4-13 大井住市立病院にて
梁子と千花は、大井住市立病院の一階にある長椅子に座っていた。
集中治療室前のフロアには煌々と電気がついており、梁子たちの他にも救急車で運び込まれた人の家族たちが待機している。
あちらの家族はおじいさんが心筋梗塞になったらしい。もはや一刻の猶予もならないと、手術が始まっている。歳だからだとは思うが、それでも大事な家族が急変したとあって、さすがに動転している様子だった。
気が気でないのは、梁子たちも同じだった。
今、別の手術室では美空が縫合手術を受けている。救急隊が駆け付けた時間が早かったのと、応急処置が適切だったことから、とりあえず最悪の事態は起こらないだろうと言われていたが、それでも油断はできなかった。まだ輸血やらいろいろな処置が残っている。それを乗り切ってこそ、真に安心できると言えるのだ。
「美空さん、大丈夫だよね。千花たちが来るまでゲンさんが時間を止めていたし、サラ様だって……」
「ええ。トウカ様も手伝ってくださいましたし……絶対、大丈夫ですよ。信じましょう」
「うん……」
千花と梁子は、お互い自分に言い聞かせるように励まし合っていた。
あのあと、すぐに小泉邸に駆け付けた二人は、首から血を大量に流している美空を玄関で発見した。
血だまりの中に倒れている美空は、ピクリとも動いていなかった。
一瞬すでにこと切れているのかと焦ったが、付近にいたゲンさんが「ミクだけ時間を止めている」と説明してくれた。
どうやら時を止めることによって、美空の出血を防いでいたらしい。梁子たちが到着したときには、ゲンさんは力を使い果たしかけていた。
間一髪だった。
梁子たちがもしバスに乗っていたら、きっと手遅れになっていただろう。
そこからは迅速だった。
ゲンさんが力尽きた瞬間、梁子はバッグの中からタオルハンカチを取り出し、美空の首元を強く押さえた。サラ様がそこに結界を張って、止血をさらに強固なものとし、トウカ様はそこに血止めの効果のある術をかけて傷口の再生を図った。自身に取り込んだ植物の力を使えるのが、大庭家の屋敷神なのである。
それらすべての行いが功を奏し、美空の命はつながった。
救急車とパトカーのサイレンが近づいてきて、玄関が開け放たれたとき、梁子たちは心底ホッとした。
専門家にバトンタッチするまでは安心しきれなかったのだ。梁子は救急隊員が処置をしているすきに、意識を失っていたゲンさんをこっそりとバッグの中へと移動させた。そして、付添いとして救急車に同乗することになった。
いざ病院へ行こうというところで、知らない警官が声をかけてきた。
後部座席に乗っていた梁子たちは、パトランプの赤い光をバックに近づいてきた男を見た。
多くの警官はさっそく現場の様子を調べたり、規制線などを張っていたが、その警官は「だれかこの場にひとりでも残って事情を説明してほしい」と懇願してきた。梁子たちはそれを断った。美空が助かるところを見届けるまでは、安心できなかったのだ。
被害者が助かるかもしれないということで、とりあえず警察は梁子たちが病院へいくことを許してくれた。救急車が発進する。それに追従するように一台のパトカーもついてくる。
そのパトカーの中には、真壁巡査がいた。
病院についてから気が付いたのだが、彼の姿を見てから、梁子はそわそわして仕方なくなってしまった。
向こうも同じだったらしく、しきりと顔をこちらに向けないようにしている。だが、それは幾度となく失敗していた。何度も熱い視線がからみ合いそうになり、お互いいたたまれなくなる。
梁子は、「今はそれどころじゃない」と首を振って、リノリウムの白い床を見つめていた。
「ダメ……今は……忘れないと……」
「梁子さん?」
ぶつぶつとつぶやいていると、千花が不思議そうに顔を覗き込んでくる。あいまいに笑ってごまかすと、真壁巡査と、ガタイのいい警官がこちらへやってきた。
さっきまで病院関係者と話をしていたようだが、終わったようだ。ガタイのいい方の警官がさっそく声をかけてくる。以前ピザを配達した時に会ったことのある警官だった。
「さて。さっそくで悪いんだが、何があったのか話してもらえるかな、お嬢さんたち。ん? あれ、君は……」
「鎧塚部長。あの、こちらは……その、上屋敷さんです……」
「ああ、やっぱりそうか。ついに遭遇しちまったか。よりにもよってこんな事件と……」
「こんな事件?」
含みのある言い方だったので、梁子は思わず聞き返す。
鎧塚はぽりぽりと頭をかくと言いづらそうに答えた。
「ニュースになっているから知っているとは思うが……都内では今、一人暮らしの女性を狙った連続殺人が起きていてな。今回の事件も、おそらくその犯人によるものだ。医者に確認したから間違いない、たしかに手口は同じだ。刃物で首を切りつける……残忍な犯行だよ」
