4-19 【犯罪者の嘘】
男は、大型バイクで風を切っていた。
幹線道路を駆け抜け、静かな住宅街へと入る。日曜の午前中とあってそれほど通行人はいなかった。目的地が近づいてくるとやおらスピードを落とす。
とある建物の前にやってくると、敷地に寄せてすぐにエンジンを切った。周囲を確認してから黒いヘルメットを外す。
目の前には築30年は経っていそうな二階建てのアパートがあった。
外壁は汚らしくくすみ、鉄製の外階段はステップの部分が錆びついている。
男は音を立ててその階段を上っていった。
二階の一番端203号室の前まで来ると、インターフォンを鳴らす。しばらくしてドアが開かれた。
「おう、来たか宮間。まあ入れ」
60代後半くらいの、ごましお頭の男性だった。笑うと顔いっぱいにしわができる。
宮間と呼ばれた男は促されるまま玄関に入った。
「半月ぶりか」
「はい、ご無沙汰しています……」
「元気そうだな。仕事にはもう慣れたか?」
「ええ、まあ……」
ライダースブーツを脱ぐと、まっすぐ廊下を進む。廊下の左右にはキッチンとトイレ、バスルームがあった。その先には六畳ほどの洋室があり、さらにその奥には和室がある。
洋室にはラグの上に低いテーブルがあり、宮間は上着を脱ぐと、そのテーブルに向かい合わせに設置されたソファに腰かけた。
「竹居さん。そんな、気を遣わなくていいですから」
「いいから黙って座ってろ。今いいもん出してやる」
竹居と呼ばれた老人はキッチンでお茶の準備をしはじめた。
宮間は辟易する。来るたびに丁寧なもてなしを受けるのだ。今回も予想通り、分厚い羊羹とお茶のセットが出てきた。宮間は深く頭を下げる。
「すいません、竹居さん」
「いいから。さ、食ってみろ。昨日味見してみたんだが、美味いぞ」
宮間は軽くため息をつく。
「はあ、本当……俺なんかに何も出さなくていいんですよ。水道水で十分です」
「そうやって、自分を卑下するな。お前はわしにこうやって『もてなされる』人間だ。いいから黙って食え」
「……はい、ありがとうございます。いただきます」
宮間はそんな立場ではないと思ったが、竹居の気持ちも無下にできず、結局口をつけた。
「ん? あ、本当だ。美味いですね」
「だろう?」
「甘すぎないし上品だ……これ、高かったでしょう」
「まあな。もらいもんだけどな。お前が来るってわかってたから取っておいたんだ」
「そうですか。すいません」
「……どれ。わしも食うか」
そう言って、竹居も羊羹に食らいつく。
「うん。やっぱり、美味えな」
お茶をすすりながら、ふと、普段と違う宮間の様子に目が留まる。
「おっ、そういえばどうした、その恰好は。なんかこの羊羹みてえに真っ黒い服だなあ」
「ああ、この間お話していた大型二輪の免許がようやく取れたんですよ。これはそのバイクを運転するための防護服です。さすがに大型だと、ちゃんとしたの着ないといけないと思いましてね」
「へえ……そりゃ、おめでとう。良かったな」
一瞬笑顔になった竹居だったが、すぐに思い直したのか顔をひきしめる。
「いや待て。たしかその教習所の費用……お前の親持ちだったよな? 前から言おうと思ってたんだが、あんま親に負担かけさすんじゃねえぞ。ただでさえ家賃も払ってもらってんだからな」
「ええ……まあ、食費やらガソリン代はさすがにこっち持ちですけどね。他はまだまだ甘えさせてくれるみたいなんで。免許を取得したついでにバイクも新調したい……ってダメ元で頼んでみただけなのに、本当に買ってくれるなんてね。驚きでしたよ」
「はあ、良くねえなあ」
苦笑する宮間とは対照的に、竹居は渋い顔をする。
「わしが橋渡ししたとはいえ、親にいちいち頼むなよ。これじゃいつまで経ったって自立できねえ。息抜きするために、そういうのを乗り回したくなる気持ちもわかる。だがな、やっぱ自分の金で色々すべきだ。わしも甘かったな……。もうちょっと頼まれたときに釘を刺しておくべきだった。でももう、遅いな」
