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私が見守る魔王な

私が見守る魔王な奥さまの逃避行

作者: 藤正治

《天は伏せ、地は崇めよ!》

 奥さまは泉の縁に佇み、高らかに唱えます。

《深淵に棲まう神霊達よ、来たれ、集え、我が命に応えよ!》

 そして奥さまの前に置かれた洗い桶が、煌々と光を放ちました。


「奥さま、今のは?」

 洗い桶の中には、旦那さまのシャツが詰め込んでありました。

 光の消えた洗い桶を眺めながら、私は奥さまに尋ねます。

「うむ、これこそが先日開発した家庭用禁呪の一つ」

 奥さまは胸を張り、高らかに告げます。

「怨素漂白術だ!」

 奥さまはシャツをじっくりと見詰め、満足げに頷きます。

「うむ、実験は成功だ。襟元の黄ばみが見事に消えたな!」

 それだけではありません。シャツ全体が、まるで新品のように真っ白になりました。

「さすがは奥さまです」

「であろ? であろ?」

 奥さま、得意の絶頂です。まるで我が世の春が来たと言わんばかりです。

「主婦が衣類の染み黄ばみと戦ってはや幾星霜。有史以来、数多の主婦達が挑みながらも叶えられなかった悲願が、ついに成就したのだ! 道半ばに斃れた先人たちよ照覧あれ! 汝らの無念は、この偉大な魔王たる余が――――」

