4-32 大井住市上空の異変
梁子が風呂から出ると、ダイニングでは両親が待ち構えていた。
二人とも何か言いたそうな顔だったが、黙ったままである。梁子は口元を引き結ぶと、二人を素通りし、リビングの方へと足を向けた。
千花がうたた寝をしていた。長椅子の上ですやすやと幸せそうに眠っている。梁子は彼女を起こすのが忍びなかったが、仕方なくその肩を揺らした。
「千花ちゃん、千花ちゃん。寝てるところすみません、そろそろ行きましょう」
「う……ん。ああ、ごめん……うん、行こう」
がばりと起き上がると、胸にしっかりと抱えていた筒状のケースを梁子に渡す。
「はい、これ」
「ありがとうございます。あの、これからまた出かけますけど……千花ちゃん、お家に連絡しておかなくていいんですか?」
「あ、うん……今さっき電話しておいた。家族には、もともとあまり詳しいことを言ってなかったから……ちょっとというか、かなり心配されたけど。でも事情を話したら『お前が大庭家を代表して行け』って。上屋敷家だけに任せるわけにはいかないからって、そう言われた。ふふっ。思えばトウカ様と同じこと言ってたな……。うん、だから大丈夫」
「そうですか」
「あと、不二丸にも伝えといた。説明色々したけど、もう、言わなきゃよかったよ……。僕もついて行きますってなっちゃって。ダメだよって言ったんだけど。あの子はダメだね……千花たちについてきちゃいけない。これが、きっと一番いい」
「ええ。そうですね」
千花は、本心ではきっと愛しい者に側にいてほしいはずだ。でも、「巻き込みたくない」という気持ちの方が大きい。だからあえて、そう言ったのだ。
梁子もそれは同じだった。
真壁巡査をこれ以上巻き込めない。普通の人間を危険な目に遭わすわけにはいかなかった。そう思い、さっきの警察署でさりげなく別れてきた。
「やっぱり……似てますね、わたしたち」
「え?」
ふと、思ったことを口にすると、千花がきょとんとした顔をした。
「いいえ、なんでもありません。さあ行きましょう! エアリアルさんが待ってくれているかどうかわかりませんが、急がないと……って、え?」
そのとき梁子は、窓の外に変わったものを見た。
「どうしたの?」
千花がその視線の先を見る。
そこには……真っ黒な、アドバルーンのように大きい物体があった。
巨大な球体がいくつも空に浮いている。窓辺に近寄ってよく見てみると、それはどうも環状に整列しているようだった。どういう物質でできているかわからないが、なんだかもやもやとした塊のようにも見える。あれではまるで、宮間兄の家の屋上にいた「もや人間」のようだ。
「あ、あれは……いったいなんなんだ……?」
梁子の両親たちも、空を見て驚いている。
千花は真顔でつぶやいた。
「もう、動き出してしまったみたいだね」
「えっ?」
梁子はその言葉にハッとなった。
「まさか……あれは、エアリアルさんの? なんてこと……もう計画が始まってるだなんて」
「うん、梁子さん、急ごう!」
「ええ!」
梁子は、たすき掛けになるように図面ケースの紐を背負うと、廊下に飛び出した。両親があわてて後を追ってくる。
「梁子! き……気を付けるんだぞ!」
「必ず、無事に帰ってくるのですよ、梁子さん!」
激励の言葉をかけられて、梁子は元気に応える。
「はい、わかってます! 行ってきます、父さん、母さん!」
梁子たちは急いで上屋敷家を出ると、最寄りのバス停へと向かった。
* * *
「はあ、まったく。どんどん増えてくな、あいつら……」
猪川刑事は、警察署の二階からマスコミたちが集まっているのを気だるげに見降ろしていた。玄関前の広場には、数社のテレビ局と十数社ほどの新聞記者たちがいる。朝から徐々に増えてきて、今や目の前の大通りにはみ出すほどだった。
署員が何名か交通整理を買って出ているが、大渋滞を引き起こすのは時間の問題だった。
「上が、そろそろ記者会見するかって言ってますよ、猪川さん」
坊主頭の石原が、いつの間にかやってきていた。彼の横には真壁巡査もいる。
「ああ、この騒ぎを治めるためにはそれが一番手っ取り早いだろうな。本来は本庁がやるはずだったんだろうが……こうなっちまったら、ここでやるのが一番だろう」
