2-24 本当の気持ち
「サラ様……衣良野さんってエアリアルさんのこと……好きだったんですね。だから、あんなに……」
『フン、わしにとっては、どうでもいいことだわい。それに、だからといって梁子に害を与えるのは許せん』
田中邸の近くの公園に到着した梁子は、ベンチに座っていた。
膝の上では抱えられた正吉がすやすやと眠っている。
サラ様は誰も部外者がいないのを確認してから、園内に結界を張っていた。
青白い光の壁が公園のまわりを覆っている。
「でも……サラ様? 千花ちゃんも、不二丸ちゃんをそういうふうに思っていたみたいですし、そういうことって割とあるんですかね? 人と、人ならざる者同士が……恋愛感情を持つなんて」
梁子は親戚筋の少女と、その家の式神である黒い柴犬のことを思い出した。
サラ様は呆れたように空を見上げている。
『ああ……あやつか、たしかにそんなようなことを言っておったな……。はあ、とかく人とは不思議なものだわい。モノに対して、ときに異常な執着心を見せることがある……。車に執着したり、家に執着したり、金に執着したり。人に対してはストーカーになったりもするものだ。であれば……そのような「人間」に接することが多いモノなら……動物であろうが、人ならざるものであろうが、同じように気が触れることもあるだろうよ』
「気が触れるって、そんな言い方」
『そういうことだろう? およそ正気の沙汰ではないわ。その対象が欲しくて欲しくてたまらなくなる。中毒や依存症に近い状態だ。お前もそういう想いを向けられて、奇異だと感じたことがあるだろう』
梁子は自分のことを振り返って、たしかにと思った。
「まあ……なんでわたしのような、見た目平々凡々な人間に、熱烈な視線を向けられるんだろうって……そう思うこともありますよ。それはサラ様のせいでもあるんですけど、ね。でも、もしサラ様のせいじゃなかったとしたら……お話したこともない、ただそこに偶然居合わせただけの相手にそんなふうに思うのはちょっと変だなあって思います。でも……好きなるってことは、それだけで貴いものじゃありませんか? 正吉さんのように……」
『ふん、どうだかな。先も言ったが、わしにはどうでもいいことだ。上屋敷家の者が「つがい」になるよう心を砕く以外は恋愛というものに興味はない』
「そうですか? サラ様は……誰かを好きになったことって、ないんですか?」
『さあな。昔あったような気もするが……遠い記憶の彼方だわい。わしのことはいい。お前の方はどうなんだ?』
急に話を振られて、梁子はどぎまぎした。
「わ、わたしだっていいですよ! なな、何も今のところないですし……」
『本当か? あの警官の……』
「うわああああっ! な、なんのことかわかりませんね。サラ様の勘違いじゃないですか?!」
『勘違いか……ふははは。まあよいわ。では、そろそろ始めるか』
「あ……はい。正吉さんですね」
梁子がタヌキの体をサラ様によく見えるようにする。
サラ様は、近づくとその体の上に手をかざす。
頭の部分が淡い光に包まれ、やがて体全体もその光に包まれていく。
「ん? 俺はいったい……」
目を覚ました正吉は、キョロキョロと辺りを見回した。
梁子と目が合う。
「気が付きましたか、正吉さん。わたしが誰だかわかりますか?」
「ん? ……あ? お前! 遅かったじゃねえか。手紙は渡せたのかよ」
「サラ様……!」
梁子は記憶が戻っていることに歓喜する。
サラ様を見上げるが、その顔はどうだと言わんばかりの表情だった。
『ふむ。やはりうまくいったようだな』
「はい! 良かったです……正吉さん」
「おい、何を言ってるんだ? 手紙の方はどうなったって聞いてんだよ。おい」
「ああ、すいません。ちゃんとお手紙は渡しましたよ、健一さんに……」
「そうか。それは良かった。じゃあ、さっそく記憶を消してくれ。そういう、約束だっただろう?」
「それなんですが……」
梁子は手持ちのバッグからサヨさんの手紙を取り出す。
正吉はそれを見て、気色ばむ。