「奥さま、お声が高うございます」

「おっとそうだった」

 奥さまは口元を手で押さえ、そっと右手の方角を見やります。

 木立の向こう側が今日の野営地で、旦那さまが食事の準備をしているのです。


 魔王云々のセリフが聞こえたら大変です。


「さて、取り出す前に解呪っと」

「解呪ですか?」

「うむ――――うかつに触れると呪われるからな」

 さらっと物騒な事実を呟き、奥さまはムニャムニャと呪文を唱えます。

「これで怨素が中和したはずだ。見るがいい、我ら主婦の勝利の証を!」

 水桶から取り出したシャツを、奥様は戦旗のごとく掲げました。

 風に煽られて、シャツは天の青さに映えてはためきます。

「これで旦那さまの男振りも、一段と引き立つであろう!」

 莞爾として笑う奥様の手の中で、シャツはボロボロと崩れ去りました。


 そんなことだろうと思いました。


「…………いささか改良の余地があるな」

 ぼろ屑と化したシャツを手に、負け惜しみをほざく奥さま。

「いえ、改良でなく抜本的に見直したほうがよろしいかと」

 呪われてしまう洗濯方法とか、間違っている気がします。


「おーい、ローズ! メシの準備ができたぞー」

 野営地の方向から、旦那さまの呼び声が聞こえました。

「はーい! いま参ります!」

 いささか意気消沈していた奥さまが、一転して元気になります。

 足取りも軽く、奥さまは旦那さまの元へと駈け出すのでした。


 そして泉の縁には、ぼろ屑と化したシャツの山が残されました。



 奥さまの名前はローズ、旦那さまの名前はユリエス。

 どこにでもいそうな、若い夫婦に見えるでしょう。

 しかし奥さまには、旦那さまに内緒の秘密がありました。


 奥さまの正体は、魔王ヘリオスローザだったのです。


      ◆


 お二人はただいま、絶賛逃亡中です。

 旦那様はとある国の聖騎士だったのですが、先日出奔したのです。

 元はといえば国王が、旦那さまに王女を降嫁させようとしたのが発端です。

 そんな横紙破りが通じると思われたのも、奥さまが魔族を名乗っていたからでしょう。

 しかし旦那さまは、王女より奥さまをお選びになり、国を出ていくことにしました。

 まあ、当然と言えば当然の選択ですが? でも多少は旦那さまを見直しました。

 性欲だけではない男らしさもあったのですね。

 しかしながら一国の王女を袖にしたのです。王家の面目は丸潰れでしょう。

 遠からず、追っ手が掛けられるのは必定です。

 国家権力を相手に、若い夫婦が手に手を取っての逃避行。

 物語であればどれほどの困難が待ち構えているのかと、固唾を呑んで見守る展開です。

 しかし奥さまと旦那さまは、実に暢気に逃亡の日々を送られていました。


「どうかな、ローズ。魚の焼き加減は?」

「ええ、とても美味しいですわ、あなた」

「ほら、口元に食べかすが」

「え――――ンチュッ!?」

「うん、ちゃんと焼けているね」

「…………もう、あなたったら」


 旦那様が釣った魚をおかずに、お二人は楽しく食事をしております。

 ――――それにしてもなんでしょうか、この魂の奥底から湧き上がる黒い感情は。

 まるで新婚に戻ったかのような仲睦まじい様子を拝見していると、破壊衝動に身を任せ、辺り一面を焼け野原に変えてしまいたくなります。

 実に不思議ですね――――けっ

 私を感知できない旦那さまは仕方ありません。

 ですが奥さま、完全に私の存在を忘れてますよね?


「ごめんなさい、あなたのシャツがぜんぶダメになってしまって」

「ローズはおっちょこちょいだからな」

 着替えをぼろ屑に変えられたというのに、旦那さまは笑顔です。

 旦那さまは器が大きいというか、底が抜けているようなところがあります。

 奥さまのどんな失敗を入れても、ザバザバと漏れてしまうのです。

「でも、明け方はまだ肌寒いのに」

「ローズが隣にいてくれれば、寒さなんて気にならないさ」

「…………もう、旦那さまったら」


 誰でもいいです。

 こいつらを、どうにか、して頂けませんか?


      ◆


 お二人は、そろそろ人里に立ち寄ろうと相談されました。

 これまでの道程は、予想される追っ手を撒くために間道を進んできました。

 荷馬車を二頭のロバに牽かせ、のんびりとした旅路です。

 街道を外れて人目を避けてきたのですが、当然ながら宿場町はありません。

 野宿は平気なお二人でしたが、食料の補給がままなりません。

 人里に立ち寄り、人間用の食料とロバの飼料を購入しようと相談をまとめました。


 しかしお二人は、人里がどこにあるのか、まったくご存じありません。

 とにかく進んでいけばいずれ炊煙が見えるだろうと、暢気に構えています。

 ズボラな似たもの夫婦に呆れ果てた私は、上空で周囲を遠望しました。

 そうしてとある村を発見した私は、奥さまに報告したのです。

 私がいなければどうなっていたか。まったく困ったものです。


「そうした恩着せがましい物言いの結果が、この寒村か?」

 まあ、多少の手違いはありました。

 その村にいるのは女子供と老人ばかり。働き盛りの男達の姿が見当たりません。

 明らかに食糧事情が悪そうで、誰もがやつれて元気がありません。

 飢餓の三歩手前といった感じでしょうか。


 村の長老を捕まえて問い質せば、なんでも領主が隣の領主との小競り合いのため、戦えそうな男達を根こそぎ引き連れて行ってしまったそうです。

 さらに滞陣が長引きそうだと、後から食料まで徴発したそうです。

 そのおかげで村は、今は糊口をしのぐのがやっとの有様のようです。

「…………まずいな、これは」

 奥さまが嘆息しますが、はて?

「食料を調達できないのでしたら、さっさと立ち去ればよいのでは?

