4-1 【犯罪者の棲む家】
午後8時。
閑静な住宅街を、一台の大型バイクが走っていた。
運転しているのは、ヘルメットから着ているものまで全身黒づくめの男。バイク自体も、これまた夜の闇のような漆黒だった。
とある家の近くに止まると、男はバイクから降りて敷地内に入っていく。
あたりはすっかり暗くなり、まわりの家々には明かりが灯っていた。
この家もその例外ではなく、一階の窓が煌々と明るくなっている。住人がいるのは確実だった。
男は玄関までたどり着くと、ピンポーンとためらいなくドアチャイムを押す。
ほどなくして奥から若い女の声が聞こえてくる。
「はーい」
男は、中にいる女を知らない。
この家で一人暮らしをしていることは、たびたび外から観察していたので知っていた。だが、直接対面するのはこれが初めてだった。
ここの玄関にはインターフォンやドアカメラがない。夜なので、訪問者があってもそもそも警戒されてドアすら開けてくれない可能性があった。慎重な性格の女だったら、顔を見ることすら叶わないだろう。そうなったら決してねばらずにすぐに立ち去ろうと男は決めていた。
けれども、それらは唐突に、すべて杞憂に終わる。
「はい、え?」
驚くほど簡単にドアが開いた。ドアチェーンもなにもなく、大きく開けられれば中の女が見える。見たところ20代前半くらいの女だった。仕事から帰ってきたばかりなのか、着替えもせずにスーツ姿のままでいる。神経質そうなうすい唇に、化粧の濃い顔。
いったい誰が来たと思ったのだろうか。
知人だと勘違いしたのか、女は微笑すら浮かべていた。
だが、すぐにそれは怪訝な顔つきに変わっていく。
「あの、どちら様……?」
尋ねられるが、男は無言のまま答えない。
つなぎ姿にフルフェイスのヘルメット――そんな恰好の男は明らかに不審者だった。女は表情をこわばらせ……やがて危険だと判断したのか、勢いよくドアを閉めようとする。
しかし、男はすでに片足をドアの隙間に差し入れていた。
あけられまいとささやかな抵抗をされるが、女の力では敵うはずもなく、ドアがゆっくりとこじ開けられていく。
男は後ろ手に扉を閉め、おびえる女と対峙していた。恐怖のあまり声を出せずにいる女だったが、ハッとして身をひるがえす。
外へ逃げる道はふさがれた。ならば、とせめて元いた方向へ戻ろうとしたのだ。
だが、男は女の手をつかみ、それを阻止した。そして、右手に持っていたサバイバルナイフが振り下ろされる。
「ひぎゃっ!」
左右の首筋が切り付けられ、真っ赤な血が噴出する。
「がっ、ごふっ……!」
口からも逃げ場のなくなった血があふれ出て、ぽたぽたと床や壁を汚していく。
息のできなくなった女がその場で倒れ伏す。
首元を押さえていたが、流れ出る血の方が多く、その体はどんどん朱に染まっていった。
「あがっ……ぶぶっ……」
床の上でもだえる女を、男は静かに見下ろしていた。
確実に命が失われていくのをなんの感慨もなく見やる。やがて、失血して脳への血流が途絶えた女は、意識を失ってその動きを完全に停止させた。
じわりと床に血だまりが広がっていく。男はそれを無表情に見つめ――やがて、ナイフをポケットにしまい、何食わぬ顔でその家を後にした。男は表の道においても決して急いだりはしなかった。あくまでも普段通りに歩き、平静を保つ。
バイクにまたがり、エンジンをかける。
男はその間にも幾人かの通行人たちとすれ違ったが、特に誰にも不審に思われなかった。さっきの家の前を通る者がいたとしても、大きな悲鳴が上がったわけではなかったため、あの惨劇に気づいたものは一人としていない。それだけ、他のことに注意を向ける者は少ないのだった。誰もが自分にしか関心を持たず、些末なことは記憶から抜け落ちていく。
男はそうして誰にも気に留められずに、そこから離れることに成功した。
***
一本道の先は二手に道が分かれている。
その分岐点である辻の一角に、細長い灰色の建物がある。
一見すると三階建てのビルのようだが、それは、一階は大きなガレージ、二階が住居、三階が屋上、という造りの「家」だった。
男は自宅が視界に入ると、スピードを徐々にゆるめていく。愛車を家の前の路地に停めると、近所迷惑にならないようできるだけ静かにガレージのシャッターを上げていった。
中は14帖ほどのスペースが広がっている。
