4-22 変えられないもの
集中治療室を出ると、警官がもう一人やってきていた。
「先輩、あとは任せてくださいっす」
「ああ。しっかり頼んだぞ森元。まだ犯人は捕まってないからな」
森元と呼ばれた男は、真壁よりいくらか若そうだった。
もやしのようなひょろひょろとした体型で、警官としてはやや頼りなさそうに見える。そんな森元に、真壁巡査はくだけた口調で話しかけていた。
梁子はその声音にどきりとする。
いつも自分たち市民に対しては、丁寧な言葉でしゃべっている。だが、こと後輩に対してはこうした話し方なのかと驚いた。そういえば最初に出会ったとき、あのような気安さで話しかけられていた。年下であれば本来はああいった話し方なのだろう。もう一度元に戻してくれないかな、と梁子は思った。
「しっかし……人員、本当にここに割いてていいんすか? 今厳戒態勢で、市内の警らとかもいつも以上にやらないといけないし……正直人手足りないんすよ」
ほとほと困ったという顔で森元は愚痴を言う。
「ここに配置したほうが良いって、たしか真壁先輩が上に言ったんすよね? なんでなんすか?」
「……犯人がどんなやつか、どこに潜伏してるかっていうのはまだ判明してない。となれば、ここで張ってて捕まえた方が効率的だろ? そう思ってな……。ダメもとで鎧塚部長に言ってみたんだが、部長は捜査本部にまで掛けあってくれたみたいで。それで通ったんだよ」
「へ~! 先輩、すごいっすね。頭いいっす! なるほど……ここに入院している女の子も安心するでしょうし、犯人も捕まえられる。先輩、さすがっすね!」
「……はは、まあな」
森元は、ひじで真壁巡査の脇をつつきながらおだてはじめた。梁子たちはその森元の軽薄なノリに一抹の不安を覚えつつ、照れ笑いしている真壁巡査に近づく。
「あ、あの真壁巡査、わたしたちはそろそろこれで……」
「あっ。か、上屋敷さん! 自分ももう交代ですし、そこまでお送りしますよ!」
「え、いえその……いいですよ。お忙しいでしょうし……」
「いえいえ、そこのエントランスまででも……」
そんなやりとりをしていると、美空の両親もすたすたと部屋から出てくる。梁子は違和感を覚えた。久しぶりの再会で子供と積もる話もあっただろうに……いやに早いと思った。いったいどうしたのだろう。なんとなく見ていると、二人のうち母親の方と目が合った。
洋子は軽く微笑んで、こちらにやってくる。
「ああ! ええと……上屋敷さんと大庭さん、でしたっけ。美空からお名前、聞きましたよ。このたびは本当にありがとうございました。これからも美空をよろしくお願いしますね」
「え……あの、もうお帰りになられるんですか?」
「ええ。本当はもっとそばにいてあげたいんですけど……大切な仕事をほっぽり出してきてましてね。すぐまた海外に戻らないといけないんですよ」
「ええっ?! も、戻るって海外に、ですか?」
「そう。とっても忙しいんですよ。あ、たしかあなたもそうだったわよね?」
洋子は後ろにいた善行に、同意を求める。
「ああ、俺も深夜の便で戻らないといけない。しかし、美空の無事な姿が拝めて安心したよ。これでもう大丈夫だな」
「えっ? あ、あの……」
梁子はあまりの態度に絶句してしまった。
てっきり二人は小泉家に帰るのかと思っていたのだ。だが、それどころの話ではなかった。なんと、よりにもよってまた海外に戻るという。
美空はまだ治療を受けている最中だというのに……この両親はいったいどういう神経をしているのか。心配で日本に帰ってきたのではなかったのか。なんというか……あまりに薄情である。
二人はそれが当たり前というようなそぶりで、荷物を抱え直していた。
「あ、そうそう。これからわたしたち、美空の医療費の手続きをしに行かなきゃならないんです。ですから、そろそろ失礼いたしますね。では……」
「あ、あのっ!」
去ろうとした洋子をあわてて呼びとめる。
「まだ何か?」
洋子は不審そうな顔で梁子に訊いてきた。
「えっと、あの……美空さんに寄り添っていなくて、いいんですか? その……まだ犯人も捕まっていないですし。またなにかあったら心配じゃ……。美空さんも、入院中なにかと不便でしょうし、着替えとか……。そんなときにまたすぐお仕事で海外に戻ってしまわれるなんて……その……」