「ええ、それで二三聞きたいことがあるって、署長が」
「俺にか?」
「そうです」
「はあ、面倒だが仕方ねえか。真壁、お前も来るか? 一応、当事者だしな」
猪川がそう水を向けると、真壁巡査は緊張した面持ちのまま首を振った。
「いえ、その……自分は関係者のつきそいをしていただけですので……」
「そんな謙遜するなよ。お前の手柄だぞ? これだけの凶悪犯を捕まえたら、階級も上がるだろうな」
「そんな……そのために捕まえたわけじゃないです。自分は……」
そこまで言ったところで、真壁巡査は急に窓の方を向いたまま黙ってしまった。
「ん? どうした」
猪川が疑問に思って声をかけるが、真壁巡査は窓の方を向いたままだった。そして見る間にその顔が青ざめていく。猪川は窓の外を見た。相変わらず外の光景は変わっていない。マスコミたちがたむろしているだけだ。
「何をいったい……」
そこまで言ったところで、猪川も石原も、開いた口がふさがらなくなっていた。真壁巡査は「上を」見ていた。マスコミではなく、空を見ていた。そこには……大きくて黒い球体が浮かんでいた。いくつも、いくつも……。
次第にざわざわと外も騒ぎ出してくる。
カメラマンがレンズを空に向け、レポーターが声高に叫びはじめていた。
「なっ、いったい何が起こってるんだ?! ゆ、UFOだと?」
「あっ、あんなの、はじめて見ましたよ……」
興奮気味に猪川と石原が言うと、真壁巡査は急に落ち着かないそぶりを見せ始めた。かと思うと急に踵を返して走り出す。
「あっ、おい、どこへ行く!」
猪川が呼び留めるが、真壁巡査は振り向きもしなかった。代わりに声だけが返ってくる。
「すいません! 俺、行かなきゃ! すぐに……戻りますから」
「真壁! おいっ!」
階段をものすごい勢いで駆け下りていったので、猪川は急いで窓辺に戻った。すると間もなく、警察署から真壁巡査が飛び出してくる。マスコミの集団に突っ込んだが、誰も彼を囲まなかった。幸か不幸かみな空へと注目している。
「どこへ行くってんだ、こんな時に……」
猪川は人ごみをかき分けて進む真壁巡査をじっと見ていたが、やがてその姿が見えなくなると石原とともに署長室へと向かった。
* * *
「大輔さん、大輔さん! なんか、やべーことになってますよ」
「ん? どうした、河岸沢」
ダイスピザの厨房で仕込みをしていた大輔は、河岸沢の声に思わず手を止めていた。
呼ばれるまま休憩室へ行ってみると、河岸沢が興奮した様子でテレビを見つめている。壁の上部に取り付けられた台の上には小型の液晶テレビが乗っていた。
天候によってピザの注文数が変わるため、ときどきこうしてテレビなどで一日の天気をチェックしている。急いでいるときには電話や携帯端末で調べさせているが、今日は特別、宮間の兄が捕まったということで、朝の情報番組を河岸沢に見させていた。
「やばいって、何がだ? 宮間が映り込んでしまったのか」
「いや、違います。ほら、見てくださいよ! すごくねーですか? これ、大井住市の上空らしいですよ」
河岸沢が見ていたのは、とある空の映像だった。
テロップには「未確認飛行物体、都内の上空にあらわる」と出ている。たしかに青空にはいくつもの黒い球体が浮いていた。そしてなんと、同じような位置をぐるぐると回っている。
「ゆ、UFO? すごいな……。だが、なんていうか雲みたいっていうか……そうだ! たしか前に特番で……こういう自然現象があるってやってたような……」
「雲? いやいや! 大輔さん、こんなぐるぐる空を周回する雲なんてないでしょう。あ、ちょっと実際に外に見に行ってみますか? モノホンが近くにあるそうですし」
「いやでも、店がなあ……」
「いいから! 大輔さん、まだ昼までにはちょっと時間あるんで、見に行きましょ! ちらっと、ちらっとだけですから!」
「うーん。お前がそこまで言うなら……まあ、少しだけなら……」
そう言う大輔を、痺れを切らした河岸沢が店の裏口まで引っ張っていく。
二人が外に出てみると……そこには、テレビと同じものが浮かんでいた。実際に見てみると、かなり異様だというのがわかる。
