3-14 真壁巡査とのデート1
翌日。
梁子は学校が終わるとバスを乗り継いで、石神井公園へとやってきた。
大きな池が特徴的な、緑の多い公園である。
昨夜、電話をかけてきたのは真壁巡査だった。
エアリアルからだと思ったのだが違った。あの天才科学者が、下僕の異常に気が付かないはずはない。だが、スルーを決め込まれた。つまり衣良野はその程度の存在だったのだ。梁子はそのことに複雑な思いを抱いた。今もエアリアルからの連絡はない。
真壁巡査の要件は、「学校が終わったらこの公園で一緒にデートしませんか」というものだった。
たしか食事だけの約束だったはずだ。それなのに、いつの間に「デート」などということになってしまったのだろう……。梁子は突然の予定変更に面食らったが、すぐに考えを改めた。そうだ。外で会った方がもしかしたら緊張しなくて済むかもしれない。真壁巡査もきっと同じことを考えたのだろう。ならば、と梁子は二つ返事で了承した。
「2時45分……まだ待ち合わせまで15分はありますね」
少し早く着きすぎたかもしれない。
待ち合わせ場所はボート乗り場だった。でもその付近でうろうろしていると、ずっと待ちわびているように見える。それは恥ずかしい。
梁子は少し離れたところにある、池に面した簡素なベンチに腰かけた。
『梁子、緊張しているのか?』
しゃがれ声が耳元でささやく。
梁子は誰もいなくなるタイミングを見計らって、応えた。
「はい、多少は……なにしろ初デートですからね」
そっけなく言う。
池の方を見ると、何艘かの手漕ぎボートがあちこちに浮かんでいた。
対岸の葉桜の枝がしなだれかかるように水面に延びている。ボートに乗る人たちはその枝を避けるようにして進んでいた。
『ふん、そわそわしおって。ずいぶん浮かれておるではないか。その恰好……あの男から誘われたのがそんなに嬉しかったか』
「浮かれている? わたしがですか。そう見えますか?」
『ああ。それほどあの男を特別視していたとはな。驚きだわい。ずいぶんとまた、めかしこみおって』
いわれて梁子は自分の服装を見た。
梁子にしては珍しい、派手な印象のワンピースだった。白地に濃いピンクや青の小花が散っている。まだ微妙に肌寒いので、グレーのカーディガンもその上から羽織っていた。
足元は低いヒールのパンプス。
全体的なバランスとしてはハイヒールの方がよかったかもしれない。でも、公園という場所ではなにがあるかわからない。安全面を考慮して、あえて動きやすいものにしていた。それでも梁子は普段スニーカーばかりなので、ものすごく違和感がある。
「別に、あのおまわりさんのためじゃ……ないですよ。『デート』なんて、この先またあるかわからないですからね……今日のわたしの対応次第では、相手に失礼を働いてしまうかもしれませんし。一度きりしかない機会だったら……せめて、とそう思っただけです」
『自虐的だな。お前が本気を出せば、世の男どもからは引きも切らんだろうに。まあ、どうするつもりかは知らんが……せいぜい後悔のないようにな』
「はい」
梁子は立ち上がると、待ち合わせ場所へ移動することにした。
そろそろ時間だ。もしかしたらすでに相手が来てしまってるかもしれない。歩き出そうとすると、ふいに後ろから声をかけられた。
「あのう、上屋敷さん?」
ふりかえると、そこには真壁巡査がいた。
田中邸へ一緒に行った時のような、カジュアルなジャケット姿だった。以前と違うのはボディバックを背負っていたことだろうか。
真壁巡査は不安そうな顔をしていたが、すぐにくしゃっとした笑顔をみせた。
「あ、やっぱり、上屋敷さんでしたね。もしかしたらと思ったんですけど、でも人違いだったらどうしようかってなかなか声をかけられなくて……すみません。そのワンピース、とってもよくお似合いです。普段も素敵ですけど、なんていうか今日は……また違った印象で、思わず見惚れてしまいました」
その言葉は、お世辞なのか本心なのかよくわからない。でも、顔を赤らめたり、頭をかくしぐさは梁子を安心させた。いつもの真壁巡査だ。
「ごめんなさい。わたし……少し早く着いてしまって。待ち合わせ場所にいなくて、すみません。もしかしてわたしを探されてました?」
「あ、いえ。自分も30分前くらいに着いちゃいまして。ははっ……早く着きすぎですね。楽しみにしていたものですから、つい……自分は時間まで少し周りを歩いてました。だから……大丈夫ですよ。あの、今日は本当に来てくださって、ありがとうございます」
「いえ、あの……」
いきなり頭を下げられて、梁子はうろたえた。
どうしようと思っていると、真壁巡査はまたすぐに顔をあげる。
「あっ、それで……さっそくですが、少し散歩しませんか? ここ、歩くと気持ちいいんですよ」
そう言って真壁巡査はさっさと前を歩き出す。
あっけにとられていると、くるりと振り向かれた。
「あ、すみません。勝手に決めちゃって……な、何やってるんだ俺は……。あ、あの、お嫌でしたらそうおっしゃってくださいね! 自分、ちょっとテンパってまして……」
「あっ、いえ……大丈夫です。散歩、しましょう。わたしもここ来たのすごく久しぶりで……小さいころはよく遊びに来ていたんですが……でも最近は全然……ですから、良かったらわたしにもご案内させてください!」
「本当ですか? ありがとうございます。そうか。上屋敷さんはここの地元の方……でしたよね。考えてみたらこの公園もよく知ってらっしゃったんだ……」
「ええ。それじゃあ、行きましょう」
「はい」
梁子は真壁巡査の少し後ろを歩く。
隣に行こうか迷ったが、やめておいた。友人でも恋人でもないのに、いきなりそんな風には歩けない。
いや……この間は当たり前のように「隣に」並んで歩いていたのではなかったか?