「たわけ、あれを見ろ」

 奥さまが指さす方向では、旦那さまが村を見回していました。

 その口元は引き結ばれ、眼差しは悲しそうです。

「ああ、旦那さまのご病気ですか」

「旦那さまは村のあり様に心を痛めながらも、ご自分が無力であることを悟っているのだ」

 たしかにどれほど剣の腕が立っても、村の窮状を救う役には立たないでしょう。

 しかも聖騎士の地位を捨てた旦那さまでは、一介の庶民でしかないのです。

「だったらすっぱりと諦め、気持ちを切り替えてしまうべきだ。まあ、それをできぬのが旦那さまの旦那さまのたるゆえんなのだがな」

 やれやれと、奥さまは肩を竦めて苦笑いです。

 奥さまが旦那さまを促し、お二人は村から立ち去りました。

 旦那さまは荷馬車には乗らず、ラバの手綱を引いてトボトボと歩きます。

 肩を落とした頼りない後ろ姿を、荷台に乗った奥さまが見守ります。

 旦那さまはずっと、奥さまと目を合わせようとしません。

 もし視線が交われば、その想いが伝わってしまうのを恐れているのでしょう。

 旦那さまの頑なな態度にしびれを切らし、奥さまはとうとう声を掛けました。

「戻りましょう、旦那さま?」

 奥さまの言葉に、旦那さまはようやく振り返りました。

「ローズ?」

「戻って、村の方達に力を貸してあげましょう」

「いや、それは――――」

 旦那さまに村の窮状を救う手段はありませんが、奥さまは違います。

 奥さまが魔王であることを、旦那さまはご存じありません。

 しかし稀代の魔法使いであることは承知しています。

「結婚の時、旦那さまはわたしに力を隠すようにおっしゃいました」

 奥さまは微笑しながら、往時の出来事を語ります。

「わたしが世間から疎まれたり、王家からその力を危険視され、利用されないようにするための配慮だとおっしゃいました」

 奥さまは荷台から降り、旦那さまに近寄ります。

「ですが、もうよろしいのではないですか? 国を捨てたからには、誰をはばかることもありません。旦那さまが困っている人を助けたいと望むなら、この力を存分にふるいましょう」

 しばらく考え込んでいた旦那さま、頭を下げました。

 頼むと、ただ一言だけ告げて。


 そして進路を変えた荷馬車の上で、奥さまはほくそ笑みました。

(何がそんなに嬉しいのでしょうか?)

 私が思念で問い掛けると、奥さまは上機嫌に返しました。

(ふふふ、これで旦那さまは、余にますます依存するであろう?)

(はあ)

(美しい上に頼りになるとなれば、ますます余にめろめろだな!)

(…………めろめろ)

(これで余の復讐に、また一歩、近付いたわけだ!)

(あっ!? その設定、まだ有効だったのですか!)

(…………なんだ、設定というのは?)

 奥さまが旦那さまと結婚したのは、過去に受けた屈辱を晴らすため。

 いつか旦那さまが奥さまに身も心も奪われた時、魔王の正体を明かして離婚する。

 それが奥さまの主張する復讐です。そういう建前がなければ、魔王である自分は旦那さまと一緒にいられないと、思いこんでいるのでしょう。

 実に面倒な奥さまです。しかし私は忠実な臣下、もちろん奥さまの主張に迎合します。

(あーはいはい、めろめろでございますね?)

(どことなく投げやりだが、まあいい)

 流さないで、ぜひ問い詰めて頂きたい。

 そうすれば、いったいどちらが相手にメロメロなのか、言上つかまつりますので!


