2-26 お別れ
サヨさんの葬儀が一通り終わった翌日、梁子は正吉とともに田中邸を訪れていた。
時刻は19時。
少し緊張した面持ちの正吉とともにその門前に立つ。
あらかじめ健一には連絡を入れておいた。正吉が行けることになったと伝えると喜んでくれたが、実際はどんな風な態度をとるか見当がつかない。
穏便に会合が済めばいいが……と梁子は思う。
もしかしたらお礼というのは建前で、本音は「おふくろとどんな関係だったんだ」「あんたはいったい何者なんだ」とか根掘り葉掘り聞いたり、「ずいぶん仲がよろしかったようですね」などという嫌味のひとつでも言ってやりたいのかもしれない。
梁子は一抹の不安を抱きながら、田中邸のインターフォンを押した。
しばらくすると、中から痩せぎすの男が現れる。
健一だ。
健一は人間姿の正吉を認めると、ハッとしたような表情になった。
片目に傷があるのをじっと見つめている。
「あんたが……正吉さんか。まあ、中に入ってくれ」
ぼそっとつぶやくと、健一は居間まで案内してくれた。
こたつ布団のかかっていない掘りごたつの前までくると、一言言い残して離れていく。
「そこに、かけていてくれ」
「ありがとうございます」
「……」
礼を言った梁子と違い、正吉は無言でいた。
座っても、じっと健一の様子を窺っている。健一はしきりのない部屋続きの台所で茶の用意をしていた。
その姿を見つめる目は比較的穏やかである。もしかしたら昔の健一を思い出しているのかもしれない。
健一は戻ってくると、卓に茶を二つ置いた。梁子たちの対面の席にも一つ置いて腰かける。
「さて。ではあらためて、自己紹介といこうか。俺は田中健一、田中サヨの一人息子だ……そちらは?」
「わたしは……上屋敷梁子です。こちらの、正吉さんの知り合いです。サヨさんとはこの方を通じて知り合いまして……」
「あんたはまあ、わかってるよ。問題はそちらだ。まさか口がきけないなんてことはないだろう?」
「……」
正吉はどう言おうか迷っているようだった。
一度うつむき、顔をあげ、一呼吸置く。
「……正吉だ。今はそれしか、言えない」
「そうか。まあいい。とりあえず、よく来てくれた。あんたに……渡したいものがある」
健一は腰をあげると、真横にある棚のところに向かった。
そこにはたくさんのタヌキグッズが並べられており、サヨさんの異常な収集癖を表している。
話に聞いていたとはいえ、正吉はあらためて驚いていた。まさかこれほどの量とは……と目を見張る。壁にかかっている絵画もいくつもある。そのどれもが正吉をモデルにしたものだ。
健一はその中から、あるぬいぐるみを手に取った。
それを卓の上に置く。
片目に傷があるタヌキのぬいぐるみ……それはつぶらな瞳で正吉を見上げていた。
「これは……上屋敷さんが見つけてくれたもんだ。おふくろが死ぬ前に頼んでいたらしい。この中に、俺宛の手紙が入っていてな。その手紙の内容は……正吉さん、あんたも読んでくれたよな?」
「ああ。横のこいつに、教えてもらった」
「いまさら、その内容についてどうこう言うつもりはない。ただ……礼を言っておきたかった」
「なんの……?」
「昔、助けてもらった礼を、だ」
「は?」
「えっ? 健一さん……?」
突然のビックリ発言に、梁子たちは思わず目をしばたたく。
「それと、謝罪だな。昔、俺がガキだった頃……庭の木から落ちたことがある……。その時に、あるやつに傷を負わしちまってな。それをずっとずっと気にかけていたんだ。あの時は……本当に済まなかった」
「お……おいおい、誰かと……間違えているんじゃねえか?」
「……」
困惑する正吉を前に、健一はフッと笑う。
「じゃあ、俺の独り言だと思って聴いてくれ」
「……」
「そいつは昔からおふくろと仲が良くてな。少なくともおふくろは俺よりもそいつにずっとご執心だった。たしか正吉って名前までつけていたな……」
「……!」
