧あれ! 汝らの無念は、この偉大な魔王たる余が――――」
「奥さま、お声が高うございます」
「おっとそうだった」
奥さまは口元を手で押さえ、そっと右手の方角を見やります。
木立の向こう側が今日の野営地で、旦那さまが食事の準備をしているのです。
魔王云々のセリフが聞こえたら大変です。
「さて、取り出す前に解呪っと」
「解呪ですか?」
「うむ――――うかつに触れると呪われるからな」
さらっと物騒な事実を呟き、奥さまはムニャムニャと呪文を唱えます。
「これで怨素が中和したはずだ。見るがいい、我ら主婦の勝利の証を!」
水桶から取り出したシャツを、奥様は戦旗のごとく掲げました。
風に煽られて、シャツは天の青さに映えてはためきます。
「これで旦那さまの男振りも、一段と引き立つであろう!」
莞爾として笑う奥様の手の中で、シャツはボロボロと崩れ去りました。
そんなことだろうと思いました。
「…………いささか改良の余地があるな」
ぼろ屑と化したシャツを手に、負け惜しみをほざく奥さま。
「いえ、改良でなく抜本的に見直したほうがよろしいかと」
呪われてしまう洗濯方法とか、間違っている気がします。
「おーい、ローズ! メシの準備ができたぞー」
野営地の方向から、旦那さまの呼び声が聞こえました。
「はーい! いま参ります!」
いささか意気消沈していた奥さまが、一転して元気になります。
足取りも軽く、奥さまは旦那さまの元へと駈け出すのでした。
そして泉の縁には、ぼろ屑と化したシャツの山が残されました。
奥さまの名前はローズ、旦那さまの名前はユリエス。
どこにでもいそうな、若い夫婦に見えるでしょう。
しかし奥さまには、旦那さまに内緒の秘密がありました。
奥さまの正体は、魔王ヘリオスローザだったのです。
◆
お二人はただいま、絶賛逃亡中です。
旦那様はとある国の聖騎士だったのですが、先日出奔したのです。
元はといえば国王が、旦那さまに王女を降嫁させようとしたのが発端です。
そんな横紙破りが通じると思われたのも、奥さまが魔族を名乗っていたからでしょう。
しかし旦那さまは、王女より奥さまをお選びになり、国を出ていくことにしました。
まあ、当然と言えば当然の選択ですが? でも多少は旦那さまを見直しました。
性欲だけではない男らしさもあったのですね。
しかしながら一国の王女を袖にしたのです。王家の面目は丸潰れでしょう。
遠からず、追っ手が掛けられるのは必定です。
国家権力を相手に、若い夫婦が手に手を取っての逃避行。
物語であればどれほどの困難が待ち構えているのかと、固唾を呑んで見守る展開です。
しかし奥さまと旦那さまは、実に暢気に逃亡の日々を送られていました。
「どうかな、ローズ。魚の焼き加減は?」
「ええ、とても美味しいですわ、あなた」
「ほら、口元に食べかすが」
「え――――ンチュッ!?」
「うん、ちゃんと焼けているね」
「…………もう、あなたったら」
旦那様が釣った魚をおかずに、お二人は楽しく食事をしております。
――――それにしてもなんでしょうか、この魂の奥底から湧き上がる黒い感情は。
まるで新婚に戻ったかのような仲睦まじい様子を拝見していると、破壊衝動に身を任せ、辺り一面を焼け野原に変えてしまいたくなります。
実に不思議ですね――――けっ
私を感知できない旦那さまは仕方ありません。
ですが奥さま、完全に私の存在を忘れてますよね?
「ごめんなさい、あなたのシャツがぜんぶダメになってしまって」
「ローズはおっちょこちょいだからな」
着替えをぼろ屑に変えられたというのに、旦那さまは笑顔です。
旦那さまは器が大きいというか、底が抜けているようなところがあります。
奥さまのどんな失敗を入れても、ザバザバと漏れてしまうのです。
「でも、明け方はまだ肌寒いのに」
「ローズが隣にいてくれれば、寒さなんて気にならないさ」
「…………もう、旦那さまったら」
誰でもいいです。
こいつらを、どうにか、して頂けませんか?
