3-18 真壁巡査とのデート5
梁子は両手で顔をかくすと、なるべく頭を低くしてその場ででうずくまった。
「な、何をしてるんですか? 上屋敷さん」
我に返った真壁巡査が、梁子に向かってきいてくる。
「あ、いえ……ボート乗り場に知り合いがいまして。なんか、恥ずかしくなってしまって……」
「ああ、そういうことでしたか。すみません! 上屋敷さんのお家のそばですから、当然、誰かお知り合いがいることもありますよね。ああっ、なのに俺は……なんてことを……!」
「あの、いえ、それはいいんです。わたしが、こんな風にする方がどうかしてます」
そう言うと、梁子はゆっくりと顔を上げた。
なぜ隠れようとしたのだろう。それは目の前の真壁巡査に対して失礼な行為ではないか。
キスはされたが、別に後ろめたいことをしているわけではない。
堂々としなければ。
もう一度、落ち着いてボート乗り場の方を見てみる。
自動販売機の前に立っている人物は、たしかに宮間そっくりだった。
普通の人よりは頭一つ分高い身長、顔つき、髪型、缶を持つしぐさ等もたしかに宮間本人だと思われる。
だが、トレードマークの眼鏡がなかった。
たしかいつもは、真面目そうな四角い黒縁メガネをかけていたはず。フルフェイスのヘルメットをかぶるためにわざわざ外して、コンタクトにでもしているのだろうか?
それに、もう一つ気になることがあった。
たしか今日は、宮間はダイスピザで勤務しているはずなのだ。仕事を放ってこんなところにまでプライベートで来ているはずがない。時間的にありえないことである。
他のスタッフのシフトを全部暗記しているわけではなかったが、梁子はだいたい自分がいない日は、宮間が入っているとおぼろげに記憶していた。
『どうした、梁子。あそこにいるやつがそれほど気になるか? たしかにピザ屋の宮間とかいう男に似ているが……』
「はい。似てるんですけどどうも……」
『ああ、おそらく別人だろうな。「気」がまったく異なっている。違う人間だな』
「やっぱりそうですか」
『ああ、あの人間は……』
「なんだ、人違いだったんですね。良かった」
ふう、と大きく息をついて真壁巡査に笑いかける。
「違う人だったみたいです。ご心配おかけしました」
「え……。あ、あの、今ひとり言? 言いましたか?」
「はい。あ……今のはその、屋敷神様とお話していたんですよ。上屋敷家の者は皆、神様のお声や姿が見えるんです。おかしい……ですよね」
「いえ……そ、そんな神がかり的なお姿を拝見してしまって……なんというかビックリしています。たしか前もそんなことがあったような……」
「すみません。普段はあまり人前ではお話ししないんですけど……つい」
「いえ、今もいらっしゃるんですか? 近くに」
「はい。わたしたちの側にいらっしゃいますよ」
真壁巡査はまた頭を抱えてうずくまった。
「うあああっ。なんてことだ! その……罰が当たりそうですっ! 自分は上屋敷さんにふさわしくないって烙印を押されているのに。その神様の前で……ああっ……」
「いや、その……なぜかお許しになられているので……罰は当たらないと思いますよ?」
「えっ? あっ、そうなんですか?」
「はい……あの、たぶん……ですけど。わたしが真壁巡査のことを好意的に見ていて……そして真壁巡査も誠実な人だから、たぶん大目に見てくれているんだと思います」
「そ、そうなんですか」
涙目で梁子を見あげる真壁巡査。その表情はとても間抜けに見えたが、梁子は笑わなかった。
代わりにサラ様が盛大に笑い声をあげはじめる。
『ふははははっ! なんと、情けない顔か! 臆病者め。それでも警官の端くれか! 梁子を好きだと言うわりに、その程度しか覚悟がないとは……。だが、まあ仕方ない。未知の力の前に人は恐怖するものだ……。梁子、この男に伝えろ。口吸いまではいいとして、それ以上したらさすがにわしも黙ってはおらんとな』
「……はい」
梁子は真壁巡査に冷静に伝えた。
「真壁巡査。神様が、キスまではいいですが、それ以上したら容赦しないとおっしゃってます」
「ええっ?」
「ですから……今後は迂闊な行動はお控えください」
「えっ、は、はい……! し、しませんしません。というか……」
こくこくとすばやくうなづいていた真壁巡査が、ふと声を落とす。
「これ以上は……俺も、つらいですから。あなたを忘れられなくなってしまいます」
「……」
さあっと、池の上に風が吹き渡る。
その風が二人の周囲を冷たく通り過ぎて行った。
「そう、ですね……。わたしも、つらいです」
胸の奥がツキンと痛んだ気がした。
真壁巡査は「すみません」とまた小さくつぶやいて、オールをこぎ出す。
もうボート乗り場に戻る気らしい。
見ると、宮間に似ていた男はすでにいなくなっていた。
