2-21 怒り
正吉だ。間違いない。梁子はごくりと唾を飲み込んだ。
正吉の体にはいろんなコードがくっついていた。ハッとして、走り寄る。
手を伸ばし抱き上げようとしたが、妙な「壁」に阻まれる。
「うぶっ!」
両手と鼻っ柱がそれにぶつかった。思わず当たった場所を押さえるが、不思議と痛みはない。
首をかしげながらその「壁」に触れてみる。
『梁子、大丈夫か』
「はい……」
たしかにそこにあるのに、妙な感触だった。
ふわふわしているようで、硬い。冷たいようでいて、あたたかい。ゲームでいうと、プレイヤーがエリア外にいかないように張り巡らせてある「見えない壁」に近かった。
どういう原理でできているのかわからないが、それは台に添って設置されている。
ぐるりと回りこんでみたが、どこからも近づけそうにない。
「正吉さん……」
薄暗いのと距離があるために、息をしているのどうかも判別できなかった。
梁子は唇をかむ。
「無事なんですか? 衣良野さん……このタヌキ、生きてますよね?!」
思わず衣良野に強く言ってしまった。
だが衣良野はまったく意に介している様子がない。
無表情のまま、台に近づく。
「このタヌキが、貴女とお知り合いだったとは存じませんでした。先週の金曜日でしたか……市内で大きな『変化』の反応がありましてね。それに興味を持ったマスターが、現地に赴き……そして捕獲したんですよ」
そう言って、見えない壁に手をかける。
「先週の金曜? それって……正吉さんと公園で会った日ですね……」
『ああ、それでこやつらに見つかったのかもしれんな。あのとき正吉は大きな人間に変化していただろう?』
「ああ、それで……って、衣良野さん、捕獲ってどういうことですか。なんでそんなこと……それにアナタのマスターって今アメリカにいるんじゃなかったでしたっけ?」
「ええ、実はあれからすぐに来日されたんですよ。本格的にこちらで研究した方が面白そうデス、とかおっしゃってね……」
「そうですか。で、なんのために捕まえたんですか? 何度も言うようですけど……彼は無事なんですか」
「まあまあ、安心してください。たんに眠っているだけですから。『幻影』の実験に付き合ってもらうときだけ、起きてもらっています」
「幻影の実験……?」
「ええ。大昔から、幾度となく狐狸の類は研究されてきました。各地にそういった文献も残っているんですよ。『人をたぶらかす』といった現象、およびその作用について……何人もの呪術者や科学者、民俗学者などが研究してきました。マスターもまた、我々を作り出すために、それらをずっと研究してきたのです。もう当分はよいという判断に至っていたのですがね……フフ、そこの個体については、何十年ものですから。この化けタヌキは貴重だ、とおっしゃられましてね。捕獲することにしたんですよ。ああ、実際捕獲したのはマスターではなく、『私たち』ですがね……」
言うが早いか、部屋にエスオとター、そしてムーアの三人が現れた。
「ちょっとD、いいのぉ? そんなこと教えちゃって。マスターの許可もないのにぃ……」
貴族風の格好をしたエスオが、オネエ口調でくねくねと衣良野に近寄ってくる。
衣良野はそちらに見向きもしない。
「そうそう、ボクも知らないよー? 勝手に家に入れちゃったりしてさ。Dが勝手にやったことだからね?」
「C。今はわたくしたちも同席しているのですから、責任は平等かと……」
続いて黒いワンピースの小柄な少女・ターと、メイド服の茶髪の女性・ムーアが衣良野の元にやってきた。
「えっ! そうなの?! やだやだ、ボク、ほんとは反対だったんだからね! なのに、なのに、Dが勝手に……」
地団駄を踏むようにしながら涙目になるターを、ムーアが真顔でよしよししている。
衣良野はそちらには視線をやる。