◆
お二人は、そろそろ人里に立ち寄ろうと相談されました。
これまでの道程は、予想される追っ手を撒くために間道を進んできました。
荷馬車を二頭のロバに牽かせ、のんびりとした旅路です。
街道を外れて人目を避けてきたのですが、当然ながら宿場町はありません。
野宿は平気なお二人でしたが、食料の補給がままなりません。
人里に立ち寄り、人間用の食料とロバの飼料を購入しようと相談をまとめました。
しかしお二人は、人里がどこにあるのか、まったくご存じありません。
とにかく進んでいけばいずれ炊煙が見えるだろうと、暢気に構えています。
ズボラな似たもの夫婦に呆れ果てた私は、上空で周囲を遠望しました。
そうしてとある村を発見した私は、奥さまに報告したのです。
私がいなければどうなっていたか。まったく困ったものです。
「そうした恩着せがましい物言いの結果が、この寒村か?」
まあ、多少の手違いはありました。
その村にいるのは女子供と老人ばかり。働き盛りの男達の姿が見当たりません。
明らかに食糧事情が悪そうで、誰もがやつれて元気がありません。
飢餓の三歩手前といった感じでしょうか。
村の長老を捕まえて問い質せば、なんでも領主が隣の領主との小競り合いのため、戦えそうな男達を根こそぎ引き連れて行ってしまったそうです。
さらに滞陣が長引きそうだと、後から食料まで徴発したそうです。
そのおかげで村は、今は糊口をしのぐのがやっとの有様のようです。
「…………まずいな、これは」
奥さまが嘆息しますが、はて?
「食料を調達できないのでしたら、さっさと立ち去ればよいのでは?
「たわけ、あれを見ろ」
奥さまが指さす方向では、旦那さまが村を見回していました。
その口元は引き結ばれ、眼差しは悲しそうです。
「ああ、旦那さまのご病気ですか」
「旦那さまは村のあり様に心を痛めながらも、ご自分が無力であることを悟っているのだ」
たしかにどれほど剣の腕が立っても、村の窮状を救う役には立たないでしょう。
しかも聖騎士の地位を捨てた旦那さまでは、一介の庶民でしかないのです。
「だったらすっぱりと諦め、気持ちを切り替えてしまうべきだ。まあ、それをできぬのが旦那さまの旦那さまのたるゆえんなのだがな」
やれやれと、奥さまは肩を竦めて苦笑いです。
奥さまが旦那さまを促し、お二人は村から立ち去りました。
旦那さまは荷馬車には乗らず、ラバの手綱を引いてトボトボと歩きます。
肩を落とした頼りない後ろ姿を、荷台に乗った奥さまが見守ります。
旦那さまはずっと、奥さまと目を合わせようとしません。
もし視線が交われば、その想いが伝わってしまうのを恐れているのでしょう。
旦那さまの頑なな態度にしびれを切らし、奥さまはとうとう声を掛けました。
「戻りましょう、旦那さま?」
奥さまの言葉に、旦那さまはようやく振り返りました。
「ローズ?」
「戻って、村の方達に力を貸してあげましょう」
「いや、それは――――」
旦那さまに村の窮状を救う手段はありませんが、奥さまは違います。
奥さまが魔王であることを、旦那さまはご存じありません。
しかし稀代の魔法使いであることは承知しています。
「結婚の時、旦那さまはわたしに力を隠すようにおっしゃいました」
奥さまは微笑しながら、往時の出来事を語ります。
「わたしが世間から疎まれたり、王家からその力を危険視され、利用されないようにするための配慮だとおっしゃいました」
奥さまは荷台から降り、旦那さまに近寄ります。
「ですが、もうよろしいのではないですか? 国を捨てたからには、誰をはばかることもありません。旦那さまが困っている人を助けたいと望むなら、この力を存分にふるいましょう」
しばらく考え込んでいた旦那さま、頭を下げました。
頼むと、ただ一言だけ告げて。
そして進路を変えた荷馬車の上で、奥さまはほくそ笑みました。
(何がそんなに嬉しいのでしょうか?)
私が思念で問い掛けると、奥さまは上機嫌に返しました。
(ふふふ、これで旦那さまは、余にますます依存するであろう?)
(はあ)
(美しい上に頼りになるとなれば、ますます余にめろめろだな!)
(…………めろめろ)
(これで余の復讐に、また一歩、近付いたわけだ!)
(あっ!? その設定、まだ有効だったのですか!)
(…………なんだ、設定というのは?)
