3-16 真壁巡査とのデート3
オールが動くたびに、木と木が重くこすれあう音が鳴り響く。
ボートは順調に池の中ほどまで進んでいた。
真壁巡査がボートの前方に乗り、梁子は後ろの方に向かい合わせで座っていた。
さすが警察官というべきか、真壁巡査は息を乱すこともなく、かなり速いスピードでこいでいる。メタボな体型の、走るのも遅そうな警官もよく街中で見る中、すごい人だと梁子は感心した。
「ええっと、ぐるっと池も一周しますか?」
ふと、前方を確認していた真壁巡査がこちらを振り返った。
片手で奥の方の離れ小島や、橋を指し示す。
「いえ……無理なさらなくて結構ですよ。こうして、ここで漂っているだけでも癒されますし」
そう言って、梁子は池の水面を眺めた。
あまり透明度は高くなく、中に魚が泳いでいるかどうかは見渡せない。ぼんやりと岸辺の風景だけが映っている。
「そうですか……じゃあ、なんとなく進みますね」
「はい。そうしてください」
真壁巡査はそう言ってオールをゆっくりと動かしはじめた。
水に流される木の葉のようにボートは進んでいく。顔にあたる風が心地いい。
「上屋敷さん……」
「はい」
ふいに呼ばれて、梁子は真壁巡査を見た。
真壁巡査は手を止めて、正面から梁子を見つめている。
その真剣なまなざしに思わず息をのんだ。いつものくしゃっとした笑顔とは大違いで、一度、エアリアル邸を訪れた時のような顔になっている。犯罪のにおいがあればすぐに確かめてその不安を取り除く、そんな仕事中の尖るような視線だった。
「ここでなら、言ってもいいですかね……。あの、あなたにお伝えしたいことがありまして。少しだけ聞いていただけますか」
「はい、なんでしょう」
「あの……あ、自分と付き合ってください! その、恋人として……」
「真壁巡査」
「好きです。上屋敷さん……俺と、付き合ってください!」
ボートの上だというのに、真壁巡査は座ったまま深くおじぎをした。
梁子はじんわりと胸が温かくなる。けれど、すぐに冷めてしまった。
やはり、あの話をしないといけない……。この人は何も知らない。何も知らないわたしを好きでいるだけなのだ。だったらきちんと説明しておかなければ。そうしないと、自分も相手も深く傷つく。
梁子は手を握りしめた。
「真壁巡査、ありがとうございます。でも……」
「あっ、その……ご、ご迷惑でしたね。勝手にこんなこと言われても……です、よね。すみません!」
「あ、いえ。そうじゃ……ないです」
「えっ?」
「迷惑ではない……ですけど……。真壁巡査はわたしの家のことを、知らない……ですよね? ですからそんな……」
梁子はこちらを窺うような真壁巡査に、絞り出すようにして言った。
「あの、わたしの家のことを……少しお話してもいいですか?」
「上屋敷さんの家……ですか?」
「ええ。あまり公にはしていないことです。ですから、絶対に秘密を守っていただきたいのですが、よろしいですか?」
「え、ええ……誰にも言いません」
「ならばお話しいたします。これは……アナタに知っていてもらいたいお話なので」
「わかりました。どうぞ、お願いします」
「我が家は……長年、特別な神様を祀っている家……なんです。その神様の力で、家の富を永続させられてきました。神様からの色々な助言や助力があって、はじめて上屋敷家の者は富を得られているのです」
「神様……?」
「はい。家神、もしくは屋敷神と呼ばれているものです。普通はお稲荷様とかを祀っている家が多いんですが、うちは特殊で……詳しくは申し上げられないんですが、ある人たちから見たら邪神とも呼ばれるものを祀っています……。にわかには信じがたいお話かと思いますが、それでも、我が家の神様はたしかに実在してるんです」
梁子はそこまで言うと、ぐっと唾を飲み込んだ。
「そして……この家の当主は代々、自分の伴侶をその神様によって決められてきました。お告げ……のようなものですね。わたしはこの上屋敷家の一人っ子。ですから……そのお告げによって選ばれた伴侶と将来結ばれる運命……なのです」
