2-22 実力行使
サラ様と台の間に、ビシッと大きな亀裂が走る。
それはちょうど見えない壁のあるあたりだった。
サラ様と同じ光の「ひび」が植物の根のように張り巡り……そして全体に行き渡った。
ガシャンッ!
直後、ガラスが割れるような音とともに壁が崩れ落ちる。
「なっ……!」
衣良野たちが唖然とする。
まさが破壊されるとは思わなかったのだろう。
床に散らばった破片が、さらに砂のような「粒子」に分解されていく。
「な、なにすんのよおおおおっ!」
エスオが身をよじって発狂している。
他の者もそれぞれ程度は違うが動揺しているようだ。
梁子はその隙を見てそっと台に近づく。
見えない壁がきれいにかき消えているのを確認して、正吉に近寄った。
「起きて……起きてください、正吉さん!」
小さな体を揺すってみるが、目覚めない。わずかに身じろぎはしている。
梁子はホッと胸を撫で下ろした。
やはりこの目で確認するまでは、心配でしかたなかった。生きているーーそれがわかっただけでも嬉しい。
ふわふわの毛並みのあいだに、コードが何本も見え隠れしていた。痛々しい。いったいどんな実験を受けてきたのだろう。一刻も早く解放してあげたいと、手を伸ばす。
「おっと、上屋敷さん、そこまでです。動かないでください」
そこに衣良野の制止がかかった。
「先ほどHがお伝えしたと思いますが……我々の研究の邪魔をされては困るのです。そのタヌキにそれ以上触れないで下さい」
「……」
梁子はどうするべきか迷った。
正吉を助け出してやりたいが、衣良野たちを変に刺激しては後々ややこしくなってくるかもしれない……。
ちらりと目の前の守り神を見やる。
サラ様は梁子をかばうよう背を向けていたが、視線に気がついたのか、そのままの姿勢でつぶやいた。
『梁子、正吉は無事か』
「はい。えっと……ちゃんと生きてます」
『そうか……』
しばしの沈黙のあと。
『ならこのまま連れて帰るぞ』
「えっ? で、でも……」
『このままここに置いておくのか? お前がそれでいいと言っても……今回はわしは引き下がらんぞ。くそ忌々しい。これ以上こやつらの好きにさせてたまるか』
「あっ……いえ、その……」
『いいからわしのいう通りにせい!』
『は、はいっ!』
怒気を含んだ声に、梁子は思わずうなづいてしまった。
なんだか有無を言わせぬ空気だった。この状態のサラ様には……反論しないほうがいいかもしれない。
もういいや。サラ様がいれば、どうにかなるだろう。それに衣良野たちは、きっと正吉や自分たちを傷つけることまではしないはずだ。たぶん……。
梁子は諦観して、流れに身をまかせることにした。
衣良野たちを無視してコードを外しはじめる。
「あ、ちょっと! やめなさいって! 言ってるでしょうっ!」
キーッと、エスオが歯をむき出しにして怒り出す。
しかし、なにか攻撃してくるわけでもない。サラ様の動きを警戒しているようだ。
『おい、付喪神ども。知らなかったとはいえ、こちらの害になるようなことを先にしてきたのはそちらだからな。ゆえに、このタヌキは返してもらう。それと……このことはお前たちとした契約の「外」で起こった出来事だ。今回はこのように勝手にさせてもらうが……そっちの契約もゆめゆめ忘れるでないぞ』
サラ様の言葉に、ターやムーアが慌てはじめる。
「そんなっ! D、このままでいいの?! マスターに知れたら大事だよっ!」
「さすがに黙ってはいられませんね……D、どう収拾をつけるのですか?」
「……」
衣良野は黙ってサラ様を見つめていた。
手を出していいものか考えあぐねているようだった。
それに業を煮やしたのか、エスオがついに吠える。
「んもうっ、我慢ならないわっ! D、なんとか言ったらどうなのっ! アナタが任せなさいって言ったからアタシは……もういい、アタシがなんとかするっ!」
「H……いけません!」
衣良野の声を振り切って、エスオは両手を前に突き出した。
何をするのかと思っていると、バタンと部屋の扉が勢いよく閉まる。
梁子は正吉を抱え、ドアに走ったが、ノブはすでに消え失せていた。閉じ込められたようだ。
さらにバチバチっと紫色に光る電流が壁一面に走り出す。
「どう? これで屋敷神サマはともかく、梁子チャンの方は外に出られなくなったわよ……さっきのタヌキを捕獲していた『ケージ』もそうだけど、この屋敷の『建材』は幻影とは少し違うものできてるの。だから生身の人間がすり抜けることはできないワ。さあ、その実験動物を置いていきなさい! そうしたらアナタたちだけでも帰してあげるから!」
「も、モルモット……?」
梁子はその言葉にギリッと歯をくいしばった。
「今のは……聞き捨てなりませんね。正吉さんは、大切なわたしたちの契約者……です。サラ様のお怒りももっともですが……本人が望まない契約をしてなんの意味があるんです。win・winならまだしも、一方的に搾取するだけの関係なんて……わたしは絶対に認めません!」
激昂して声を荒らげた梁子に、衣良野が冷静に話しかけてくる。
「上屋敷さん……貴女方にとって大切な契約者なら、我々にとっても『大事な』実験材料なんですよ。大事な、大事なね……」
「大事な大事な?」
「はい。大事な大事な……」
「だっ、大事な?! 大事な大事な……大事な、大事なっ?!」
梁子の異変に、サラ様がようやく振り返る。
『どうした、梁子。何を言っている』
「だっ、大事な大事な。……? 大事な、大事なっ! ……?!」