奥さまが旦那さまと結婚したのは、過去に受けた屈辱を晴らすため。
いつか旦那さまが奥さまに身も心も奪われた時、魔王の正体を明かして離婚する。
それが奥さまの主張する復讐です。そういう建前がなければ、魔王である自分は旦那さまと一緒にいられないと、思いこんでいるのでしょう。
実に面倒な奥さまです。しかし私は忠実な臣下、もちろん奥さまの主張に迎合します。
(あーはいはい、めろめろでございますね?)
(どことなく投げやりだが、まあいい)
流さないで、ぜひ問い詰めて頂きたい。
そうすれば、いったいどちらが相手にメロメロなのか、言上つかまつりますので!
村に戻った奥さまは、まず村中を歩き始めました。
時折、手にした杖で地面を突きながら、ブツブツと呟きます。
そんな奥さまの後ろを、旦那さまがニコニコと笑いながら従います。
旦那さまの視線は、奥さまの揺れる腰辺りに釘付けです。
そんなお二人に好奇心を掻きたてられたのか、村の子供達が一人、二人と集まります。
やがて十数人の団体になった奥さま達を、村の大人達は不思議そうに眺めます。
一通り村を観察し、目算を立てられたのでしょう。
方向転換して村の外れに向かうと、そこにある一抱えもある岩の上に立ちました。
旦那さまと子供たちは、奥さまの指示でだいぶ離れた場所から見守ります。
「そもそもこの村が貧しいのは、慢性的な水不足が原因のようだ」
奥さまは語りながら、何かを確かめるように岩を杖で突きます。
言われてみれば、近くを流れる川は細く、水量も乏しかったようです。
「それに当面の食料問題も解決しなければならん」
どうやら奥さまは、岩の反響に聞き入っているようです。
「その二つを何とかすれば、問題の半分は解決だ」
奥さまが作業している時、旦那さまと子供たちの声が風に乗って聞こえてきました。
距離はありますが、私は造作なく声を拾うことができます。
「お姉ちゃん、何をしているの?」
「村のみんなを助けるために、これから魔法を使うんだ」
「あのお姉ちゃん、魔法使いなの!?」
「すごいや!」「ねえどんな魔法なの!」
「すごい魔法だよ、きっとね」
口々に問い掛ける子供達に、旦那さまは絶対の信頼と誇りを込めて答えました。
「なんたってうちの奥さんは、世界で一番素敵な魔法使いなんだ」
奥さまの口元が、にやけそうになるのを我慢して痙攣しています。
どうやらこっそり聞き耳を立てているようです。
「奥さま、集中力が乱れていますよ?」
「分かっておる!」
そして奥さまは、杖を高々と掲げてから、一気に足元の岩を突きました。
ドンッと、地鳴りがしました。
奥さまを中心とした地面が陥没し、奥さまは岩と一緒に落下しました。
音と揺れで悲鳴を上げる子供達を、旦那さまは抱きかかえてなだめます。
陥没した地面は、家屋数戸を呑み込めそうな深さと広さがありました。
岩ごと着地した奥さまは、ふたたび杖を掲げて岩を突きます。
遥か地下深くで、何かが割れるのを私は感知しました。
奥さまが手をゆっくり縦に振り上げると、地下から振動が伝わってきます。
しばらくしてから奥さまは、トンと岩を蹴りました。
その身体は陥没した地面を軽々と飛び越え、旦那さまの隣に降り立ちます。
「お疲れさま、ローズ」
「ま、まだ終わっておりません!」
気の早い旦那さまに抱きつかれ、奥さまは狼狽します。
「続きがありますから、旦那さま!」
離してくれと抗議しながらも、ちゃっかり旦那さまの胸に頬をすり寄せます。
いちいちイチャイチャしないと、気が済まないのでしょうか、この二人は?
ほら、周りで子供たちが見てますよ?