「ああ。なんだ、そういうこと」
梁子の言葉に、洋子はふっと笑う。
「大丈夫よ。あの子はわかってくれてますからね。わたしたちはあの子のために一所懸命に働かなきゃいけないんです。それをあの子はよく理解してくれてるわ。仕事をしないとわたしたちは生きていけないの。まあ、本当は……子育てよりも仕事をしている方が性に合っている、っていうのが大きいんですけどね」
「そんな……」
洋子の本心を聞いて、梁子は呆れた。子供より、仕事が優先だなんて。美空が命の危機に陥ったというのに、この期に及んでまだそんなことを言っているのか。
善行は、梁子の近くにいた警官たちを見て言った。
「こうして、警察の方も来てくださってるし。その点はまあ安心だ。だから、君もあまり不安になりすぎないほうがいい。君の気持ちもわかるが……美空ももう一人でなんでもできる歳だ。それに、これはもともと我々家族の問題だしね。心配しすぎて、あの子にあまり負担をかけさせないでほしいんだ」
「負担って……そういうことじゃなくって、あの、美空さんは……!」
梁子は納得できなくて食い下がる。
「あなたたちがいないのを……」
「まあ、また何かあったらこうして飛んでくるし。な? 俺たちも別に美空が心配じゃないわけじゃないんだ。だから、わかってくれ。頼むよ」
「……」
何をわかれというのか。
美空は、ずっとひとりで寂しがっていた。この両親こそ、本当の美空の気持ちをわかっていないのではあるまいか。両親のために強がって、必死で理解しているふりをしている美空を、なぜ気遣ってやらないのだろう。
「あの、上屋敷さん。わたしたち、本当に仕事が大好きで仕方ないのよ。『生きがい』なの。仕事もわたしたちを必要としているし。今任されている仕事はかなり重要な案件で、本当はこうして戻る時間も取れないほどだったのよ。……ふふっ、あなたにとっては所詮『いい親』ではないんでしょうけどね。でも、それでも、それがわたしたち夫婦なんですよ」
「あ、その……」
そこまで自覚して行動しているなら、梁子はもうそれ以上なにも言えなかった。
美空のために何かしてやりたかったが、ここまで言い切られてはどうにも説得できそうにない。この人たちはおかしい。生粋の仕事人間すぎる。生きるために仕事をするのではなく、仕事のために生きているのだ。
梁子は、無言で下唇を噛んだ。
「おい、洋子。もう行かないとまずいんじゃないか?」
腕時計を見ながら善行が急かしはじめる。洋子も荷物をもう一度背負い直し、踵を返した。
「ああ、そうだったわ。じゃあ、わたしたちもう行きますね。ごめんなさい。あまり長く話してられないの。じゃあ、さようなら」
「そんなに心配なら、君が美空のそばにいてやってくれないか。ええと……上屋敷さんと大庭さんだったね。頼んだよ、二人とも」
梁子たちは、なんと返事していいかわからなかった。そうしている間に、二人はすばやく離れて行く。急ぎ足で遠ざかっていく姿を見送りながら、梁子は無力感に襲われていた。
風のようにやってきて、嵐のように去っていった。
ぼーっとしていると、そばにいた千花がつぶやく。
「あれが美空さんのご両親、なんだね。なんていうか変な人たち……だったね」
「ええ。美空さんはずっと独りで……あの両親のいない家で、孤独な日々を送ってきたんです。物心ついた時からずっと……。こんなふうに被害に遭っても、心配してやってきたのは一瞬。あのお二人がお見えになった時、少しは美空さんが喜んでくださって良かったと思いました。でも……やっぱり……」
「うん……」
梁子たちは、美空に同情した。
あの両親は……あまりにも自分本位すぎる。娘のためと言いながら、結局は自分のために行動していた。久しぶりの逢瀬で、美空の寂しさは少しでも癒されたかと思われた。だが、それはむしろ逆効果だった。きっと今頃美空は落胆しているはずだ。両親は、やはり自分より仕事が大切だったのだと。
今、部屋の中で美空がどんな思いをしているか……それを想像すると梁子は辛かった。
