4-7 VR3D
千花が映画のパンフレットを購入している。
壁に埋め込まれた自動販売機に携帯端末をかざし、電子マネーで決済する。ビニールに包まれた冊子がガコンと落下してきた。
「よっぽどお気に入りなんですね、その映画」
梁子は飲み物に口をつけながら、冊子を手にした千花に声をかける。
「うん。テーマが人間と猫との恋愛だから……これ読んでもっと勉強したい」
「勉強って、不二丸ちゃんとのことですか?」
「うん」
「そうですか。まあ、それはいいとして……今読んでしまったらネタバレになりませんか?」
「いいの。これは家に帰ってじっくりと読む用だから」
「なるほど」
開始時間が迫っていたので、三人はそろそろ移動することにした。
ここにはだいたい10ものシアターがあり、梁子たちが向かうのは7の劇場だ。
廊下は濃いグレーの絨毯が敷かれており、足音はほとんどしなかった。映画の邪魔になる音は極力排除されているらしい。ひかえめな暖色系の明かりがぼんやりと周囲を照らしている。
まるで奥へ吸い込まれそうだと、梁子は錯覚した。
やや下り坂になっている廊下を突き進むと、7と大きく書かれた壁が見えてきた。
その隣の分厚い扉をこじ開け、劇場内に入る。
座席はすり鉢状に丸く並べられていた。中央には見慣れない大きな卵のようなものがある。
「なっ、なんだあれ?」
思わず美空が声をあげる。
プラネタリウムであれば、あの辺の位置にあるのは映像を照射する装置だ。
この劇場にはスクリーンがどこにもない。円形状の座席からしてみても、プラネタリウムを思い起こさせた。だがそれにしてはあの装置は表面がつるっとしすぎている。本当に見た目だけではただの真っ白な卵なのだ。大きさは2メートルほど。50センチほどの高さの黒い台の上に載っている。
「不思議な物体ですね。あれがVR3D……とかいう、最新の映像装置なんでしょうか」
梁子たちはチケットに書かれた番号の席を探しながら、その卵が気になってしょうがなかった。ちらちらと見ながらその形を遠くから観察する。
「でも、天井に映す……ってわけでもなさそうですね」
見上げても、そこにはいたって普通の天井があるばかりだった。プラネタリウムのようにドーム型にはなっていない。平面だ。よって、そこに映しても仮想現実とうたっているようなリアルな映像にはならないだろう。
「あ、あった。ここだここ!」
美空がようやく目的の座席を見つけ、さっそく三人はそこに腰かけた。ふかふかとした座り心地のいい椅子である。美空、千花、梁子の順に奥から座る。
場内には梁子たちをのぞいて十数人ほどしかいなかった。この時間だとさすがに人は少ない。公開初日だし、土曜日なのでもっといるかと思ったが、杞憂だったようだ。100以上はある座席に、客はほどよい距離間で点在させられている。自分たちのまわりにも、ぴったりと寄せるように座る人がいなくてよかったと梁子は思った。
千花がバッグからごそごそとパンフレットを取り出している。包装を破り、さっそく読み始めるようだ。
「えっ? ちょっとちょっと、千花ちゃん。それ、家で読む用じゃなかったんですか? ネタバレですよ、ネタバレ!」
「梁子さん、さすがにその部分は読まないよ……そうじゃなくて、あの機械のことが何か書いてあるんじゃないかって思ったの」
「ああ、なるほど……」
「ふむふむ。あ、説明文があったよ」
「えっ? な、なんて書いてあるんですか?」
「ええと……やっぱり、あの真ん中の卵のようなものが映像装置みたい。あそこから微弱の電磁波を流してるんだって。それで……椅子側にもそれをキャッチする装置があって、その間にいる人間の脳波に影響を与えているみたい。それで、『幻覚のように鮮明な映像』が見られるんだって」
「幻覚の……ように?」
梁子はその言葉に、なぜかぞくっと寒気を覚えた。幻覚、幻覚……。それはサラ様も使う術だ。それが、科学的に実現されたというのか。
卵をじっと見てみる。
一見、何の変哲もないように見えるが、なにか胸騒ぎがする。
「えっと……その電磁波って体に悪影響はないんですよね?」
おそるおそる、千花に訊いてみる。
「悪影響?」