「フッ、奇遇だな。あんたと同じ名前だよ。だからかね……そこまで執心しているのを見ていたからか、俺はそいつに助けてもらったってのに、素直に礼を言うことができなかったんだ。子供ながらの小さな嫉妬さ。その頃の俺は毎日のようにジジイとババアに辛く当たられていてな……それで根性がねじ曲がっていたのもある。いびりはおふくろの方が凄まじかったが……親父は何もしてくれねえで、ただ黙って見ているだけだった。どうにかしてくれと訴えても、黙って耐えろとだけしか……。そのうちおふくろも何も抵抗しようとしなくなった。誰にも助けを求めねえで、そのくせ、そいつにはたびたび愚痴ったりしていてな。それだけで満足しているようだった。俺はイライラしてた。そんだけ愚痴る暇があるなら死ぬ気でどうにかしてくれよって……」
「健一さん」
その語り口はどこか正吉に似ている。
不安そうな顔をした梁子に対し、健一は自嘲した。
「ははっ、わかってるさ。人違いなら、こんな話聞かせるのは筋違いってもんだよな。でもさ……どうしても聞いておいてほしいんだ。あんたの見た目と名前……重なるものが多すぎる。人違いだったとしても縁あるものとして聞いちゃくれないか」
「……」
「俺はそいつにずっと礼を言いたかったんだよ。きっと、ずっとおふくろの支えになってくれてただろうからな……。本来は、それは俺がしてやらなきゃならない役だったんだ。けど……ジジイとババアのせいで、俺はおふくろや親父、それにそいつにも筋違いの憎しみを抱いちまってた……」
「健一さん……」
「俺も、弱い人間だったんだよ。おふくろと同じでな。おふくろ譲りなんだ、この性格は。変なところが似てしまったが……今は本当に、感謝している。こんな俺がここまで大きくなれたのも、おふくろのおかげだって……今なら思える。そいつのおかげもあるってな。おふくろを支えて続けてくれたそいつにはもう、感謝しかない。ありがとうな、ありがとう……正吉さん」
「だから俺は! その……いいから顔をあげてくれ」
正吉は、目の前で健一に頭を下げられて、困ったように顔をかいていた。
まさかそのことで礼を言われるとは思っていなかったのだろう。
これには梁子も驚きだった。
「それで、あんたにはこれを渡しておきたいんだ」
「……いいのか?」
「ああ、これはあんたに持っていてほしい」
卓の上のぬいぐるみを押し出す。
正吉は幻影でそれを受けとるフリをした。実際は口でくわえていたが、両手で包むように持ち上げる。
「じゃあ、それだけだ。わざわざ来てもらって悪かったな。上屋敷さんも……」
「いえ。あ、そうだ。お線香あげさせていただいてもよろしいですか?」
「ああ」
健一に案内されて、仏間に行く。
仏壇にはサヨさんの遺影と遺骨があった。梁子は線香に火を点け、手を合わせる。
正吉もそれにならう。実際に物に触れることはできないので、幻影で線香をあげるフリをする。
ふと、梁子は庭の方を見た。
そこには白木蓮の花弁が一面に降り積もっていた。
誰も手入れすることのなくなった庭に、白い絨毯が敷かれている。
「健一さん、この家はやはり……売り払われるのですか」
「ああ。そのつもりだ。正吉さんには悪いが……それがおふくろの遺志だからな」
「あの……でしたら、あの白木蓮の木、わたしにお譲りいただけないでしょうか」
「えっ? あれを……か? あれはちょっとやそっとじゃ動かせないと思うが……」
「ああ、いえ。知り合いに造園業者がおりますので……もろもろの作業はすべてそちらでやらせていただきます。それを考慮した上でのご提案です。もし売られるのでしたら、どうかわたしに譲っていただけませんか。以前から、あの木はとても素晴らしいと思っておりましたので……」
素晴らしい、それは決して花だけのことを言ったのではない。
愛と憎しみが入り交じった家族の歴史、人間と化けタヌキが抱いた恋情……それらの「いわく」も価値あるものだ。大庭家の守り神にとって……それは極上の食事となりえる。