「おい、どういうこった! ちゃんと渡せてねえじゃねえか!」
「いえ、ちゃんと渡しましたよ。これには理由があって、健一さんからまた返してもらったんです……。正吉さん、この手紙の内容はご存じですか?」
「はあっ? 知るかよ……。俺は人間の字は読めねえ。それに知りたいとも思わなかったからな。それがどうした」
「この内容、読みますね。正吉さんに知ってほしいですから……」
「……」
梁子はそう言うと、ゆっくりと手紙を読み上げる。
空には明るい満月が照っていた。
その光が優しくあたりを包む。
すべて聞き終わると、正吉は重い口を開いた。
「そうか。あの庭はもう……家も、なくされちまうのか。まあ、俺の記憶が消えればそんなこともどうでもよくなるんだがな……そうか」
「はい。サヨさんの遺志だからと……息子さんもこの通りにするそうです。でも……そこが問題じゃないんです。この手紙からもわかるんですが……サヨさんの本当の気持ち、正吉さん、なんだかわかりますか?」
「俺にいまさらそれを……言わせるのかよ。そこにも書いてあるだろうがよ。俺のことは……」
「いいえ。違います」
「はあ? なに言って……」
「違うと思います」
梁子は、困惑する正吉の目を見て言った。
「正吉さん。サヨさんは、たぶん……正吉さんを『愛していた』と思いますよ」
「はあっ? お前……本当、なに言って……いい加減なこと言うな! そんな勝手なこと……いくら俺でも許さねえぞ!」
正吉は背中の毛を逆立てると、梁子に威嚇する。
サラ様が危険を察知して身構えるが、梁子はそれを手で制して言った。
「勝手な憶測かもしれません。でも……わたし、見たんですよ。あの田中家にあったものを……」
「田中家にあったもの?」
「はい。正吉さんは見たことありますか? あの家には、たくさんタヌキのグッズがあったんですよ。サヨさんが趣味で集めているにしては、ちょっと異常な量でした。この手紙も、アナタにそっくりなタヌキのぬいぐるみに入っていましたしね。あれだけ精巧な人形は、きっと並々ならぬ愛着がなければ作れなかったと思います」
正吉はしばらく黙りこんだが、やがてつまらなそうに言った。
「それが……どうした。たしかにサヨさんは俺をモデルに絵を描いていたり、何かを作っていたようだ。だがな、だからってそれはちょっと飛躍しすぎじゃないか? 単なる趣味に違いな……」
「この手紙は、息子さん宛の手紙です。はたしてそこに『本当の気持ち』を書けるでしょうか。わたしは……そうは思えません」
「お前……っ」
「わたしだったら……きっと、身内に本当の気持ちを知られたくはないです。書くとしても『ぼかして』書くと思います。正吉さん……アナタなら、この気持ち、わかるんじゃないですか? アナタをどう思っていたのか、本当はどう思っていたのか。それは……正吉さんになら、わかるはずなんです!」
「それは……。ふ、ふざけんな……そんなこと……」
「アナタと、最後に別れるときも……この手紙の中で家の処分を頼んでいることも、サヨさんはアナタに自分のことを……ずっと忘れられずに苦しんで欲しくなかったから、ああすることにしたんじゃないですか? あなたの幸せのために、『人間の自分がこれ以上障害になってはいけない』って思ったからじゃないんですか?」
「そんなこと!!!」
正吉は思い切り叫ぶと、バッと梁子の膝の上から跳びすさった。
苦しそうな複雑な表情を浮かべながらこちらを睨み付けている。
「……言うな! 俺ならわかるって? ああ……。ああ……わかるよ! あの人は……俺にいつだって優しかった。いつも幸せそうにしていた。それが、どんな思いかなんて……俺だってバカじゃない。知らないふりなんて……できなかったさ! でも、サヨさんは何も言わなかった……。俺もだ。ときどき悲しそうな顔をしていたが、それはきっと俺もだったろう……。俺たちは、人間と化けタヌキだ。それに、さらにお互い年老いたモノ同士だ。あのまま何もなく、一緒に暮らしていければ、それだけで良かったんだ。それが終わりを迎えるのなら……すべてが無くなっちまったほうがずっといい!」