 村に戻った奥さまは、まず村中を歩き始めました。

 時折、手にした杖で地面を突きながら、ブツブツと呟きます。

 そんな奥さまの後ろを、旦那さまがニコニコと笑いながら従います。

 旦那さまの視線は、奥さまの揺れる腰辺りに釘付けです。

 そんなお二人に好奇心を掻きたてられたのか、村の子供達が一人、二人と集まります。

 やがて十数人の団体になった奥さま達を、村の大人達は不思議そうに眺めます。

 一通り村を観察し、目算を立てられたのでしょう。

 方向転換して村の外れに向かうと、そこにある一抱えもある岩の上に立ちました。

 旦那さまと子供たちは、奥さまの指示でだいぶ離れた場所から見守ります。

「そもそもこの村が貧しいのは、慢性的な水不足が原因のようだ」

 奥さまは語りながら、何かを確かめるように岩を杖で突きます。

 言われてみれば、近くを流れる川は細く、水量も乏しかったようです。

「それに当面の食料問題も解決しなければならん」

 どうやら奥さまは、岩の反響に聞き入っているようです。

「その二つを何とかすれば、問題の半分は解決だ」

 奥さまが作業している時、旦那さまと子供たちの声が風に乗って聞こえてきました。

 距離はありますが、私は造作なく声を拾うことができます。


「お姉ちゃん、何をしているの?」

「村のみんなを助けるために、これから魔法を使うんだ」

「あのお姉ちゃん、魔法使いなの!?」

「すごいや!」「ねえどんな魔法なの!」

「すごい魔法だよ、きっとね」

 口々に問い掛ける子供達に、旦那さまは絶対の信頼と誇りを込めて答えました。


「なんたってうちの奥さんは、世界で一番素敵な魔法使いなんだ」


 奥さまの口元が、にやけそうになるのを我慢して痙攣しています。

 どうやらこっそり聞き耳を立てているようです。

「奥さま、集中力が乱れていますよ?」

「分かっておる!」

 そして奥さまは、杖を高々と掲げてから、一気に足元の岩を突きました。

 ドンッと、地鳴りがしました。

 奥さまを中心とした地面が陥没し、奥さまは岩と一緒に落下しました。

 音と揺れで悲鳴を上げる子供達を、旦那さまは抱きかかえてなだめます。

 陥没した地面は、家屋数戸を呑み込めそうな深さと広さがありました。

 岩ごと着地した奥さまは、ふたたび杖を掲げて岩を突きます。

 遥か地下深くで、何かが割れるのを私は感知しました。

 奥さまが手をゆっくり縦に振り上げると、地下から振動が伝わってきます。


 しばらくしてから奥さまは、トンと岩を蹴りました。

 その身体は陥没した地面を軽々と飛び越え、旦那さまの隣に降り立ちます。

「お疲れさま、ローズ」

「ま、まだ終わっておりません!」

 気の早い旦那さまに抱きつかれ、奥さまは狼狽します。

「続きがありますから、旦那さま!」

 離してくれと抗議しながらも、ちゃっかり旦那さまの胸に頬をすり寄せます。

 いちいちイチャイチャしないと、気が済まないのでしょうか、この二人は?

 ほら、周りで子供たちが見てますよ?

 ようやっと離れた奥さまが、陥没した地面の底の岩を見下ろします。

「…………水が」

 ぽつりと旦那さまが呟きます。

 そう、岩の下の地面に水が染みだし、泥になってきました。

 それを満足げに確認した奥さまは、移動を開始しました。

 手にした杖で地面に線を描きながら、村の畑の一番外側を歩きます。

 先ほどの音で、村人達が集まってきました。

 何事かと奥さまに付き従うもの、陥没した地面からわき出す水に驚くもの、

 村中、大騒ぎになりました。

 奥さまの周りには子供たちが群れています。どの瞳も、奥さまへの称賛に輝いています。

 奥さまは一顧だにせず、すまし顔で地面に線を引いています。

 ですが内心では、子供達の注目を浴びて得意になっていることでしょう。

 ひた隠しにしてますが、奥さまは大の子供好きです。

 魔王城にいた頃は、小間使いの見習い達に、よく手製の菓子や料理を振る舞っていました。

 そうやって甘やかすので、侍従長からお小言を頂戴していたぐらいです。それでも奥さまは、貧しい家から奉公にあがる、やせ細った見習い達をぷくぷくに太らせては喜んでいました。