右手に小さな流しと、二層式の洗濯機。左手にはバイクを整備するための工具や、レーシングスーツと呼ばれるつなぎを入れるロッカーなどが置いてあった。
男は慎重にバイクを中に入れると、シャッターをきっちりと閉める。
血が付着したヘルメットを脱ぎ、大きく息を吐いた。
流しの上についている鏡に、自分の整った顔立ちを映す。
その顔は特に達成感があるようにも、疲労感をにじませているようにも見えなかった。普段通りの、いつも通りの顔だ。
ポケットから出したナイフをヘルメットとともに流しに置く。すると、男はいきなり着ていたつなぎを脱ぎ捨てた。
洗濯用ネットに入れて、さらに洗剤とともに洗濯機に放り込む。
スイッチを入れ、ゴウンゴウンと回り始めた機械を見下ろすと男は独り言をつぶやいた。
「……これで3人目、か。まさか俺がこんなことをするようになるとはな……この街に来てから、いや、この家に住むようになってからか……?」
思えば、あの不動産屋に行ったのが、そもそものはじまりだった。
何十種類もある間取りの中、この家を紹介されたとき、ひどく驚いたのを男は覚えている。
家賃がまるで「事故物件」かと思うような安さだった。
事故物件とは、その家で人死にがあった場合に賃料が値下げされる部屋のことである。
一軒家で、しかもガレージ屋上付きで四万二千円。
一瞬嫌な感じはしたが、不動産屋はあくまで「事故物件ではない」と強く否定し続けた。実際内覧もしに行ったが、バイク持ちには「雨に愛車が濡れない」というたまらない環境だったので、少しだけ悩んでしまった。そこを、なんの疑問も持たなかった保護司が「ならすぐにそこに決めよう」と男に強く勧めてきてしまったのだ。それがとどめだった。
結局、不動産屋と保護司の両人に説得されて、男はこの家に住むことを契約してしまったのだが……あれ以来、自分はまるで、何かに取り憑かれてしまったかのようにこんな凶行におよぶようになっていた。
今の自分の状況を鑑みるに、本当に呪われてしまったとしか言いようがない。
「俺は、更生したはず……だったんだけどなァ」
そう言って、自嘲気味に笑う。
ある日を境に、男は女性の独り歩きがやたらと目に付くようになってしまった。
もともと趣味でバイクを乗り回していたのだが……この家に住み始めてからは急に女性を目の端で追うようになってしまった。それはやがて、こっそりと後をつけたり、さらにその女性が独り暮らしであるかどうかを確認するようになってしまったり……ついにはその相手を殺害したり、というまでになってしまっていた。
なぜこんなふうにエスカレートしてしまったのかわからない。
男はもともと、高校時代に同級生を殺害してしまうという事件を起こしていた。
はじめはむしゃくしゃして手当たり次第にまわりのメンツを殴りつけるという行為を繰り返していたのだが、やがて、ナイフを所持するまでになった。そしてある日……カッとなって思わず人を刺し殺してしまったのである。
男が16の時だった。
それからは少年院で青春時代を過ごした。
院を出て、社会に出ると今度は二年間の保護観察がついた。男はだんだんとまともな感覚が身に付いてきたので、徐々に人並みに生きられるようになってきた。
いろんな場所で働き、保護観察官や保護司に見守られながら、比較的充実した人生を送っていた。
かつての事件を忘れて。
罪を忘れて。
自分は更生したのだと、そう錯覚するまでになっていた。
けれど……20歳を超え、この街に越してきてから、この家に住みはじめてから……かつての「衝動」がよみがえってきてしまった。
こればかりはどうしようもなかった。
砂漠で水を欲するように、閉じ込められていた者が自由を欲するように。抑圧されていたものが解放されていく感覚。その感覚が、ここで生活していると際限なく湧きあがってくるのだ。
だから男は時々、人知れず凶行におよぶようになった。
いつかはバレるときがくる。
それでも、この「衝動」を発散させなければ、さらに頭がおかしくなりそうなのだ。
男は血の付着したヘルメットとナイフを、流しで洗いはじめた。
乾いた笑みを口元に張り付けて。
汚れた雑巾を固く握りしめて。
ごしごし、ごしごしと力を込めて、赤黒く染まる部分を洗い落としていった。
【新しい登場人物】
●???――バイクに乗るのが趣味の殺人犯。過去にも一人、同級生を殺害している。