「それが……アナタの本当の気持ちですか?」
「ああ……失恋、したんだ。相手の命が無くなっちまったんだ。どっちだって同じ『失恋』だろ」
「そうですね……。正吉さん、アナタは知って、というか……気付いていたんですね……」
「そうじゃないって思い込もうとしてたってのに……まったく余計なことを言いやがって」
文句を言われて、梁子は苦笑した。
「はい、すいません。正吉さんはサヨさんを失った悲しみを、そうやって少しでも減らそうとしてたんですよね。それなのに……差し出がましい真似をいたしました。申し訳ありません……」
「いいさ……この話だって、直接サヨさんから言われたわけじゃないからな。『好き』だって……。勘違いっていう可能性も完全に無くなったわけじゃない。どれだけお前が裏付けの証拠を持ってきたってな……本当のところはわかりゃしねえんだ。でもな、それでもいいんだ。俺が、想ってたって事実だけがあればな。だから……前に言った通り、忘れさせてくれ。それだけが俺の望みなんだ」
「正吉さん……」
「きれいな思い出のまま。忘れさせてほしいんだ。サヨさんが死んだってことも、忘れたい。そうすれば……そうすれば……っっ……」
ぽたぽたと、地面にタヌキの涙が落ちていく。
声もなく泣く正吉に梁子は胸が痛んだ。
そうだ。これは失恋だ。
想いが通じあっていたとしても、これはれっきとした失恋なのだ。
その痛みを、梁子は最近どこかで知ったような気がする。
「サラ様……」
『ああ。決意がこれでも変わらんようなら、当初の約束通り記憶を消してやらねばなるまいな。ただ、梁子……もうひとつこいつに伝えておく話があったんじゃなかったか?』
「ああ、そうでした。正吉さん、健一さんからの伝言です。一度アナタにお会いしたいそうですよ」
「は? なんで……ケンイチが? いったいなんのために……」
「アナタに、お礼がしたいそうですよ。サヨさんのことで……だそうです。あと、サヨさんの遺品をお渡ししたい、とも」
「はあっ? なんか、それは……気が進まねえな。行かなくてもいいか? あいつのことなら、正直どうでもいいんだが……」
「そう言わずに。もし行きづらいなら、わたしもご一緒しますよ?」
「……」
正吉は気が進まないと言ったが、少し迷っているようだった。
それを見て、梁子は淡々と決めていくことにする。
「よし、じゃあ、明日の夜にしましょう! 実は今日はサヨさんのお通夜で、明日が告別式なんです。あ、サヨさんにお別れしに行きますか? それなら日中行ってもいいですけど。あ、でも明日はわたし夕方からバイトなんですよね……どうしましょう。やっぱり明後日でもいいですか?」
「あ、ああ……。俺はもう、あのときにちゃんとお別れをしたからな……葬儀はいい」
「そうですか。じゃあ、明後日の夜でいいですね? この公園にまた迎えに来ますから、待っていてください」
「おい、俺はまだ……!」
「いいですね? これは……『ケジメ』ですよ」
「ケジメ……」
「はい」
にっこりと、梁子は笑って見せる。
サラ様はそのあいだ、こっそりと正吉に術をかけていた。
なにかぶつぶつと呟くと、正吉の体が淡く光っていく。
「お、おい、今何をした?」
『ん? ちょっとしたおまじないをな。最近、お前にいらん虫が寄ってきたようだからな、保険でかけておいてやったわ。いずれお前の記憶を食べさせてもらえるのなら安いものだ。わし特性の呪いの加護だ。ありがたく受けとっておけ』
「はっ? 呪い? なんてことしてくれてんだ! いらんいらん。いますぐ解け!」
「いらんとは心外だな。いいからされるままそうしておれ。わしはこれ以上余計な労力は割きたくないのだ。いったいどれだけ探させたと思っている……? それともなにか、わしの呪いが不満か。んん?」
サラ様がじっと正吉を見下ろす。
それはまるで立ち上がった熊が目の前にいるかのような迫力だった。
正吉は圧倒され、こくこくとうなづく。