 子供を太らせて喰らう魔王の童話は、奥さまが由来だと言われております。


 さて、村の外縁に沿って歩き続けた奥さまは、水が湧き出した場所から、ちょうど村を挟んで反対側に到達しました。

 そこには岩はありませんでしたが、奥さまは杖を地面を突きました。

 先ほどと同じように、地面が陥没しました。

 目の前の出来事に大人達は口をあんぐりと開け、子供たちは拍手喝采です。

 奥さまは、宙に浮いておりました。空中を歩き、旦那さまの元に戻りました。


 その日の作業は、それで終了しました。


 二日目、水の湧き出した陥没は、立派なため池になっていました。

 それだけではありません。奥さまが地面に引いた線に沿って、水路まで仕上がっています。

 水路を湧水が通り、村の反対側に作ったため池に流れ込んでいます。

 水路を作ったのは、奥さまが夜中に召喚した、巨大オケラです。

 驚きを通り越した大人達と、水路に飛び込んではしゃぐ子供達。

 しかし、遠慮と自重を失った奥さまは、この程度では止まりません。

 昨夜、子供達に囲まれて、珍しく旦那さまそこのけではしゃいだ奥さまです。

 子供達に良いところを見せようと、完全に歯止めが壊れました。

 湧水が流れ込むため池の縁に立つと、天に向かって杖をかざしました。

 上空で風が唸ります。そして雲一つない空から、ぱらぱらと何かが降り注ぎ、ため池に落ちていきます。

 ため池から外れて落ちたそれは、ビチビチと地面を跳ねまわりました。

 魚です。手のひらほどの緑色の魚が、ため池と地面に降り続けます。

 どうやら魔王領の魚を召喚したようです。


 大人も子供も歓声をあげ、魚を拾い集めました。


      ◆


 翌日の昼前に、私と奥さまは空を飛んでいました。

 村長の家の一室で休養をとる振りをして、こっそり抜け出したのです。

 旦那さまは、昨日の魚を燻製する作業に駆り出されました。

 奥さまばかり働いて申し訳ないと思ったのでしょう。

 なかなかの手さばきで魚を処理していました。

「あの村を納める領主は、干ばつの影響で大きな被害を受けたようです」

 私はこれまで集めた情報を奥さまに報告しました。

「それを知った隣の領主が、手勢を集めたのが発端のようです」

「境界線争いだったか?」

「はい。その西隣の領主も干ばつの被害を受けたようですが、こちら側よりも軽微だったようで」

「手勢をかき集め、圧力を掛ければ譲歩すると思ったのだろうな」

「戦わないで、ですか?」

 奥さまは杖で顎を突っつきながら、考え込みます。

「多分だがな。西の領主は手勢を集めれば、東の領主も対抗する。しかし東の領主は干ばつの影響で食料不足だ。滞陣が長引けば、有利な条件で交渉がまとめられると踏んだのだろう。しかし東の領主は、なけなしの食料を村から徴発しまで踏ん張っているわけだ」

「この荒れ地に、そんな価値があるのでしょうか?」

 眼下には、石くれだらけの荒野が広がっています。

 そこには双方合わせて三〇〇名ほどの軍勢が、互いに睨み合っています。

 人間が畑を耕すために土地にこだわるのは知っていますが、ここで農耕するのは大変そうです。

「領主ともなれば、土地の問題は重要だ。単に収益だけではなく、領地の広さによる貴族としての格付け、他の領主からも舐められないように面目を保つとか、色々あるんだ。そのためには」