「そ……それって、本当の話ですか? 俺のことを、ふ、フるために嘘を言ってるんじゃ……」
「違います。信じてもらえないなら仕方ありませんが」
「そんな……。そんな新興宗教みたいな……」
「新興宗教、ではないですよ。何百年と続いている、我が家だけの特別な神様です。世間からはそう思われても仕方ないですね。なにしろ、ずっと秘密にしてきたので、周知されていないのですから……。それでも、家を存続させるために、我が家ではこれは必要不可欠なものなんです。ですから……」
言葉を続けようとしたが、目の前の男性があまりに動揺しているので、梁子は思わず口を閉ざした。
真壁巡査はまた知らぬ間に口調がくだけてきて、俺と言うようにまでなってきている。ぶるぶると小刻みに手が震え、軽くうつむいている。
梁子はさらに真壁巡査がどんな反応をするのか、じっと待ってみた。
「か、上屋敷さん。ひとつだけお訊きします。その……お相手はもう、決まっているのですか?」
「いえ。まだ決まっておりません。ですが……アナタではないようです」
「そうですか……」
「ええ。残念です」
ぽつり、といった言葉に、梁子自身ハッとした。
今「残念」と言っただろうか。
それを聞いていた真壁巡査も目を見開いていた。
「あ、あのっ……か、上屋敷さん。あなたは……俺のことをどう思っているんですか? こんなお誘いについてきてくれて、あまつさえ、こんなボートにまで一緒に乗ってくれて。お相手が決まっていない、のだとしても……少々、無防備すぎやしませんか。こんなんじゃ、俺……」
「すみません。今日は……きちんと真壁巡査に向き合いたいと思って……来たんです。おっしゃるように、わたしはアナタのことをどう思っているのか……まだよくわかってません。家のことを考えると、神様が決めたお相手と一緒になったほうがいいんです。でも……」
「でも?」
「まだ、決まっていないですし。たとえ決まっていたとしても、それでもアナタといたいのかどうか……それを考えたくて……。すみません。判断材料がまだ足りません。ですから、まだなんとも……」
「上屋敷さん」
「ごめんなさい。アナタのことは、決して迷惑じゃありません。嫌いでもありません。というより……」
瞬間、口ごもった。
言おうとしていた言葉を思わず飲み込む。
これは、言ってもいい言葉なのだろうか? これを言ったら、余計に相手を戸惑わせることになるのではないか。真壁巡査の想いに応えられるかわからないのに。まだ自分の気持ちも定まっていないのに。言ってもいいのだろうか。
「というか……? な、なんですか? どう思ってるんですか、俺のこと」
「アナタのことは……」
じっと、相手に見つめられるまま、梁子は答える。
「アナタのことは……好き、だと思います……」
「好、き?」
「はい……その……真壁巡査といると胸がドキドキして……。こんな……アナタからの想いを無下にしてしまうかもしれないのに……。それなのに、こんな想いをわたしが抱いたら、いけないって……わかってるのに……」
「上屋敷さん」
目頭がじわりと熱くなる。「それ」がぽろっと頬に零れ落ちるまで、時間はさほどかからなかった。
梁子自身、驚く。
涙が、あとからあとから溢れ出してきていた。止めようと思っても止められない。思わず、震える手で口を押さえる。
「上屋敷さん!?」
「だ、大丈夫です。ちょっと、気持ちが高ぶってしまって……すみません」
手元のバッグからハンカチを取り出そうとする。だが、それよりも早く、目の前に白いハンカチが差し出された。
「使ってください。あの……すみません。俺が……泣かせてしまった。もともと……あなたは資産家のお嬢さんだ……こんな、ろくに稼げもしない男が言い寄ったりして、戸惑わせてしまった……。本当に、すみません!」
「ち、違っ、真壁巡査……!」
「ほら、涙を拭いてください。今日はいつもよりお綺麗なんですから……」
「……あ、ありがとうございます。すみません」