『おい、付喪神……。梁子に何をした!』
「いえ。ちょっと、『大事な』という言葉しか言えないようにしただけですよ。そのタヌキを置いていっていただけるなら、すぐにでも元に戻します」
にこり、と笑って見せる衣良野に、サラ様は眉間のシワを深くした。
綺麗な顔が台無しだなあと、梁子はぼんやりと思う。
思考はいつも通りのようだ。
なにか言いたくても今は「大事な」しか言えないようなので、とりあえず黙っていることにする。
『ふざけおって……』
「ふざけてなどいませんよ。私はマスターに嫌われたくないだけです。貴方がたが穏便に帰ってくれればいいなと思い、しばらくは楽観的に様子をみていたのですが………まさか力付くでこう来られるとは思いませんでした。そちらがそのつもりなら、私も態度を改めねばなりませんね。不本意ですが……実力行使をすることにいたします」
『いいか、一度しか言わんぞ、付喪神……。梁子を元に戻せ』
「私も一度しか言いたくないのですがね。もう一度言います。元に戻してほしかったら……そのタヌキを置いていってください」
『そうか……わしもこれはやりたくなかったのだがな、仕方ない』
「何を……」
言うが早いか、サラ様は一瞬で衣良野の背後に回り、顔を大きく膨らませて「かぶりついた」。
バクンッと大きな口が衣良野の上半身をもぎとる。
衣良野の右半身がきれいに消え失せた。
「なっ……! 私の……体がっ!」
かと思うと、次の瞬間にはエスオにかぶりついている。
エスオの左足が腰の下から無くなった。
幻影のためか、血などは一切流れていない。けれども、二人は苦しそうに身悶えしている。
「ぐっ……! な、なんてことを……」
「ひ、ひゃあああっ! た、食べ、食べられちゃっ……いやあああっ! なんで? なんで元に戻らないのぉおおっ!」
エスオは特にうろたえている。
サラ様は次の標的の前に移動した。
『お前も、食べておくか……』
「ヒッ、ヒィィッ!」
無表情で見下ろされ、ターがガタガタと震え、座り込む。
そばにいたムーアがかばうようにターを抱き締める。
「やめて、ください……お願いですから。わたくしたちを食べ……ないで……」
『フン……まあいい。お前たちは梁子に害をなさなかったからな。見逃してやろう……。それにしても、面白い術だな。ふはははっ、喰った甲斐があったわい』
ぺろり、と舌なめずりすると、サラ様はゆっくりとこちらに戻ってきた。
その顔はもう元の美しい顔に戻っている。
梁子は頭の上にポンと手を置かれた。
『ほれ。しゃべってみろ』
「えっ? あ……元に戻ってますね。いったいどうやったんですか?」
『なに、やつらの能力の一部を喰ってな。その仕組みを理解したのだ。衣良野というやつは辞書の付喪神。やつの能力は……言葉の翻訳や、対象者の記憶の変換だった。梁子の言葉がおかしくなったのは、そのように日本語を改変させられてしまったからだろう。正吉の記憶を消したのも、たぶんこやつの仕業だ』
「そうだったんですか。じゃあ、その能力で……わたしを元に戻したんですか?」
『まあ……もともとわしの力だけでも、元に戻す自信はあったがな。念には念を……だ。かけられた術と同じ術式を得ておけば間違いはない。それに、わざわざ「こう」したのは「置き土産」の意味もある。こやつらの幻覚を維持する能力を一時的に削いでおいた。しばらくはこのままだろう。いずれは戻るが……完全な人型に回復するまでにはかなりの時間がかかる。今後のこやつらを想像すると見ものだわい』
そう言って邪悪な笑みを浮かべる。
こういうのを見ていると、河岸沢が言っていた「禍々しい」という言葉もあながち間違いじゃないのではと思えてくる。
エスオが涙を流して抗議しはじめた。
「ひっ、ひっどおおおい! こ、このままなのっ? しばらく、こんな、ゾンビみたいな嫌な格好だっていうのっ? じょ、冗談じゃないわよぉっ! も、元に戻してよおおっ!」
『黙れ。お前は特にカンに触ったからな。しばらくはそのままでいろ』
「そ、そんなあっ……!」
「くっ……やられましたね。これでは、またマスターの手を煩わせてしまう……こ、こんなはずでは……」
『衣良野とかいう者よ……わしは神だ。神を侮ったのが、そもそもの間違いだったな。よく反省しろ。さて……帰るか。世話になったな。いろいろと「喰わせて」もらった。それには、感謝する』
そう言ってニッと笑うと、サラ様は部屋の入口に手をかざした。
すぐに壁一面の電流が治まって、ドアノブが復活する。
「サラ様、これって……」
「ああああっ! これはアタシの能力……く、悔しいっ! 体を食べられて……あまつさえそうやってアタシの術式まで取りこまれちゃうなんてっ……な、なんて神サマなの?」
『ふむ。これは珍しい……』
エスオの泣き言を無視して、サラ様は壁を丹念に調べている。
『この壁は人間に幻覚を見せた上で、結界に似た術式を組んでいる。さらに空気中の成分も物理的にいじっているな……なるほど。そこは科学といったところか……まあいい。そろそろ行くぞ、梁子』
「は、はいっ!」
サラ様に促されて出口へ向かう。すると、ドアの前にすうっと一人の女性が現れた。
「ずいぶん……派手にやってくれマシタね。フフフ……ハーイ、お久し振りデス上屋敷サン、そして屋敷神サン!」
『お前は……』
それは衣良野たちの主人であり、この館の真の主でもある、魔法科学者エアリアル・シーズンだった。