「そのためには?」

「領民に犠牲を強いても、将来の権益を守るのが領主だ」

 難しいお話です。殴り合いで白黒つける魔族や獣族とは根本的に違うようです。

 それにしても、やはり魔王さまはすごいです。

 そんな些末な人間事情にまで、推察が及ぶのですから。

 しかしなぜ、両陣営が対峙するど真ん中に降り立つのでしょうか。

 てっきり強襲して、両陣営を壊滅させるのかと思いましたが。

「しかし、迷惑極まりない」

 奥さまの声が、冷たく響きます。

「旦那さまとのせっかくの観光旅行が、台無しではないか」

 あ、やっぱり。奥さまにとってこの逃避行は、その程度の扱いだったのですね。

 それはそうでしょう。王都からの追っ手など、本来は恐れるほどもないことなのです。

 人間である旦那さまは、かつての同僚や部下が相手ではやりづらいでしょう。

 しかし魔王である奥さまや私には、そんな遠慮など皆無です。

 追いすがる追っ手を、こっそりしばいてしまえばいいのです。

「…………新婚旅行など、近場の温泉地だったんだぞ? しかもたったの三泊四日」

 またもや奥さまが、杖で地面に線を引いて歩きます。

 しかし恨みがぶり返したのか、手に力がこもり過ぎて土をえぐっています。

「いかに聖騎士が忙しいとはいえ、ひどくないか? 一ヶ月ぐらい休暇があれば、名所旧跡巡りとか、風光明媚な観光地とか行けたのに」

 ブツブツと呟く奥さまですが、ちょっと疑問に思いました。

「期間はともかく、場所などどこでも同じではないですか?」

「なぜだ! 一生に一度の新婚旅行だったのだぞ!」

「だってお二人とも、部屋から一歩も出なかったではないですか?」

 奥さまが、ピタリと口をつぐみます。

「部屋に結界をして私を締め出し、ずっと閉じこもりっきりで。温泉地にも名所はありましたのに、もったいないなと思いましたよ?」

「―――――」

「ですから、場所がどこでも、関係はないなと。あ、そういえば」

 私は奥さまの耳元に囁きます。

「あの時、部屋でなにをされていたのですか?」

 奥さまの影が伸び、私を捉えようとします。

 私は逃げ回りながら、周囲を見回しました。

 境界線を歩く奥さまに、両陣営も気が付いたようです。

 騎士やら兵士が遠巻きにこちらを眺めていますが、近寄って来ようとはしません。

 奥さまの影が、まるで黒い炎のマントのように、周囲の空間を斬り裂いているからでしょう。

 というか、今日の奥さまの戯れは、ちょっとしつこいです。

 そうこうしている内に、奥さまは両陣営の間を横断されてしまいました。

「あ、地割れでも起こして、境界線を無理やり作るのですか」

「…………」

「拗ねないで教えてください」

 奥さまは杖を傍らに捨てると、両手を広げました。

「単に地形的な境界線では、土地に執着する人間を押し止めることはできないかもしれん」

 奥さまはパンと手を打ち合わせました。


 大地が鳴動しました。

 先日の魔法とはけた外れの地揺れが起き、遠巻きに眺めていた人間達が這いつくばりました。

 奥さまはわずかに地面から浮かび上がり、影響を受けません。

 そして打ち合わせた手を、ゆっくりと開きます。

 その動きに合わせるように、足元の大地に亀裂が走ります。

「やっぱり地割れではないですか」

 人を呑み込みそうな大地の裂け目を眺めながら、ちょっと失望しました。

「いいや、これからだ」

 奥さまは、呪文を朗々と唱え始めました。

 黒い雲が突然空に生じ、それは渦を巻きながらどんどん蒼穹を侵食します。

《次元の裂け目より、来たれ、疾く来たれ!》

《我が名はヘリオスローザ! 魔王の系譜の末裔にして、三界の盟約の代行者なり!》

《我が呼びかけに応え、いでよ力あるモノよ!》

 おぞましい咆哮と共に、大地の亀裂から黒い触手が生えてきました。

 一本一本が巨木に匹敵する触手が、無作為に大地を打ち据えました。

 暴れまわる触手によって、土砂や岩が吹き飛びます。

「さすが魔王さまです、異界の神を召喚されるとは!」

「であろ? であろ?」

 奥さまはいつものように、自慢げに胸を張ります。ですが本当にこれは凄い!

「なるほど、こうして人間に恐怖を植え付ければ、ここに人間が立ち入ることもないでしょうね」

 地揺れに続き、異形の神の出現と破壊活動で、人間達は大混乱です。

 泣きわめく者、神に祈るの者、地面にうずくまって動かない者。

 阿鼻叫喚とはまさにこのことです!