ようやっと離れた奥さまが、陥没した地面の底の岩を見下ろします。
「…………水が」
ぽつりと旦那さまが呟きます。
そう、岩の下の地面に水が染みだし、泥になってきました。
それを満足げに確認した奥さまは、移動を開始しました。
手にした杖で地面に線を描きながら、村の畑の一番外側を歩きます。
先ほどの音で、村人達が集まってきました。
何事かと奥さまに付き従うもの、陥没した地面からわき出す水に驚くもの、
村中、大騒ぎになりました。
奥さまの周りには子供たちが群れています。どの瞳も、奥さまへの称賛に輝いています。
奥さまは一顧だにせず、すまし顔で地面に線を引いています。
ですが内心では、子供達の注目を浴びて得意になっていることでしょう。
ひた隠しにしてますが、奥さまは大の子供好きです。
魔王城にいた頃は、小間使いの見習い達に、よく手製の菓子や料理を振る舞っていました。
そうやって甘やかすので、侍従長からお小言を頂戴していたぐらいです。それでも奥さまは、貧しい家から奉公にあがる、やせ細った見習い達をぷくぷくに太らせては喜んでいました。
子供を太らせて喰らう魔王の童話は、奥さまが由来だと言われております。
さて、村の外縁に沿って歩き続けた奥さまは、水が湧き出した場所から、ちょうど村を挟んで反対側に到達しました。
そこには岩はありませんでしたが、奥さまは杖を地面を突きました。
先ほどと同じように、地面が陥没しました。
目の前の出来事に大人達は口をあんぐりと開け、子供たちは拍手喝采です。
奥さまは、宙に浮いておりました。空中を歩き、旦那さまの元に戻りました。
その日の作業は、それで終了しました。
二日目、水の湧き出した陥没は、立派なため池になっていました。
それだけではありません。奥さまが地面に引いた線に沿って、水路まで仕上がっています。
水路を湧水が通り、村の反対側に作ったため池に流れ込んでいます。
水路を作ったのは、奥さまが夜中に召喚した、巨大オケラです。
驚きを通り越した大人達と、水路に飛び込んではしゃぐ子供達。
しかし、遠慮と自重を失った奥さまは、この程度では止まりません。
昨夜、子供達に囲まれて、珍しく旦那さまそこのけではしゃいだ奥さまです。
子供達に良いところを見せようと、完全に歯止めが壊れました。
湧水が流れ込むため池の縁に立つと、天に向かって杖をかざしました。
上空で風が唸ります。そして雲一つない空から、ぱらぱらと何かが降り注ぎ、ため池に落ちていきます。
ため池から外れて落ちたそれは、ビチビチと地面を跳ねまわりました。
魚です。手のひらほどの緑色の魚が、ため池と地面に降り続けます。
どうやら魔王領の魚を召喚したようです。
大人も子供も歓声をあげ、魚を拾い集めました。
◆
翌日の昼前に、私と奥さまは空を飛んでいました。
村長の家の一室で休養をとる振りをして、こっそり抜け出したのです。
旦那さまは、昨日の魚を燻製する作業に駆り出されました。
奥さまばかり働いて申し訳ないと思ったのでしょう。
なかなかの手さばきで魚を処理していました。
「あの村を納める領主は、干ばつの影響で大きな被害を受けたようです」
私はこれまで集めた情報を奥さまに報告しました。
「それを知った隣の領主が、手勢を集めたのが発端のようです」
「境界線争いだったか?」
「はい。その西隣の領主も干ばつの被害を受けたようですが、こちら側よりも軽微だったようで」
「手勢をかき集め、圧力を掛ければ譲歩すると思ったのだろうな」
「戦わないで、ですか?」
奥さまは杖で顎を突っつきながら、考え込みます。
「多分だがな。西の領主は手勢を集めれば、東の領主も対抗する。しかし東の領主は干ばつの影響で食料不足だ。滞陣が長引けば、有利な条件で交渉がまとめられると踏んだのだろう。しかし東の領主は、なけなしの食料を村から徴発しまで踏ん張っているわけだ」
「この荒れ地に、そんな価値があるのでしょうか?」
眼下には、石くれだらけの荒野が広がっています。
そこには双方合わせて三〇〇名ほどの軍勢が、互いに睨み合っています。
人間が畑を耕すために土地にこだわるのは知っていますが、ここで農耕するのは大変そうです。
「領主ともなれば、土地の問題は重要だ。単に収益だけではなく、領地の広さによる貴族としての格付け、他の領主からも舐められないように面目を保つとか、色々あるんだ。そのためには」