なんでそんなことができたのだろう。いまさらながら自分自身に驚愕する。そうだ。あのときは……特に意識していなかった。でも、今は……。
「上屋敷さん、なんで後ろの方にいらっしゃるんですか?」
「えっ?」
「お話しにくいので、できれば隣に……」
「は、えっと……」
「あ、すみません、また……。ご迷惑ならいいんです、ほんと、俺……すみません!」
「いえ、こちらこそすみません! ちょっと、考え事をしてしまって……な、並んで歩きます! あ、その、隣に並ばせてください」
「あ、えっと……そ、そうしていただけると助かります。ありがとうございます」
「いえ……」
なんだろう。わけもなく顔が熱くなってくる。
梁子は気持ちを落ち着けようと、息を必死で整えた。深呼吸、深呼吸。気を紛らわせるために、他のことを考える。そうだ、真壁巡査にいろいろと質問をしてみよう。そうすれば平常心に戻れるかもしれない。
「あの……そ、そういえば真壁巡査はどちらのご出身なんですか。この東京に……というか今は大井住市にお住まいなんですよね? でも……」
「ええ。自分は、埼玉出身です。地元は田園がずっと広がっているようなところでした。配属はそっちでもよかったんですけど、ずっと東京に憧れていまして。警察学校を卒業したら、この大井住市に配属されることになりました。それからはずっと……ですね。ここは東京でも特に気になっていた街だったので、嬉しかったです」
「そうですか」
「はい。上屋敷さんはずっとこの街にお住まいなんですよね」
「ええ。わたしは……引っ越しとかもしたことがなくて……ずっと、ここですね。そうですか。真壁巡査は埼玉の方だったんですか」
「はい。地元では……母と二人暮らしでした。今はこっちで独りですけど……ね。家事を全部やらなきゃならないから大変ですよ。まあ、今は慣れましたけどね。上屋敷さんはご家族と暮らしてらっしゃるんですよね。それは、とっても素晴らしいことです」
「え?」
「今しかできない……かもしれないですからね。自分は、地元に残してきた母とはもう一緒に暮らせないんです。ですから余計にそう、思います」
「あの……?」
「ああ、すみません。変な話をしちゃいました。忘れてください」
はっとしたような顔になって、真壁巡査は視線をそらす。
梁子は気になって問いかけた。
「あの、全然変な話……じゃないですよ。良かったらお聞かせください。ご家族のこと……。えっと……真壁巡査もお嫌でなければですが」
「あ、その……あまりお聞かせするような話じゃない、と思ったんですが……。でも、そうですね。自分のことをもっと知ってもらわないと、ですね。わかりました。お話します。聞いても引かないでくださいね」
「……? はい」
「では、お話しますね。あの……うちは、母子家庭でして。小さいころに両親が離婚して、父は今どこにいるのかすらわかりません。ずっと、母が自分を育ててくれていました。でも……数年前から体を壊して……今は病院に。それで、俺だけが東京で暮らしています。仕事が忙しかったりで、最近はあまり会いに行けてないんですが……」
「そうですか。それは……大変ですね」
「あ、ですから……そんな状態なので、どう思われるかって心配で。母を放ってとか……そんな風に思わないでください。あの、母は今すぐ死ぬような病気ではないんです。長年かけて悪くなっているっていうか……あの、その、なんか、すみません……」
「いえ。そんな中、来ていただいて……今日は真壁巡査の、貴重な一日ってことですね。ありがとうございます」
「え……そう思っていただけるなんて、嬉しいです。あの、ですから……上屋敷さんがとくに気にされることはないんですよ。今日は、楽しみましょう!」
「はい……」
あわてたようにガッツポーズをとる真壁巡査がおかしくて、梁子は不謹慎だと思いつつも内心笑いそうになっていた。
そんな家庭もあるのだと、感慨深く思う。
きっと真壁巡査は、今も働きながら母親の入院費を稼いでいるはずだ。
自分はぬくぬくとした環境で育ってきたから、きっとその苦労を真にうかがい知ることはできない。それでも、その一端を知ることができて、良かったと思った。
梁子は真壁巡査の家族に思いをはせる。
母子のふたりだけでも、きっと真壁巡査たちは幸せに生きてきたのだろう。
お互いが唯一無二の家族。
その者が、二度と一緒に暮らせないほどの病にかかったら、いったいどういう気持ちになるのだろう。
上屋敷家の人間は、よっぽどのことがない限り重病にはならない。
ほとんど医者にかかることなく、80までの天寿をまっとうする。
そんな自分の家の方が異常なのだ。
多くの人間は、普通に病気にかかりもすれば、怪我もし、あっけなく事故で死んだりもする。
そんな未来がすぐそばで確定しているなら、きっとやるせない思いにとらわれるのだろう。
梁子にはよくわからない。
どうして、この人はわたしに執着するのだろう――。どうしてわたしは――。
それを知るために、今ここにいる。
大きな木々の下を歩く真壁巡査を、梁子はそっと見つめた。
その胸の内に秘めた思いを、きちんと聞くために。梁子は真壁巡査に近寄った。