「どこかでお食事してから帰りますか?」
「そうですね」
ボート乗り場に戻った二人は、気を取り直してまた歩き始める。
池の周囲を歩いていると、たまたま洋食屋を見つけたので入った。
ダイスピザのようにアットホームな雰囲気の個人店だった。二人ともパスタを頼み、黙々と食べる。梁子はこの時した会話をあまりよく憶えていない。
ただ、胸の奥がスースーしていたのを憶えている。
梁子は清算の時、真壁巡査がおごるというのを遠慮して割り勘にしようとしていた。だがやんわりと断られてしまう。
「今日は自分がお誘いしましたし、それに、自分の方が年上ですから。年上の意見は聞いておくものですよ……」
そう言ってさらりと支払いをされてしまう。梁子はいたたまれなくなった。
一応自分も働いているのだから、おごられる謂れはない。でも、男性の顔を立てるために、レジ前ではそれ以上押し問答をしなかった。
もう、二度と、こういうことはないのだ。
ならばせめて……今日の真壁巡査には、少しでも嫌な思いをしてもらいたくない。
「じゃあ、そろそろお開きにしましょうか」
「はい……」
「バス、ご一緒しますよ。お家までお送りします」
「あ、ありがとうございます」
洋食屋でもそれほど話がはずまなかったので、お互いにそろそろ帰ろうかという意識が生まれていた。もう少し一緒にいたい気もするが、もう離れた方がいいとも思う。
バス停に向かうまでの道すがら、梁子はそんな複雑な思いを抱いていた。
これでいいんだ、と自分を納得させる。
でも、先ほどの抱擁や、キスが……身を焦がしはじめている。
じりじりと、静かに焼けつくような感情が胸の奥でくすぶりはじめていた。
隣を歩く真壁巡査の手を取りたいと、思った。
その腕の裾をつまみたいとも。
もう一度あの胸に抱かれたいとも……考えた。
でも、それらはどれも悲しい結果しか生まない。
さきほど真壁巡査にされたことが、今の自分にこれほどの影響を与えているのだ。もし自分からしたら真壁巡査をさらに混乱させてしまうだろう。
わかっている。
わかっているから、できなかった。
じっと、真壁巡査の手を見つめる。
空想の中で、梁子は手をつないでみた。
なるほど、それはデートらしいなと思う。正式な結婚相手となら、それが可能なのだろう。
でも、それは嬉しいことなのかわからなかった。
その人と、顔の見えないその人と、今のような気持ちになれるだろうか。
真壁巡査となら、嬉しいと思った。
この人となら、良かったのに……。
寒々しい風が吹き、体全体が一気に冷えていくような感覚に陥った。
梁子は思わず両腕をかき抱く。
おかしい。カーディガンをちゃんと羽織ってきたのに……。
「……」
言葉にできなくて、さっきから梁子は自分の想いを伝えることをやめていた。
無言の時間が流れている。
真壁巡査はこれじゃつまらないだろう。でも、それはそれで「つまらない女」だと思ってくれるのだから、良いことかもしれない。それで諦めてくれるなら、それが一番いいのだ。
だから、無理に話しかけてはいけない。
ふと真壁巡査を見る。眉間にしわが寄っていた。
どうしたのだろうと思わず心配になる。
何かさっきの店でアレルギーのものでも口にしたのだろうか。体調は……そんなことを考えていると、真壁巡査がぽつりとつぶやいた。
「すみません……上屋敷さん」
「えっ?」
くるりとこちらに向きなおって、まっすぐに見据えてくる。
その背後には、夕暮れの空があった。だんだんと暗くなっていく周囲に、人通りもまばらになっている。真壁巡査は喉の奥から絞り出すように言った。
「俺……やっぱり、諦められないです」
「真壁、巡査……?」
「諦めずに、ずっと……好きでい続けていいですか? 上屋敷さんがご迷惑、でも……」
「真壁巡査、それは困ります」
「困らせてしまいますね。わかっています。でも……さっきからあなたも……おつらそうだ」
「えっ?」
意外なことを指摘されて、梁子は絶句する。顔に……出ていたのだろうか。
「上屋敷さん、俺は……ずっとあなたを好きでい続けますよ。あなたが……俺を選ばなくても。見返りは求めません。そして……そのこととは関係なく、自分はずっとあなたにできる範囲の助力をしていきます。ですから……そんなつらい顔をなさらないでください。俺はあなたの笑顔が好きです」
「真壁、巡査……」
思わず、涙が零れ落ちる。
どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。
警官だからとか、お母さんの代わりだからとか、いろんなことを差し引いても、どんなに突き放してもこんなに自分によくしてくれるのは……真壁巡査がもともと性格がいいからだろうか。