「ふははは! 愚かな人間どもよ! 逃げまどうがいい!」

「いや、普通は余のセリフだぞ、それ?」

「もうテンションが上がりまくりです! このまま世界を滅ぼしましょうか魔王さま!」

「おい、そろそろ正気に戻れ、な?」

「人間では決して抗うことのできぬ力の前に、ひれ伏すがいい!」

「――――まあ、旦那さまはあっさり斬り倒したがな」

「え?」

「さて、そろそろ終わりにしよう」

 奥さまは両足を広げ、暴れ狂う異界の神に片手を構えました。

 その御身からは膨大な魔力が放出され、旋風を巻き起こしました。

 奥さまは高らかに、呪文を唱えます。


《天は伏せ、地は崇めよ!》


「その呪文は!?」

 奥さまの声と共に、地割れに煌々と光が溢れます。

 光は直視できぬほど輝きを増します。

《深淵に棲まう神霊達よ、来たれ、集え、我が命に応えよ!》

 叫んだ瞬間、光は止みました。


 異界の神の黒い触手は、純白になっていました。

 触手は白い塵となり、崩れ落ちていきます。

 もうもうと粉塵が立ち込める中、奥さまと私は空の上でした。


「…………異界の神さえ驚きの白さに。やはり理論的には間違っていないな」

「奥さま、もしかしていまのは」

「うむ! 怨素漂白術だ!」


 洗濯用の魔法で倒された異界の神が、とても哀れでした。


      ◆


 その日、村人たちに見送られて村を立ち去ろうとした時です。

 奥さまが珍しく、旦那さまに叱られました。

 懐いた子供達をこっそり、荷馬車に乗せて持ち帰ろうとしたからです。

 旦那さまの度量にも限界があったようです。

 奥さまも本気ではなかったのでしょうが、荷馬車の上でめそめそと泣き続けました。


 後に知ったことですが、領主達の境界争いは決着したそうです。

 というか、人が立ち寄らぬ禁断の地と化したらしいです。

 東西の領主は神の怒りを畏れ、それぞれ代替わりしたとのこと。

 大げさですね、人間は。


 村のため池に放った魚は、後に村の特産品になったそうです。

 魔王領で生息し、しかもあのため池でしか生きられないので、珍重されているそうです。


 さて、村を出た日の晩のことです。


 結局、先日の泉の場所まで戻ってしまいました。明日は別の方向に出発します。

 それは食事が終わり、奥さまが泉で沐浴している時に起きました。


「来ますね、旦那さまが覗きに」


 私は接近する気配を察知し、奥さまに報告しました。

「おそらく、そのまま事に及ぶつもりかと」

 奥さまは顔だけでなく、全身を真っ赤に染めました。

「いや待て! ここは野外だぞ! そんなことできるか!」

 そうなのです。奥さまは屋根のない場所での夫婦の営みを拒むのです。

 出奔してからは野宿続き、村では子供たちの目がありました。

 数えてみれば一〇日以上です。

 断言できます、旦那さまの我慢はすでに限界だと!

「どうせ人目などないんですから気にされなくても」

「いるだろ、そなたが!」

 奥さまは涙目となり、何とか手足で身体を隠そうとします。服を着ればいいのに。

「嫌なら拒めばいいのです――――殿方である旦那さまは、とてもおつらいでしょうが」

「う…………いやしかしだな」

 魔王でありながら貞淑な奥さまも、そう言われると弱いようです。

 あともうひと押しです。

「私は、決して目の届かぬところに参ります。ですから恥ずかしいことなどありません!」

「ほ、ほんとうだな! 絶対に覗くなよ!」

 屋外では壁がないので、侵入防止の結界を張っても意味がありません。

 結界の外からは丸見えなのです。

「決して、覗いたりは致しません。我が魂に掛けて誓います」

 厳粛な誓いを立てたので、ようやく信じて頂けました。


 ――――ほんとうに、奥さまは甘いですね。


 いえ、誓いは破りません。覗き見など決してしませんでした。

 しかし久方ぶりだったのは奥さまの一緒、おまけに解放的な野外です。

 お二人はだいぶ羽目を外して昂ったようです。


 感極まった奥さまの声は、寝静まっていた鳥達が一斉に飛び立つほどでした。

 覗き見はしませんでしたが、ばっちり聞き耳を立てました。


 私が見守る魔王な奥さまは、今日もお幸せそうです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 『性欲だけでない男らしさ』  …………  作中のコノ一文に、男としてのコノ身、男の様々挽回のために考えた。  ひとつ、奥さんをお姫様抱っこする。      寝室へ運ぶために。  ひとつ、奥…
[良い点] 甘い! [一言] いつか二人の子供ができる話を!
[一言] 本当にこのシリーズ大好きです...!できれば連載して欲しいです。続き待ってます(土下座)
2016/07/03 07:08 退会済み
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