「うわっ、なんだあれ……どう見てもありゃ雲じゃあないですよ、大輔さん」
「うーん、そう言われるとたしかにそうだなあ。いや、それにしても、どうしてあれ輪になって回ってるんだろうな?」
「さあ……それは俺にもわかりません」
河岸沢は黒いもやもやした球体が動くのを、ずっと気味悪そうに眺めていた。そのうち、妙に顔色が悪くなり、急にブンブンと首を振りはじめる。
「いや、まさかな。上屋敷……これも全部あいつのせいだってのか?」
ぼそぼそとなにやら独り言をつぶやいているが、そこに、見知った警官がやってくる。
「あっ、すいません! ちょっといいですか?」
「あ、あなたは昨日の……お巡りさん」
「お前っ!」
大輔が応じる横で、河岸沢は一瞬警戒するように睨んでいた。大輔はそんな河岸沢を隠すように一歩前に出ると、にこやかに問いただす。
「どうしたんですか? ようやく犯人が捕まって、今ちょうどお忙しいところなんじゃ……」
「あ、はい。この度は本当に、ありがとうございました。おかげ様で、犯人を無事逮捕することができました。それもこれも、店長さんが車を貸してくださったおかげです。まずはお礼を……」
「いえいえ、そんな! いいんですよ。お礼を言うのはむしろこちらの方です。本当に何事もなく解決できて良かった。あなたも約束通り、無事にみんなを返してくれましたしね。本当にありがとうございます。えっと……それで? あの今日は……」
「あ、ええ。今ちょっと……上屋敷さんを探していましてね」
「上屋敷を?」
大輔は意外な人物の名を聞いて目をしばたたいた。河岸沢も怪訝な顔をしている。
真壁巡査は大きく一呼吸すると、空を指さした。
「はい。あの空の飛行物体……あれが、上屋敷さんと何か関係しているみたいなんです。それで……ちょっと心配になりまして。こちらに伺ったんです。あの……彼女、今いますか?」
「な、なんですって? いや、上屋敷は……もともと今日出勤日だったんですが、急用ができたとかで休みになってます。それよりそれ、本当なんですか? 上屋敷が……その……」
「はい。自分も、いまだに信じられないんですが……おそらくそうです。本人から聞いていましたので……。そうですか。あの、今彼女がどこにいるかっていうのに、心当たりはありませんか? 自宅にも行ってみたんですけど、そちらにもいなくて。ご両親はいらっしゃったんですけど、どこへ行ったのか教えてはくれませんでした」
「……んだと?」
「え?」
ぼそり、と背後から声がして大輔は振り返った。河岸沢が、ものすごく機嫌の悪そうな顔をしていた。
「おい、警官! それいったいどういうことだ? 上屋敷が関係しているだと?」
そう言って、真壁巡査に詰め寄る。大輔はその態度を見て、気が気ではなくなった。
「おっ、おい、河岸沢! やめろ」
慌てて制すが、真壁巡査はゆっくりと首をふる。
「自分も……詳しくはわからないんです。でも、とある科学者がこの街を混乱させようとしているっていうのは……聞いていました。そしてそれを、上屋敷さんが止めようとしているってことも……」
「なんだと? 上屋敷が? で、その科学者ってのはいったい何だ。誰なんだ」
「はい。エアリアル・シーズンとかいう……名前の科学者だそうです。その人物は、宮間太郎を捕まえたら大規模な実験を開始すると言っていたようですから……たぶんあの空の物体は、その科学者のせいだと思います……」
「なん、だよそれ……」
「あ、あの! 彼女たちがもしその科学者のもとに行ってるなら、やっぱりまずいと思うんですよ。こんなことをしでかすような人間ですし……何か良くないことが起こるような気がならないんです。自分も一緒に付いて行くって思ってたのに、バタバタしているうちにいつのまにか上屋敷さんと離れてしまった。あの、どうか居場所を知っているなら、教えてくださいませんか。彼女たちは、今どこに……」
河岸沢はしばらく黙っていたが、小さく悪態をつくと大声を張り上げた。
「チッ、俺だってな! 知らねーんだよ! 店長の車を返したら、あいつらすぐ帰っちまった。だから……今、何か言いたくっても言えやしねえ。さっきから電話も繋がらねーしよ……」