「そんな事件があっただなんて……。え? あれ、どっかで聞いたことあるような……」
梁子は鎧塚の話に一瞬驚いたが、すぐに似たような話を誰かから聞いたような気がした。誰だっただろう。忘れてしまったが、とにかく梁子はテレビも新聞も普段あまり見ないので、世事に疎い。
「千花は、ニュースで見たことあるから知ってたよ。でもまさか、美空さんがその標的になるだなんて……」
「ええ、そうですね。よりにもよってなんで美空さんが……」
梁子と千花は戦慄した。
小泉邸を離れた、そのわずかの隙にそんな相手に襲われていたとは……。なぜ、美空は玄関の扉を開けてしまったのだろう。不審者だったら普通はドアチャイムを鳴らされても出ないはずだ。ここへ搬送される間、意識のない美空とはほとんど会話ができなかった。だから、その詳しい理由はわからない。
ゲンさんも現在はバッグの中で眠っている。真相は闇の中だ。
「今回は発見が早かったから……奇跡的に助かったわけだな。本当に良かった。もしかしたら、手術後に目撃証言を得られるかもしれん。君たちは、被害者の友人なのか? 何か気になったことはなかったか。良ければ教えてほしい。もうすぐ強行係の刑事たちも来るはずだ。その時にまたいろいろ聞かれるとは思うが……」
「わたしたちは……」
鎧塚に聞かれ、梁子は重い口を開く。
「何も見ていません……。彼女の家に遊びに行って、帰ろうとバス停に行ったら、彼女から電話がかかってきたんです。そして戻ったら、玄関に彼女が……。家の付近には誰もいませんでした。家の中にも、たぶん……。玄関のドアは開いていましたし、犯人はすぐ逃げたんじゃないでしょうか。それ以外は……何も」
「そうか」
「わたしが、わたしが美空さんと友達になったから……こんな……」
「梁子さん?」
顔を押さえて急にうずくまった梁子に、千花が心配そうな声をかける。
梁子は、後悔の念でいっぱいだった。
もしかしたら、美空は、自分たちが引き返してきたと思ったのかもしれない。ふと、そんな妄想を抱く。ピンポーンとドアチャイムが鳴って、「梁子たちが戻ってきた」と勘違いしたとしたら。自分がもし美空だったらそうするかもしれない。自分と出会っていなければ、迂闊には開けなかったはずだ。
そう考えると、ひどい罪悪感にさいなまれた。
「美空さん、ごめんなさい……わたしが、わたしが……!」
「梁子さん」
「それは違いますよ、上屋敷さん!」
千花が何か言おうとするのをさえぎって、真壁巡査が叫んだ。
「なにかひどくご自分を責めておられるようですが、悪いのは、まぎれもなく犯人です! 上屋敷さんじゃありません。あなたが何かを反省する必要なんて……これっぽっちもないんですよ」
「でも……」
「でもじゃないです。安心してください。犯人は、必ず我々が捕まえますから。そんなにご自分を責めないでください」
「真壁巡査……」
見上げると、そこにはいつもの残念な笑顔があった。
うまく笑おうとして失敗しているみたいな、不器用な笑顔。それをぼんやり眺めていると、千花が横から話しかけてきた。
「そうだよ、梁子さん。わたしたちがいなかったら、きっと美空さん助からなかったよ。だから、それ以上自分を責めないで」
「……千花ちゃん。二人とも、ありがとうございます……。でも、どうしてこんなことに……」
連続殺人犯との遭遇。このタイミングでこんなことが起こるなんて、予想だにしていなかった。いくらなんでも間が悪すぎだ。これからエアリアル邸に乗り込もうというときに……。
それとも。もしかして、これすらもエアリアルの策略なのだろうか。
でも、なにか違和感がある。殺人をするなら、自分だけを狙えばいいはずだ。それなのに、梁子ではなく、美空が狙われた。これはいったいどういうことだろう。
「わからない……いったいなにが、起こって……」
そこへ、二人の男がやってきた。ぼさぼさ頭の中年と、坊主頭の青年だ。
二人ともスーツ姿だったので、おそらく鎧塚が言う刑事だろうと梁子は思った。ぼさぼさ頭の方が軽く会釈をしながら近づいてくる。
「あ、ご苦労様です。自分は大井住警察署から参りました。強行係の刑事で猪川と申します。こっちの坊主は石原です。あなたがたが、今回の事件の通報者ですね?」
「はい……」
訊かれた梁子がうなづく。
「そうですか。じゃあ、あとはこちらでやりますから。地域課は現場に戻ってください」
「わかりました。ご苦労様です」
刑事に言われた鎧塚たちは、敬礼して離れて行く。鎧塚は「行くぞ」と真壁巡査をうながしたが、真壁巡査はじっと梁子を見つめたままだった。
「おい、なにしてる。ほら、行くぞ! 気持ちはわかるが、仕事だ仕事!」
「は、はい……上屋敷さん……」