「すみません、皆さん。これは完全に私の独断です。この上屋敷さんたちには……どうしても幻影が効かないものですからね。それに……このタヌキがいることが分かってしまってるようでしたし。とりあえず、ここは私に任せてください。マスターにはあとでちゃんと私から報告いたしますから」
「そうですか。ならわかりました。わたくしはここで見守らせていただきます」
冷静な態度で、ムーアがうなづく。
ターはふてくされながらもわかったよ、とつぶやいた。
「仕方ないわねえ……それで? 梁子チャンはこのタヌキさんをどーしたいのかしら? マスターの研究を邪魔するなら……黙っちゃないけど?」
「……」
くるりとこちらに振り向いたエスオに、梁子はたじろぐ。
その目付きがわずかながら殺気を放っていたからだ。
その気配を察したのか、ふわりと、サラ様が姿を現す。
『勘違いするなよ、付喪神。梁子はあくまでもわしの手足。最終的にどうするかはわしの意思だ……こやつに危害を加えようものなら、容赦せんぞ』
「あら? いたのね、屋敷神サマ♡」
『フン……』
きゃはっと笑って、エスオが下がる。
いつもより低い声で凄みをきかせたサラ様が怖い。
一触即発かと思われたが、どうにか収まったようだ。
梁子はホッと息をつく。
だが、正吉を助け出したい気持ちは変わらない。サラ様が途中でフォローをしてくれたが……梁子の出方次第ではたしかに彼らに「邪魔物」と判断されてしまうだろう。
ここは慎重に口を開く。
「正吉さんとは、ある約束をしていたんです。わたしはその約束を守るために、正吉さんに会いに行ったのですが……見つからず、ずっと探していたのです。お願いします……正吉さんと話をさせてください」
「約束ぅ? ……どんな約束よ? それ次第じゃ話をさせるわけにもいかないわよぉ?」
エスオが意地悪く微笑む。
その態度に、梁子の前にいるサラ様がぴくっと肩を動かす。
梁子は気が気でない。
「えっと……わたしがある人に手紙を渡したら、正吉さんの記憶を消す、という約束をしていました」
「記憶?」
「はい。大好きな方の記憶をそっくり消してほしい、というお願いでした。でも……その前に……」
「あら、残~念」
「えっ?」
「実験の過程で、もうこのタヌキには一切の記憶がないわ~。もしかしたら梁子チャンたちのことも憶えてないかも☆」
「そんな……!」
梁子はエスオの言葉に愕然とした。
なんてことだろう。
正吉は目覚めても、自分たちとのことすら、あの約束すら憶えてないなんて。
大好きなサヨさんのことも。彼女との思い出も。なにもかも忘れさせられてしまったというのか。
まだ伝えていない。サヨさんの遺言も。彼女の本当の想いも……。
「そんな、ひどい……あんまりです!」
「あら、いいじゃなーい? アナタたちだってこのタヌキの記憶を消そうとしてたんでしょ。誰が消したって同じじゃない。むしろ手間が省けたんだから感謝してくれたっていいのよ?」
「そんな……そんなっ……」
あまりの言い分に、梁子は怒りでどうにかなりそうだった。
言いたいことがたくさんあるのにうまく言葉にできない。
泣きそうになるのを必死でこらえる。
違う。違うのだ。
そんな勝手に消していいもんじゃない。本人が納得して、消すならいい。でも、これは違う。
なにより、それじゃ……。
『ふざけるな』
「さ、サラ様……?」
梁子の目の前で、しゃがれ声がつぶやいた。
先程のよりも、よりいっそう地獄の底から響くような低い、声音だった。
梁子以上に怒っているのがわかる。
『誰が勝手に消しておいてくれと頼んだ。これはわしらと……そのタヌキとの「契約」だ。何人たりとも……それを害するものは許さん!』
梁子からはサラ様の背中しか見えない。
だが、衣良野たちの表情を察するに、げに恐ろしい顔なのだろう。
梁子は正面にいなくてよかったと思った。
青白い光がサラ様を包む。
そしてーー。
その片手が正吉のいる台に伸びると、見えない壁が音を立てて「崩壊した」。