「そのためには?」
「領民に犠牲を強いても、将来の権益を守るのが領主だ」
難しいお話です。殴り合いで白黒つける魔族や獣族とは根本的に違うようです。
それにしても、やはり魔王さまはすごいです。
そんな些末な人間事情にまで、推察が及ぶのですから。
しかしなぜ、両陣営が対峙するど真ん中に降り立つのでしょうか。
てっきり強襲して、両陣営を壊滅させるのかと思いましたが。
「しかし、迷惑極まりない」
奥さまの声が、冷たく響きます。
「旦那さまとのせっかくの観光旅行が、台無しではないか」
あ、やっぱり。奥さまにとってこの逃避行は、その程度の扱いだったのですね。
それはそうでしょう。王都からの追っ手など、本来は恐れるほどもないことなのです。
人間である旦那さまは、かつての同僚や部下が相手ではやりづらいでしょう。
しかし魔王である奥さまや私には、そんな遠慮など皆無です。
追いすがる追っ手を、こっそりしばいてしまえばいいのです。
「…………新婚旅行など、近場の温泉地だったんだぞ? しかもたったの三泊四日」
またもや奥さまが、杖で地面に線を引いて歩きます。
しかし恨みがぶり返したのか、手に力がこもり過ぎて土をえぐっています。
「いかに聖騎士が忙しいとはいえ、ひどくないか? 一ヶ月ぐらい休暇があれば、名所旧跡巡りとか、風光明媚な観光地とか行けたのに」
ブツブツと呟く奥さまですが、ちょっと疑問に思いました。
「期間はともかく、場所などどこでも同じではないですか?」
「なぜだ! 一生に一度の新婚旅行だったのだぞ!」
「だってお二人とも、部屋から一歩も出なかったではないですか?」
奥さまが、ピタリと口をつぐみます。
「部屋に結界をして私を締め出し、ずっと閉じこもりっきりで。温泉地にも名所はありましたのに、もったいないなと思いましたよ?」
「―――――」
「ですから、場所がどこでも、関係はないなと。あ、そういえば」
私は奥さまの耳元に囁きます。
「あの時、部屋でなにをされていたのですか?」
奥さまの影が伸び、私を捉えようとします。
私は逃げ回りながら、周囲を見回しました。
境界線を歩く奥さまに、両陣営も気が付いたようです。
騎士やら兵士が遠巻きにこちらを眺めていますが、近寄って来ようとはしません。
奥さまの影が、まるで黒い炎のマントのように、周囲の空間を斬り裂いているからでしょう。
というか、今日の奥さまの戯れは、ちょっとしつこいです。
そうこうしている内に、奥さまは両陣営の間を横断されてしまいました。
「あ、地割れでも起こして、境界線を無理やり作るのですか」
「…………」
「拗ねないで教えてください」
奥さまは杖を傍らに捨てると、両手を広げました。
「単に地形的な境界線では、土地に執着する人間を押し止めることはできないかもしれん」
奥さまはパンと手を打ち合わせました。
大地が鳴動しました。
先日の魔法とはけた外れの地揺れが起き、遠巻きに眺めていた人間達が這いつくばりました。
奥さまはわずかに地面から浮かび上がり、影響を受けません。
そして打ち合わせた手を、ゆっくりと開きます。
その動きに合わせるように、足元の大地に亀裂が走ります。
「やっぱり地割れではないですか」
人を呑み込みそうな大地の裂け目を眺めながら、ちょっと失望しました。
「いいや、これからだ」
奥さまは、呪文を朗々と唱え始めました。
黒い雲が突然空に生じ、それは渦を巻きながらどんどん蒼穹を侵食します。
《次元の裂け目より、来たれ、疾く来たれ!》
《我が名はヘリオスローザ! 魔王の系譜の末裔にして、三界の盟約の代行者なり!》
《我が呼びかけに応え、いでよ力あるモノよ!》
おぞましい咆哮と共に、大地の亀裂から黒い触手が生えてきました。
一本一本が巨木に匹敵する触手が、無作為に大地を打ち据えました。
暴れまわる触手によって、土砂や岩が吹き飛びます。
「さすが魔王さまです、異界の神を召喚されるとは!」
「であろ? であろ?」
奥さまはいつものように、自慢げに胸を張ります。ですが本当にこれは凄い!
「なるほど、こうして人間に恐怖を植え付ければ、ここに人間が立ち入ることもないでしょうね」
地揺れに続き、異形の神の出現と破壊活動で、人間達は大混乱です。
泣きわめく者、神に祈るの者、地面にうずくまって動かない者。
阿鼻叫喚とはまさにこのことです!