会って励ましたほうがいいだろうかとも思ったが、やめておく。もしかしたら泣いているかもしれない。そんなふうにさせてしまったことを、梁子はまた後悔した。どんな顔をして会っていいかわからない。
梁子と千花が何も言えずに胸を痛めていると、真壁巡査が抑揚のない声で話しかけてきた。
「上屋敷さん。世の中には……生き方を変えたくても、変えられない人たちがいるんですよ……」
「真壁巡査?」
「あの人たちは、決して子供が嫌いなわけじゃなかったんだと思います。現にこうして、顔を見せにきたわけですからね。愛情は、あったのだと思います。でも、それ以上に……仕事が好きで好きで、たまらないんでしょう」
「……ええ。そう、なんでしょうね。とても残念です」
沈鬱な気持ちでため息をつくと、森元が目に入った。森元は話に参加するでもなく、ずっと集中治療室の入り口を見つめている。さっきの真壁巡査と同じ姿勢だった。背筋をまっすぐに伸ばし、周囲に異常がないか厳しくチェックしている。
梁子はさっきまで頼りないと思っていたが、仕事はきちんとするのだとわかって少しホッとした。
視線を元に戻し、真顔の真壁巡査と向き合う。
「変えたくても変えられない……ですか。それはわたしも同じですよ、真壁巡査」
「上屋敷さん。わかっています。でもそれは自分も同じです。どうしても……変えられないものがあります」
「……」
じっと見つめ合う。なんのことを言っているかは、お互いわかっているつもりだった。
妙な緊張感があたりを包み、千花が横でそわそわしだす。
「あ、あの! 千花、お邪魔みたいだから先帰るね。明日は大学行くから! 刑事さんから呼び出しがあるかもわからないし、いつも通りでいく……つもり。そ、それじゃ!」
そう言って駆け出す。梁子はあわててそのあとを追った。
「ま、待ってください! 置いてかないで、千花ちゃん!」
「い、いい! 千花のことはいいから! じっくり二人で話し合って! 千花のことは気にしないで!」
「いえ……き、気にしますよっ!」
後方で真壁巡査が追いかけてくる気配があった。振り返った千花がその姿を視認したようで、目を丸くしている。
「うわっ! き、来た。梁子さん、お巡りさんと話して! チャンスだよ!」
「なんのチャンスですか。いいんです、いろいろと誤解させちゃいますし。わたしも帰ります!」
「ダメ! そんなの。梁子さん! 一回話して!」
言い合いをしながら、梁子たちは外のロータリーまでやってくる。バスを探しているうちに、ついに真壁巡査に追いつかれてしまった。
「病院内を走っちゃだめですよ……お、お二人とも!」
「わあっ! 梁子さん。来た、来たよ、お巡りさん。あれ? ちょうどバスが来たみたいだ。千花、先に行くね。じゃサラ様、梁子さんのことよろしく!」
「えっ? ちょっ、千花ちゃん?!」
千花はロータリーに着いたバスに駆け寄ると、さっさと乗り込んでしまった。梁子も追いかけようとするが、なぜか体が動かない。
「え? な、なんで?! さ、サラ様?」
『千花に感謝したらどうだ、梁子。わざわざ気を遣ってくれたようだぞ』
千花の乗ったバスが行ってしまうと、ようやく体の自由が戻った。サラ様がなにか小細工をしたようである。
梁子は頬をかくと、しぶしぶ振り返った。
「あのう……わたしは特に、話すことは何もないんですけど……」
「俺はあります」
「な、なんですか?」
即答してきた真壁巡査に、梁子はたじろぐ。
「俺は、ずっと変わりません。諦めろって言われても、この気持ちだけはどうにも変えられないんです……」
「そ、そうですか」
「上屋敷さん」
「は、はいっ?」
真剣すぎる瞳に、梁子は気圧される。
「俺は……あなたをずっと守っていきたい。そう思ってます。あなたが望む限り……」
「わ、わたしが……望む限り?」
「ええ。本来は警官としてずっと守ってさしあげたかったです。でも、あなたが望むなら……俺はどんなやり方でも……」
「えっ?! そ、それって……どういう意味ですか?」
「言葉の通りです。あなたのためなら、俺は警官を辞めたっていい」
「ど、どうして? な、なんでなんですか! そこまでする必要なんて……」
「あります」
きっぱりと言い切った。真壁巡査はそれなりに確固たる意志があるようだった。