「ええ。一時期、携帯の電磁波が心臓のペースメーカーを止めちゃうとかって騒がれてた時代があったじゃないですか。あれは問題ないってことが実証されましたけど……この映画もそういう風に不安に思っちゃう人がいるんじゃないですか? その辺りは何か書いてあります?」
「うーんと……それもちゃんと注意書きに書いてあるよ。臨床実験もされていて、動物や人体に悪影響はないんだってさ。ただ、あまりにもリアルすぎて、残酷な映画とかスリリングなアクションシーンはショックが大きいみたい。だから、心臓に持病がある人とか高齢者とか、妊婦さんはお避け下さい、だってさ」
「なるほど……」
片手をあごに当てて、安全かどうかの考察をする。
いくら考えても素人の梁子にはわからない。だが、梁子はこの大切な時間を台無しにされたくなかった。友達と映画館に来たのも、こういった最新の映画を観るのも初めてだ。だから、なにか問題が起きてはほしくないのだ。せっかくの友達とのお出かけだ、どうせならそれを楽しいものとしたい。
ただの考えすぎならいい。そう思いながら深刻そうな顔をしていると、サラ様だけが梁子に耳打ちしてきた。
『梁子、お前の不安もわからなくはない。まさか科学がこのわしの術に追いつくとはな……まるで「何か」のようではないか。妙なことが起こったと感じたら、すぐにわしがどうにかしてみせる。だから安心しろ、梁子』
「はい、ありがとうございます。サラ様……」
その声は梁子にだけ、聞こえていた。
だからまわりの人間には届かないはずだったが、その梁子のつぶやきに千花がいち早く反応した。
「何……サラ様もなの? トウカ様も警戒している。どうして? この機械は何か危険なの?」
「あ、いえ……わかりません。でも、幻覚を見せられるなんて……ちょっと凄すぎですよね。これって何かわたしたちの……」
「それは、オイラも気になってました」
ぴょこん、と美空のバッグからゲンさんが飛び出す。
梁子たちはあわてて周囲を気にした。いくら近くに観客がいないとはいっても、貸切ではない。こんなところを誰かに見られたらかなり面倒なことになる。
梁子たちの反応を無視して、ゲンさんはさらにしゃべろうとした。瞬間、すぐに美空がゲンさんの体をつかみ「人形を持っている」というフリをする。
「えっと~、ゲンさん? 急にどうしたのかな?」
「ああ、美空、すいません。急に出てきてしまって。オイラもちょっと、危険なんじゃないかなって思っていたものですから」
「え? 何? 安全だって、千花ちゃん言ってたじゃない。どうしてそう思うのよ?」
「いや……うまく言えないですが……お二人のただならぬ会話を聞いていて……さらに確信しました。梁子さん、サラ様が何か言ってたんですよね? 梁子さんも、何か不安に思ってらっしゃる……違いますか?」
「えっと……そう、です」
切羽詰まったような表情のゲンさんに梁子はうなづく。
「そうですか。だとしたら……オイラは万が一の時に、時間を止めてみせます。そうすれば……何か対処しようもあるでしょう」
「時間を……止める?」
その言葉に、千花が首をかしげる。
「ええ。あ、千花さんは知らなかったですか。オイラは時間の妖精。任意の対象の時間を操作できるんですよ」
「そう……」
千花はさして驚きもせず、瞑目すると頼りなげにつぶやく。
「そんなに不安なら……みんな、映画が始まる前に帰る? 千花も、そんな危険なら嫌だし……」
「えっ、いえ、違うんですよ千花ちゃん。あくまで万が一の時に備えとこうって、そういう話ですよ。たぶん思い過ごしだと思うんですけどねー。えへへへへ」
「そ、そうだよ! もう~ゲンさんも、梁子も心配性だなあ! そんなことあるわけないじゃないか! ほっ、ほら、アタシも楽しみにしてたんだからさ、そんなこと言うんじゃないの! ね?」
「あれ? やっぱり美空さんも楽しみだったんですね。イヤイヤっていうのはやっぱり嘘だったんですか」
「おい、梁子、それはだな! その……言葉の綾ってやつでだな!」
涙目になりそうな千花を気遣い、梁子と美空は必死でフォローする。
そうこうしているうちに開幕の時間となった。
ブザーの音が鳴り響き、照明が落とされていく。
すると、突然中央の卵が白く光りはじめた。
それはまたたく間に強くなっていき、視界がすべて白く塗りつぶされていく。
『魔法猫ファンネーデル』の上映がはじまった。