「ええ。もう免許とバイク、両方いただいちゃいましたからね」
「はあ……そういや、今の給料はいったいいくらなんだ?」
「月20万です」
「20万か。新聞配達だったか? 今の仕事は続けていけそうか」
「はい、今のところは」
「そうか……ならまあいい。とにかく、まずは貯めるってことを覚えろ。そして、生活の基盤を作れ。それさえできりゃ、文句はない」
「その点は……大丈夫です。趣味は、これくらいしかないんで」
宮間はあえて「バイク」だとは明言しなかった。今はそれ以上に夢中になれるものを見つけてしまった。無論、そちらの方を言うことはない。
「無駄遣いはしませんよ」
「ならいいけどよ。それにしても、お前の親はホント面倒だな。いくらわしが自立できるように促しても、こうやって援助されちゃかなわん」
「それが、うちの親なんでね。俺に干渉してほしくない代わりに金を出してくるんですよ」
「そういうのも良くねえなあ」
「仕方ありません。ああいう親で、こういう息子ですから……」
竹居はまた一口お茶を飲むとひとりごちた。
「そう言うな。お前はそんな人間じゃない」
「……」
「19をちょっと過ぎたあたりで出てきて、もうすぐ丸2年か? お前、色んなところで働いてきたよな。最初はすぐ辞めちまったり、勤め先でもめごと起こしたりしたが、警察沙汰にだけはしてこなかった……。住むとこも、近所の目が気になってきたから変えたりしたもんだが、それがかえって良かったのかね。今のお前は一番落ち着いているように見える。地に足がついてきたって感じだな」
「……そう、ですかね。そう見えるなら嬉しいです」
地に足がついてきた。何をもって、そう言うのか。
仕事を真面目にこなし、まわりとトラブルを起こさなければ善良な人間だというのか。そういう態度をとっていても、裏では非道なことをしている。それでは意味がないのではないか。
宮間の真実を、竹居は知らない。
角が欠けた羊羹を見つめ、宮間は押し黙った。
お茶をすすりながら、竹居がリモコンでテレビのチャンネルを変える。
今まで地方の旅番組が流れていたが、情報番組に切り替わった。アナウンサーが最新のニュースを読み上げる。
『昨日午後11時ごろ、大井住市の住宅街で住民が刃物で切り付けられるという事件がありました。被害に遭われたのはこの家に住む10代の女性……首を切りつけられて重傷を負いましたが、病院に搬送され、現在は一命を取り留めているということです。警視庁は現在都内で頻発している連続殺人事件の犯人の可能性が高いと見て捜査を続けています。続いて……』
宮間はぎくりとした。背中に嫌な汗が流れる。
まさか、仕留めそこなっていたとは。驚きだった。昨日の手ごたえでは確かに即死したと思っていた。それがどうして助かっているのか。
イレギュラーなことがあったとすれば、あの女性以外にも住人がいたことだろうか。
住「人」と言っていいかどうかはわからないが。
見間違いかと思ったが、あれはたしかに小人だった。
小人。
急に降ってわいた怪奇現象に、宮間は思わず逃げ出してしまった。
あの小人が女性を救ったとは考えづらい。何か急な訪問者があのあとに来たとしか思えなかった。今までばれずに済んできたのは目撃者を出してこなかったからだ。その論理が、いま崩れようとしている。
宮間はテレビ画面を注視したまま動けなくなった。
そんな様子に気付いた竹居が心配そうに声をかけてくる。
「どうした、宮間」
「あ、いえ……」
ようやく声を出し、視線を竹居に移す。竹居は怪訝な顔つきをしていた。
「まったくひどい事件だよな。一人暮らしの女性ばっかり狙うなんて……卑劣な野郎だ。そう、犯人は絶対男だ。じゃなきゃこう何人も殺したりはできない」
「……そう、かもしれませんね」
「大丈夫か宮間? まさか昔の事件を思い出してるんじゃないだろうな」
「いえ……」
「しっかりしろよ。お前は更生したんだ。昔のように『魔太郎』なんてわしは誰にも呼ばせんぞ」