「自分には……いえ、俺にはもう、あなたがなくてはならない存在なんです」
「……」
「あなたが、俺の前からいなくなってしまったら……もう二度と会えなくなったら……そう思うと、生きていけないです」
思わず、息を止めてしまった。
心臓の音だけがする。どうにか言葉をつむごうと、梁子は息を吸う。
「はっ……。い、生きていけない、って……そんな、お、大げさです……」
「大げさじゃありません。俺には……あなたがそれだけ大切な存在になってるんです。あなたは、俺のこと……」
「わたし、は」
真壁巡査がいなくても、生きていける。そう言おうとした。
けれど……誰かわからない未来の旦那様より、この人のそばにいたいと思いはじめている。こんなにも必要としてくれて、お互いの立場をわかってくれていて……そんな相手のことを、自分はもう欲しはじめている。
それを自覚しているのが、辛い。
「あなたと……一緒にいたい。と思います、でも……」
ぐっと涙が出そうになって、梁子は下を向く。真壁巡査はそんな梁子をじっと見つめていた。
「ああ……人目がなければ」
大きなため息をついて、一歩近づかれる。
ぼそっと小さくつぶやかれた言葉に、梁子はかっと顔が熱くなった。
「えっ? な、なに……」
「上屋敷さん、俺はこの気持ちを変えません。何があっても……。だから、またこうして俺の思いを伝えてもいいですか?」
「……」
先ほど、「この場で抱きしめたい」と言われた。
それは梁子も同じだった。
真壁巡査に抱きしめられたいと一瞬でも思ってしまっていた。梁子は、ぐっと口元を引き締める。
「わたしも……あなたに言いたいです」
「え? 何を」
「好きだって」
じっと、彼の目を見つめる。
目が泳ぎ、動揺しているのが見て取れた。サラ様がそばで聞いているのに、恥ずかしいとかそういう想いはどこかに行ってしまっている。気持ちが、言葉が止まらない。きっとこの光景をエアリアルも見ている。それなのに……どうしてこんな風に言ってしまうのだろう。
「真壁巡査のこと、考える時間が増えました。今どうしているだろうって。何を考えているんだろうって……。ふとしたときに思ってしまうんです。夜になったらなったで、デートしたときのこと、思い出したりしています。あなたと目が合うと……どきどきするようになったり、変に避けるようになったり。おかしいですよね、こんな……」
「上屋敷さん」
「わたしは、すごく困ってます。あなたとこんな風になってしまったの。でも……。会っているときは、困ってないんです。すごく、嬉しいんです。楽しいんです。それって、おかしいですよね……」
少しでもそばに寄りたいと思う。顔を見ていたいと思う。
でも、見えない壁がそこにあるようで、梁子はそれ以上何もできなくなる。
「おかしくなんか、ないですよ。俺も同じように思ったり……してますから……」
「えっ?」
真壁巡査の顔がみるみる赤くなっていく。
「そう、なんですか? ど、どんなふうに……」
「それは……ちょっと言いづらいというか。あ。あの、上屋敷さん」
「はい」
「犯人を捕まることができたら、またデートしませんか?」
「えっ?」
「この制服を脱いで、そしたらもっと正直に言えます。警官の立場としてではない、俺の正直な気持ちを……。会ってくれますか、上屋敷さん」
「えっと……」
二度目のデートのお誘いに、梁子は戸惑った。犯人を捕まえられたとしても、そのあとにはまだエアリアルとの問題が残っている。だが、真壁巡査はにっこり笑うともう一度言った。
「お願いします。あなたに、もっと言いたいことがあるんです。あなたの言葉も……もっと聞きたいですし」
「……」
「約束、ですよ」
真壁巡査はそう言い残すと、立ち去ってしまった。
自転車が建物の裏の駐輪場に停めてあるのかもしれない。梁子はその姿を見えなくなるまで見つめていた。
「真壁巡査……」
誰にともなくつぶやいたが、サラ様とゲンさんは梁子を慮ったのか何も言い返してはこなかった。
陽はとうに落ち、大通りの外灯が輝き出す。その明かりの列はどこまでも続いているのだろう。梁子は家に帰る方向のバス停へと足を向けた。