「本当に……諦めてくださったら良かったのに……」
こんなにいい人が、自分を好きでいる。
なんて……もったいない。
嬉しいのに、つらい。
つらいけど、嬉しい。
相反する気持ちがせめぎ合う。
「上屋敷さん、俺は……どんなにか諦めようとしました。でも、ダメでした。さっきも、あなたが俺の目の前でパスタを食べていて……その食べ方がとんでもなく可愛いとかと思ったり……おごろうとしたときには、頑固に断って、なんていい子なんだろうって再確認したり……今日はじめてお会いしたときからも、ずっと、きれいだ、素敵だって思い続けてたり……その、もう、いろいろとダメなんです。俺もつらいし……きっと、上屋敷さんもって……そう思ったら……」
なんだかたくさん褒められた。
はずかしい。顔に血液が集まってくる。
梁子はあわてて否定する。
「そんなこと、ないです。それに……違います。わたし、つらいなんて思ってません。アナタの気持ちに応えるなんて……ほんと、無理なんです。やめてください」
「やめません。わかってます。それが嘘だって。それでも……もう、こうして二度と二人で会えなくなるかもしれないって思ったら……納得いかないんですよ」
「バカです、真壁巡査。そんなにバカだとは思ってませんでした。アナタみたいな……いい人は、わたしじゃなく、もっと素敵な女性と幸せになるべきです」
「別に、バカで結構です。俺が誰を好きでいようと、俺の心は自由です。あなただって、そうでしょう? 誰を好きでも、あなたの心はあなただけのものなんですから」
「そんな……そんなことは詭弁……」
うつむいていると、がしっと、肩をつかまれた。
思わず真壁巡査を見上げる。何を、する気だろうか。
「キスまではいいんですよね?」
「えっ?」
「これからまたキスします。いいですね?」
「や、ダメです」
「なら、ビンタしてください」
「えっ?」
ちらり、と周りを見回す。
そこは木と木の陰になっていて、あまり人から見られない場所だった。
遠目から見たら誰かに襲われているようにも見えるだろう。
『どうする、梁子。嫌ならわしがいつでも祓うぞ?』
「……」
真壁巡査のつかむ手はだいぶ弱まっていた。逃げ出すならいまだ。
だが、その真剣な瞳に、梁子はとまどっていた。
「ビンタ、しないんですか?」
「暴力になってしまいますから……」
「暴力じゃないですよ。正当防衛です。俺は、あなたを……警官なのに……襲っているようなものなんですから」
「襲ってないですよ。でも、悲鳴でもあげればいいですか」
「……いいですよ。そうしたら俺は本当に、ブタ箱に入ることになります。それくらいしないと、あなたを諦められそうにない……。ストーカーってこういう気持ちなんでしょうね」
「……あなたは、ストーカーじゃないでしょう」
「そうですか? 一方的な気持ちをもって付け狙う、それはストーカーですよ。そうじゃないなら……」
「そうじゃないなら?」
「あなたも……俺を好きだってことです。さあ、どうにかして抵抗してください」
「言葉で……抵抗してます」
「それじゃ、ダメなんです」
真壁巡査の拘束が弱まる。もう、梁子は自由だった。
けれど、相変わらず熱のこもったまなざしで見つめられている。
「顔を、いえ、体のどこでもいいです。思いっきりぶん殴ってください。俺は……この胸の痛み以上の痛みを得たいんです」
「真壁巡査」
梁子は、何も考えずに一歩前に出た。
そして――。
真壁巡査をそっと抱きしめた。
「わたしは、あなたの気持ちに応えられません。こんなことくらいしか……できない。もう、帰ります。さよなら!」
振り切るようにして駆け出した。
幸い、真壁巡査は追いかけてこなかった。バス停までもう少し、着くとちょうど来たバスに飛び乗った。
振り返っても、真壁巡査はあたりにいなかった。
『梁子、ずいぶんと大胆なことをしたな……』
「ええ、バカなことをしました。諦めさせたかったのに……諦めたかったのに……」
『まったく、人の心は不可解だわい』
小声でつぶやきながら、梁子は人の少ない車内を歩く。
奥の席に座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「すみません、サラ様……はしたないマネをして。自分でも、なんであんなことをしたのか……」
『だから、わしがそれを諌めたことがあるかと言うておる。お前の好きなようにしろと言っただろう。お前の正式な伴侶はわしが選ぶ……だがそのあいだにどのような恋愛をするかはお前の自由だ。まったく……罪作りなことをしたものよ。あやつ、きっと今頃放心しておるぞ』
「ええ、そうですね。最低ですよ……わたしは」
バスは薄闇の中を上屋敷家に向かって走っていった。