「わ、わかった。なんだかよくわからねえが、すっ、好きにしてくれ。じゃ、じゃあなっ、また明日!」
さっと身を翻すと正吉は草むらに飛び込み、消えていった。
『フン、これでまた捕獲されそうになっても、どうにか逃げきれるだろう』
「なにをしたんですか?」
『なに、正吉を捕獲しようとしたら、その対象者のトラウマを思い起こさせるような幻覚を仕込んでおいた。わしら以外が接すると発動する仕掛けになっておる』
「え、それって……」
『ああ、衣良野たち以外の者に対してもこれは効果がある。となれば、しばらくは誰にも捕まえられる心配はないな』
「サラ様、ほんと今まで、すご~く探してましたからね……ご苦労様です」
『ああ、もう当分は勘弁だ……』
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
『ああ』
梁子が腰をあげると、サラ様が急にそわそわしはじめた。
どうしたのだろうと見上げると……。
『なあ梁子、今日はもう奉納できるよな? できるだろう?』
奉納の催促だった。
梁子はうーんと腕組みをして悩む。
「えっと、どうしましょうかね……今日はすごく歩き回って疲れてるんですけど……」
『なっ、わしだって今回はさすがに働きすぎたわい。ここらで少しだけでも……な? そうだ! あやつらの洋館も今日新しいところを見せてもらったではないか。追加奉納だ。それだけでも……』
「はあ、はいはい、わかりましたよ。じゃあ、エアリアルさんの家の追加奉納と……ああ、もういいや。ついでだからまとめて田中家のもやってあげますよ、サラ様」
『何っ、本当か梁子!』
嬉しそうに言ったサラ様はさっそく公園内の結界を解き、声だけの存在に変わる。
その様子に、梁子は呆れたように微笑んだ。
「ええ。別々にするよりも、まとめてやっちゃったほうが楽ですからね。それに……今回は特にサラ様に助けていただきましたし。そのお礼です」
『ふはははっ! そうか。それなら色々やったかいがあったわい……。ふははっ、悪いな梁子』
「いいえ。当然のことですよ」
『そうか。ではさっそく戻ろう! 梁子!』
「はいはい。疲れてるんですけどね……まあいいです。行きましょうか」
疲労の蓄積した足を前に出す。
その足取りは重かったが、反対に心はとても軽やかだった。
正吉に言った「ケジメ」……それは梁子自身にも言える言葉だった。
終わりにするにしても、きっとすべてのことを精算してから終わらなければ、関わった人みんなが後悔する。自己完結だけでは何も生まれないのだ。
それが一番いいと思っていても、たいがいは悲しい結末が待っている。
正吉と同じように、きっと亡きサヨさんもそうだったろう。
ひとりで勝手に決めて。誰にも伝えずに終わろうとしていた。
でも、それではダメなのだ。言わなければ、何も伝わらない。正吉が、いまだ勘違いだという可能性を捨てきれていないのも、そのせいだ。
それはきっと、あの警官にも……同じことが言える。
梁子も、勝手に自分の中で終わりにしようとしていた。
自分には関係のない人だからと気持ちに蓋をしてきた。まだ何も始まっていないのに、始めさせることも拒否していた。
でも、それでいいのかと思い直した。
正吉を通してそれを学んだ。すべてを伝えてから終わりにしてもいいのではないか……と。
真壁衛一……自分に好意を抱いてくれた青年。
見つめてくるだけではなく、善意から色々と梁子に協力してくれた人間。
きっと上屋敷家のことを知ったら離れていくかもしれないが、だとしても、こちらから勝手に逃げ出すのは失礼にあたる。どんな理由があれ、自分という存在を求めてくれたのだから。ちゃんと向き合わないといけない。
梁子は満月を見上げながら思う。
いつか自分も「ケジメ」をつけようとーー。
側にいるしゃがれ声はうきうきと浮かれた調子で梁子に話しかけてきていた。
梁子はバス停に向かいながら笑顔で返す。
「サラ様。焦らなくても、間取りはどこにも行きませんよ」