梁子はハンカチを受け取ると、そっと目元に当てた。
そのまま真壁巡査を見ることができない。
ガコン、という音がして、またボートが動き始めた。真壁巡査がまたオールをこぎ始めたのだ。
「はあ……もともと、釣り合わないんじゃないかなあとは、思っていたんですけどね……。でも、ダメもとで告白して……少しでもあなたの気持ちが知れて良かったです。告白した甲斐がありました」
真壁巡査の声に明るい色がまじる。無理して明るくしているようだった。
その顔を梁子は見ることができない。うつむいたまま、自分の足元を見る。
「なんというか……大変、ですね。そういうご家庭にお生まれになると……。そんな中、少しでも自分のことを真剣に考えてくださって……嬉しかったです。本当に……ありがとう。上屋敷さんを振り回して、傷つけてしまったっていうのに不謹慎ですね。すみません……」
「……」
真壁巡査の言葉が、いちいち胸に突き刺さる。
梁子は胸元の服をぎゅっと握りしめた。
自分は、この人に何を返せるんだろう。気持ちを伝えても、この人にはもうたぶん本当の意味では伝わらない。こんなことなら、伝えなければよかった。ただ、単に告白を断れば……嫌いだと嘘を言えば……そもそもここに来て会わなければ……などと後悔の念がよぎる。
「傷つけただなんて……そんな風におっしゃらないでください。だったらわたしだって……アナタを傷つけました。思わせぶりなことをして……。真壁巡査、わたしも嬉しかったんです。付き合ってほしいって言われて。そこまで、想われて……」
「か、上屋敷さん……」
思い切って顔を上げると、そこには首から上を真っ赤にした真壁巡査がいた。
「わたしの、どこがいいんですか? 普段から地味で。絵を描くことくらいしか特技はないです……。そんな女になんで……それほどお会いもしたこともなかったですよね? それなのに、どうして……」
「初めてお会いした時から……自分は猛烈にあなたに惹かれていました!」
若干喰い気味に答えた真壁巡査に、梁子はハンカチを取り落しそうになる。
気迫が半端ない。サラ様も遠くで思わずうなっていたほどだった。
「顔とか、姿とか……そういうんじゃないんです。いや、もちろん! 女性としてとても素敵ですよ、上屋敷さんは。でも、それだけじゃなくって……自分は上屋敷さんをはじめて見たときに、なぜか無性に守ってあげたくなったんです。それからはずっと、あなたのことを考えています!」
「わ、わたしのこと、何も知らないのにどうして……」
「今、あなたの家のことを聞いても、この想いは変わってません。あなたのことをどれだけ知っても、あなたがどこの誰であろうと……あなたの傍にいたいと、今も強く思えるんです。これはもしかしたら……母のことがあるからかも……しれませんけど、ね」
「え……? お母様のこと、ですか?」
「はい。いままでずっと自分は、母の病をどうにもしてやれない、無力な人間だと思っていました。ですからせめて……と仕事に打ち込んできたんです。でもそんな折にあなたと出会って……無意識のうちに、あなたを母の代わり……いえ、『母以上に守りたい存在』という風に見てしまったんだと思います。勝手なこと……失礼な考え、ですよね。でも、それもあったかもしれないけど……今、思いました。でも……あなたはとても素敵な女性で……何かの代わりなんかじゃない。あなたの伴侶になれなくても、俺は、ずっとこのままのこの気持ちを抱いていたいです。それでもいいですか、上屋敷さん!」
「真壁巡査……」
そっと、梁子はいつのまにか真壁巡査に手をとられていた。
つながれた手が、温かい。
手の温かい人は心が冷たいなどとよく言われるが、そんなのは迷信だ。この人は……きっと心の底まで温かい人だ。その気持ちに応えられないと自分は言っているのに、まだそんな風に言ってくれる……。こんないい人を、これ以上傷つけられない。
「ごめんなさい……」
梁子は手を離して、できるだけ冷たく言い放った。