そう言って、持っていた携帯端末をズボンのポケットにしまう。
真壁巡査はそれを聞いてがっくりと肩を落とした。
「そんな……自分も、さっきかけてみましたが、電源が入っていませんでした。これじゃあ、探すこともできない……」
「ったく、これか! これだったのか……まずいな。どうにかしねえと……」
大輔は何が起きているのかさっぱりわからずにいた。
真壁巡査や河岸沢の慌てようを見ていると、何かとんでもないことが起きているというのだけはわかる。それに上屋敷梁子が絡んでいるということも……。だが、河岸沢たちと同様、それを打開する策は何も思いつかない。
「なんだか、大変な事が起きてるみたいだなあ。はあ、上屋敷は……いったい何をしようとしてるんだ。うーん。大丈夫かな……」
腕組みをして空の未確認飛行物体を見上げていると、そこにとある男性がやってきた。大きな体をゆらしながら、背に後光を浴びている。
大輔はその姿を見て、あわてて居住まいを正した。
「あ、す、すいません! もう開店してるんですけど……あんなものが空にあるもんでつい、外へ見にきちゃいまして。すぐに店に戻ります!」
「いえ……それは別にいいんですが……。それよりも、今の話本当ですか?」
「え?」
待ちくたびれてこちらまで探しに来たのかと思い、大輔はその男性に平身低頭謝ろうとしていたのだが、妙なことを聞かれて首をひねった。
「あ、あの……?」
「エアリアル・シーズンが、あの空の異常に関与しているって……その話は本当ですか?」
「えっ……ど、どうしてそんなことを……。それになぜその名を知って……?」
「……」
男は無言で手元のモバイルパッドをスワイプしている。
河岸沢は思わずその男性の名を呟いた。
「ピザ……じゃねえ、久山さん」
「お、おいっ、河岸沢!」
失礼なことを言いそうになったので、大輔はすぐに河岸沢の後頭部をはたく。河岸沢は頭に手をやりつつ、男性に改めて向き直った。
「久山さん」
「……なんだい?」
「どうして、それを気にされてるんですか。何か……ご存知なんですか」
「いや、ちょっとその科学者の研究に投資していてね。よもやこんなことをするとは思わなかったから、今のうちに株を売っとこうと思って」
「なっ! そ、その科学者、の株を?」
「……そう。よく知ってないと、おちおち投資なんかできないよ。調べは徹底してたつもりだったんだけどなあ、見誤ったかな」
大輔も河岸沢も真壁巡査も、久山の言葉にしばらく無言になってしまった。
だが、同時にこれは好機だと思い、大輔だけは久山に踏み込む。
「あ、あの、すいません! うちのスタッフが……その、科学者のところに今行ってるようでして。それで何かトラブルに巻き込まれてたらって心配してるんです。あの、だから! その科学者のこと、何か知っているのでしたら……なんでもいいです。俺たちに教えていただけませんか!」
「……うん。いいよ。じゃあ……たぶん、こことここ」
そう言って、モバイルパッドに表示された地図を久山は全員に見えるように差し出してみせた。
「これが、今の彼女の住まい……そして、研究所はこっちだね、大井住大学。たぶん、このどっちかにいると思うよ」
「……え? あ、ありがとうございます!」
大輔はあわててそれをメモに書き写す。その様子を見ていた河岸沢と真壁巡査は呆気にとられている。
久山は、ぼそりと大輔の耳元につぶやいた。
「店長、この店は……これから大変だね」
「え?」
大輔は急に違う話を向けられて面食らった。久山はかまわず話し続ける。
「ニュースを見たよ。ここのスタッフの親族が捕まったそうじゃないか」
「えっ、ど、どうしてそれを……」
「よくよく調べとくのが投資の秘訣」
「ひ、久山さん……」
「ここのピザは、とても美味い。僕が今まで食べてきた中でダントツだ。それを潰されるのは……少々惜しいね。だからもし……困ったことになったら、いつでも相談してきていい」
久山は一枚の名刺を大輔に渡すと、にっこりと笑った。
「では、とりあえず……いつものやつ10枚、いいかな?」