「ふははは! 愚かな人間どもよ! 逃げまどうがいい!」
「いや、普通は余のセリフだぞ、それ?」
「もうテンションが上がりまくりです! このまま世界を滅ぼしましょうか魔王さま!」
「おい、そろそろ正気に戻れ、な?」
「人間では決して抗うことのできぬ力の前に、ひれ伏すがいい!」
「――――まあ、旦那さまはあっさり斬り倒したがな」
「え?」
「さて、そろそろ終わりにしよう」
奥さまは両足を広げ、暴れ狂う異界の神に片手を構えました。
その御身からは膨大な魔力が放出され、旋風を巻き起こしました。
奥さまは高らかに、呪文を唱えます。
《天は伏せ、地は崇めよ!》
「その呪文は!?」
奥さまの声と共に、地割れに煌々と光が溢れます。
光は直視できぬほど輝きを増します。
《深淵に棲まう神霊達よ、来たれ、集え、我が命に応えよ!》
叫んだ瞬間、光は止みました。
異界の神の黒い触手は、純白になっていました。
触手は白い塵となり、崩れ落ちていきます。
もうもうと粉塵が立ち込める中、奥さまと私は空の上でした。
「…………異界の神さえ驚きの白さに。やはり理論的には間違っていないな」
「奥さま、もしかしていまのは」
「うむ! 怨素漂白術だ!」
洗濯用の魔法で倒された異界の神が、とても哀れでした。
◆
その日、村人たちに見送られて村を立ち去ろうとした時です。
奥さまが珍しく、旦那さまに叱られました。
懐いた子供達をこっそり、荷馬車に乗せて持ち帰ろうとしたからです。
旦那さまの度量にも限界があったようです。
奥さまも本気ではなかったのでしょうが、荷馬車の上でめそめそと泣き続けました。
後に知ったことですが、領主達の境界争いは決着したそうです。
というか、人が立ち寄らぬ禁断の地と化したらしいです。
東西の領主は神の怒りを畏れ、それぞれ代替わりしたとのこと。
大げさですね、人間は。
村のため池に放った魚は、後に村の特産品になったそうです。
魔王領で生息し、しかもあのため池でしか生きられないので、珍重されているそうです。
さて、村を出た日の晩のことです。
結局、先日の泉の場所まで戻ってしまいました。明日は別の方向に出発します。
それは食事が終わり、奥さまが泉で沐浴している時に起きました。
「来ますね、旦那さまが覗きに」
私は接近する気配を察知し、奥さまに報告しました。
「おそらく、そのまま事に及ぶつもりかと」
奥さまは顔だけでなく、全身を真っ赤に染めました。
「いや待て! ここは野外だぞ! そんなことできるか!」
そうなのです。奥さまは屋根のない場所での夫婦の営みを拒むのです。
出奔してからは野宿続き、村では子供たちの目がありました。
数えてみれば一〇日以上です。
断言できます、旦那さまの我慢はすでに限界だと!
「どうせ人目などないんですから気にされなくても」
「いるだろ、そなたが!」
奥さまは涙目となり、何とか手足で身体を隠そうとします。服を着ればいいのに。
「嫌なら拒めばいいのです――――殿方である旦那さまは、とてもおつらいでしょうが」
「う…………いやしかしだな」
魔王でありながら貞淑な奥さまも、そう言われると弱いようです。
あともうひと押しです。
「私は、決して目の届かぬところに参ります。ですから恥ずかしいことなどありません!」
「ほ、ほんとうだな! 絶対に覗くなよ!」
屋外では壁がないので、侵入防止の結界を張っても意味がありません。
結界の外からは丸見えなのです。
「決して、覗いたりは致しません。我が魂に掛けて誓います」
厳粛な誓いを立てたので、ようやく信じて頂けました。
――――ほんとうに、奥さまは甘いですね。
いえ、誓いは破りません。覗き見など決してしませんでした。
しかし久方ぶりだったのは奥さまの一緒、おまけに解放的な野外です。
お二人はだいぶ羽目を外して昂ったようです。
感極まった奥さまの声は、寝静まっていた鳥達が一斉に飛び立つほどでした。
覗き見はしませんでしたが、ばっちり聞き耳を立てました。
私が見守る魔王な奥さまは、今日もお幸せそうです。