鎧塚に引きずられるようにして、真壁巡査が連れられていく。梁子はなるべくそちらを見ないようにした。気持ちが、さっきからぐらぐらと揺れている。ただでさえ冷静でいられないのに、これ以上動揺したくない。
真壁巡査から視線を外すと、目の前に猪川がやってきた。
「こんな遅くに、悪いですね。しかし事件が起こったらすぐに調書を書かないといけないんですよ。目撃者の証言をまとめておかないと捜査に影響が出ますんでね。殺人事件の捜査本部は別の署にあるんですが……今回の事件はこっちの管轄なもんで。明日あたり本庁の別の刑事が聞き込みに行くかもしれませんが、そっちもできれば協力してください」
「はい、わかりました……」
「じゃあ、見たこと、起こったこと、時系列に沿って聞かせてくれませんか」
梁子たちは病院のロビーで、なるべく丁寧に答えていった。
語れることはとても少なかったが、それでも少しでも犯人逮捕につながればと思って答えた。
美空の容体が気がかりだったが、刑事二人はとくに高圧的でもなく、慎重に話を聞いてくれる。だいたい30分くらいでそれは終わった。
「……とりあえず、こんなところですかね。上屋敷さんと、大庭さん。どうもご協力ありがとうございました。あとは別日に警察署にお呼びして、きちんとした調書を取らせてもらうかもしれません。そのときにはまたよろしくお願いします」
「はい……」
「では、帰り道、気を付けてください。なんなら、親御さんを呼ばれますか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。では、自分たちはこれで。お気をつけてお帰りください」
刑事たちは小走りで廊下の先に向かうと、やがて見えなくなっていった。
「はあ……」
思わず長いため息が出る。
心筋梗塞の老人の家族は、いつのまにかいなくなっていた。手術が長引いているのだろう。さっき看護師が、医師からの説明があると呼びにきていた。別室に移動したらしい。
美空のことだけを心配していればいいのに、いつのまにか別の人たちのことも気にしてしまっている。人間は「慣れる」生き物だという。少しはこの状況下でも余裕ができてきたのだろうか。梁子は少しだけ口元に笑みを浮かべてみた。
「……」
梁子と、千花しかいない廊下はひどく静まり返っている。
お互い、もう口を開くことはなかった。
手術室前の壁掛け時計が、いつのまにか日付を超えている。
手術はどうなっているのか。美空はもう意識を取り戻しただろうか……。
しばらく待っていると、ようやく梁子たちが呼ばれた。看護師に案内されて、小部屋のようなところに通される。そこには若い男性の医師がおり、美空の傷の様子や経過を教えてくれた。
「ええと、ご家族が見えられていないので、とりあえず付添いの方々にお話しします。小泉美空さんは……首の動脈が損傷し、脳に酸素が回らなくなって、一時的に意識不明となっていました。ですが、今は意識が戻っています。傷が開くといけないので、今日は会話などはできませんが……もう大丈夫ですよ。安心してください」
「そうですか。良かった……」
鼻の奥が熱くなる。梁子はいつのまにか涙を流していた。
見ると、千花も泣いている。
「ええと、ご家族は……」
「彼女のご両親は、今海外に……いるんです。ちょっとわたしどもでは……」
「そうですか。至急そちらとも連絡をとりたいのですが……。まあ明日にでも小泉さんに聞いてみます」
「はい。お願いします。あの、一目だけでも会えませんか? 美空さんに、一言だけ声をかけたいんです」
医師は梁子の頼みにしぶしぶと言った様子でうなづいた。
「わかりました。少しだけですよ。本当は絶対安静ですので……」
「はい。ありがとうございます」
梁子たちは部屋を出ると、集中治療室に連れていってもらった。
何台か並んでいるベッドの一つに、美空が寝かされている。点滴の管や、輸血の管がたくさん腕にささっていた。首にも包帯が巻かれていて、かなり痛々しい姿である。
梁子と千花は駆け寄ると、美空の顔を覗き込んだ。
血の気が失せて、白い肌ががさらに白くなっている。だが、そこにはたしかに生きている美空がいた。
「美空さん……ああ、良かった。あの、あまり長く話せないのでこれだけ言いますね。ゲンさんは、わたしたちで預かりますから。だから、安心していてください」
「……」
美空はぼーっとしながらも、梁子と千花の目を見て、ゆっくりと微笑んだ。
頼むよ、と口が小さく動いたような気がする。梁子はその手をとって言った。
「ゆっくり休んでください、美空さん。また明日、必ず来ます……」
【新しい登場人物】
●猪川――大井住警察署の刑事課強行係所属。階級は警部補。ぼさぼさ頭の中年。
●石原――大井住警察署の刑事課強行係所属。階級は巡査。猪川の部下。坊主頭の青年。