梁子の親戚筋にあたる大庭家には、サラ様と同じような守り神が存在する。その守り神の主食はいわくつきの植物だ。その親戚に協力することも、梁子はいとわない。持ちつ持たれつの場合がままあるからだ。ある家とかかわり合いになるとき、間取りと植物が両方得られることがある。今がまさにその状況だった。
大庭家の守り神は、今も必死になって街中を家主と捜しまわっているはずだ。以前、飢え気味だと聞いていたので、この機会を逃すわけにはいかない。
それに……。
手紙に書かれていたことには背くことになるが、梁子はあれもサヨさんの本心だとはどうしても思えなかった。
全部処分するなんて……本当はいつまでも正吉とあの花木を、庭を見ていたかったのではないだろうか。大事な思い出の庭だ。できればずっと残しておきたいはず……。
それは、正吉もきっと同じだろう。
生きていれば、ずっとそうして二人でいられたのだから。
「……別の場所に移動させるのも、ほぼ処分するのと同じです。サヨさんの遺志に背くことにはならないと思われます。それでも、厚かましいお願いではあります……ご無理は申しません。どうでしょう、健一さん?」
「そうだな……」
健一は腕組みをすると、考え込むように目を閉じた。
「処分費用が少しでも減るなら……願ってもない話だ。あんな大きな木、売ったとしてもどうせ二束三文だろうからな。おそらく業者に渡しても処分されるだけだろう。どうせゴミになるなら、欲しい人に譲ったほうがいい、か……」
「まだこれはご相談の段階ですから、今すぐお決めにならなくてもよろしいですよ。また後日あらためて……お窺いしに参ります」
「そうか? まあ、前向きに検討しておくが……あの、ひとつそちらにも訊いておこう。正吉さん、あんたもそれで構わないか? あれはいつかは処分されてしまうものなんだが……それを上屋敷さんが欲しいというんだ。いいだろうか?」
「……俺は、構わない。俺の心にはきっと、ずっと残ってるからな……」
「正吉さん?」
声がしたかと思うと、いつの間にか正吉は縁側に移動していた。
庭に行きたいのかもしれない。
そう思って梁子は障子を開け、縁側の吐き出し窓も開けてやる。
すると正吉は庭に下りたち、白木蓮の木の下に行った。
「おい、あの約束だけどよ……やっぱりやめたわ。記憶を消すのは、やめにした。ずっとあの思い出を胸に大事に抱いていくことにするよ」
振り返って、にかっと笑う。
それは清々しい笑顔だった。
「正吉さん……」
「もうここへは来ねえ。ずっとずっと遠くへ行く。そうだな、ここよりは少し田舎の町かな。この街はだいぶ前からうるさくなってきちまった……サヨさんがいなくなっちまったんなら、もう未練はない。俺はもっと静かなところで余生を過ごすよ。ありがとうな。ケンイチも……ありがとう」
「おい、あんた……!」
「しょ、正吉さん!」
木の下で正吉は変化を解くと、タヌキの姿に戻った。
最後にこちらに聞こえるような大きな声で叫ぶ。
「じゃあな。この木よろしく頼むぞ、上屋敷!」
そう言うと、ぬいぐるみをくわえたまま闇の中に消えていった。
道路脇の生け垣の下からくぐっていったのだ。
健一は唖然として見送っていた。
耳元でサラ様のしゃがれ声がする。
『ふむ。記憶を消すという余計な手間がなくなったな、梁子』
「……」
梁子は正吉の消えていった方角を見つめた。
どこへ行くのかわからないが、それでもこの街から離れればもうエアリアルたちに捕まることはないだろう。
「さようなら、正吉さん……。お別れ、ですね……」
思わずつぶやいたが、横にいる健一は何も言わなかった。
やはりあの正吉が例のタヌキだとわかっていたのだろう。
今はそうして無言でいてくれるのが助かった。深く追求されると面倒くさい。
白木蓮の花弁が雪のように降り積もっている。
春の夜はしんと静まり、綺麗な月だけがあたりを照らしていたーー。