魔太郎。それは不良だったころのあだ名だった。
宮間太郎。それの一部をもじってそう呼ばれた。不良でない方の双子は「腰抜け」と評され、「間一太=マイッタ」と呼ばれていた。
「懐かしい。たしかにそう呼ばれていた時期もありましたね。それを知っているのは、今は弟と警察の人、それから竹居さんくらいです」
「ははっ、違いねえ。もうすぐ二年だ……。そうすりゃわしの任期も終わる。お前とももうおさらばだ。でも、これだけは言っておきたい。わしは、お前がまともに生きてくれるようになって本当に安心したよ」
「竹居さん……」
嘘だ。自分は嘘をついている。
宮間は声を大にして言いたかった。「俺は、また人殺しをしはじめています」と。
だが、これだけ親身になってくれている竹居に口が裂けても言えるわけがなかった。なぜこうなってしまったのか。竹居の支えがあったから、今までまともに生きてこられた。それなのに、いつからあの衝動に身をまかせるようになってしまったのだろう。
自分の中の何かが狂わされていく。
止められない。湧き上がる殺意を抑え込むことができない……。
竹居はお茶がなくなってきたのを察して、新しく注ぎ直してくれた。
「ありがとうな、宮間。わしはこの仕事に就いて本当に良かったと思ってるよ」
善良な人間というのは、この竹居という老人こそをそういうのだ。自分はそんな竹居をだましている。恩人を、優しく見守り続けてくれた人を裏切っている。
宮間の心は罪悪感でいっぱいだった。
「さ、遠慮なくもっと食べてくれ。まだあるんだ、おかわりしていいぞ?」
ニコニコとした笑顔には、深いしわがいっぱい刻まれている。きっとその数だけ苦労してきたのだろう。親にはない表情だった。
母親は年の割に若い顔をしていた。父親もそれなりに若々しい顔をしている。それはきっと父親が稼ぎのいい仕事をしていて、ずっとお金の心配とは無縁の生活を続けてきたからだろう。
不動産を経営しているだけの生活水準だったが、かわりに家庭内は冷えきっていた。
宮間はそれがいつも不満だった。
子供たちのことは成績のことしか見てくれず、宮間は弟の一太とともにあまり幸せとは言えない幼少時代を過ごしてきた。
事件を起こしてからはより冷たくされた。
少年院を出ても、金はやるからもうこちらとはかかわるなと拒絶された。
一太とも引き離され、ここ数年は孤独な日々を送ってきた。
親は犯罪を起こしていない方だけでも守りたいと思ったのだろう。今はどうしているだろうか。弟のことはなにも聞かされていない。実家へ戻ればすぐわかることだったが、どうしても近寄ることができなかった。
自分を大切に思ってくれているのは……きっとこの竹居だけ。
けれど、その竹居をも自分は手ひどく裏切っている。
宮間は絶望した。
もう、どうしようもない。
あともどりもできない――。
いつかはバレるときがくる。そのとき、竹居はどんな風に思うだろうか。それを想像すると耐えきれない。絶対にこの事実は知られたくない。ゆえに、宮間は隠し持っていたナイフで……竹居を殺すことを考えた。
……が、できなかった。
しばらく話をした後、普通に竹居の家を辞した。いつもお昼になる前に宮間は帰ることにしていた。この日もそのようにした。
笑って見送る竹居に深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。では」
「ああ、頑張れよ宮間。また半月後にな」
「はい……」
扉が閉まり、宮間は勢いよくアパートの階段を駆け下りる。
愛車のところまで戻ると、ふーっと長い息を吐いた。
「すいません、竹居さん……すいません……」
飲み下すこともできず、かといって吐き出すこともできない嘘が、のどの奥にびったりとはりついていた。
【新しい登場人物】
●竹居――宮間太郎の保護司。60代後半くらいのごましお頭の男性。甘いものが好き。




