2-17 タヌキ不在
梁子とサラ様は、正吉がいるであろう田中邸の前に来た。
門のところには新しい張り紙があり、サヨさんの通夜が次の木曜日に行われることが書かれている。
「ええと、正吉さんは……」
通行人がいなくなったタイミングで、生け垣の中に顔を突っ込む。
だが、庭にはタヌキの姿は見えなかった。
「いないみたいですね。あの木がいっぱい生えていた公園でしょうか」
『そうかもな』
公園にも行ってみたが、正吉はどこにもいなかった。
「困りましたね……待ち合わせって特に場所とか指定してなかったですけど、てっきりこの辺で会えると思ってました。サラ様、正吉さんどこにいるかわかりますか?」
『……わしもあやつが約束を違えるようなやつだとは思ってなかったからな。衣良野たちのように「印」をつけるのを忘れておった。だから探すのは少し厄介になるやもしれん』
「そうですか……。でも、やってみてください。お願いします」
『わかった』
サラ様は公園内に結界を張ると、姿を現し、自らの力を発散させる。
長い白髪の先が……着物の輪郭が……指の先が……まつげの先が青白く光っていく。
正吉の気配を探るようにまぶたが閉じられた。
その形はまるで天女のようで、とても河岸沢が言ったような禍々しさは感じられない。
どこかで鈴がリンと鳴っているような清浄な光景だった。
『ダメだ。このあたりにはいない。かなり遠くへ行ったようだ』
「えっ?」
『妙だな。棲みかを変えるにしても急にこんな遠くへ行くとは。考えられん……』
「かなり遠くへ行っちゃったんですか? え、もしかしてどこかで事故に遭っちゃったとか? それで、死体を捨てられ……」
『なんでそうエグい想像をする。大丈夫だ。正吉は生きている。ただ、どこにいるかわからぬほど気が小さくなっているようだな。先も言ったように、これは探すのが厄介だ。もし本気で見つけようと思ったら、時間をかけるか、その元を辿るように方々を探さねばならなくなる』
「そんな……正吉さん。サヨさんの手紙、健一さんに渡せたことお伝えしたいのに。それに記憶を消したいって……あの約束はどうなっちゃうんでしょうか」
『ふむ……それを反故にするようなやつではないと思うがな』
そう言うと、サラ様は光を収束させた。
梁子はその様子に、ふと疑問を抱く。
「そういえば、その能力って……どうやって探しているんですか?」
『ああ、これか。これは、お前の先祖に予知ができるものがいてな。あとは占い師の家の間取りか。それによるところが大きいな。相手の気を感知して、その対象がどういう行動をとるか占っているのだ。だから、相手が近くにいればいるほど、予測はしやすくなる』
「じゃあ……」
『ああ、正吉は遠くにいるようだからな。ここからどのように移動したのか、判断しづらい。「印」をつけていれば、無意識下で常に予測し続けられたのだが……』
「その印ってやつをつけてれば探せたんですか?」
『ああ。「印」は自動演算装置のようなものだからな。たとえば夏休みの宿題を毎日解き続けているのと、最後の日にまとめてやるのとでは労力は違うだろう? 一気にやろうと思うと時間がかかるのだ』
「すぐには探せないってことですね」
『現実的なのは、またこのあたりに戻って来るのを待つことだな。明日また出直してみたらどうだ?』
「そうですね……」
サラ様はもうあきらめたようで、結界も解いてしまっていた。
姿もすうっと消えていく。
梁子は急に陰鬱な思いを抱いた。
「あの、サラ様……」
『なんだ?』
「あの、わたしのご先祖様が……すみませんでした」
『……何がだ』
「えっ?」
『何に対して謝っている』
「それは……。河岸沢さんが言ってた、蠱毒についてです。サラ様を、ひどいめに遭わせてしまいました……」
『そんなことか』
「そ、そんなことって! たいしたことない、みたいに言いますけどね……実際ひどいと思いますよ、ソレ」
『そりゃあな、取っ捕まえられて、訳のわからん洞穴に閉じ込められて、幾多の害虫と七日七晩闘わせられたら……それはひどい思いをしたと思うだろうな。けどな、わしはこれでも、今の生活にはかなり満足しておる。面白きことが多いからな。不憫なのは、お前の先祖どもの方だ』
「えっ?」
『成仏もできず、転生もできず……いずれは個々の形も消えてわしと同化してしまう。本来なら清められてしかるべき魂が、邪法によって浄化されぬままなのだ。わしという存在が食わねば、単なる不浄霊……浮遊霊とか地縛霊とか呼ばれる怨霊と同じだ』
「そう、なりますね。うちは誰かが死んでも葬式は形だけですし、そういえばお盆もお彼岸もないですね……お墓も家の中にあるし……よくよく考えたらおかしいですよね。ちゃんと弔ってないなんて。魂はサラ様に捧げるものだから、って教わってきましたけど、それが普通だって思ってましたけど……」
『お前も……弔われないのだぞ。あの河岸沢というやつが言う通り、その覚悟はあるか?』
「わたしは……覚悟もなにも、そうするだけです。でも、急にあんなこと言われると……やっぱり少しは動揺しますよ」
『まあ、そうだろうな』
「誰かを殺してしまう日が……くるのでしょうか」
『日頃からお前に危機が及ばぬように注意しているが……もし、誰かを殺さねば、お前身の安全が保証されなくなるという状況下に置かれるなら、わしは迷わず殺すだろうな』
「やはりそうなりますか」
『お前が死んだら、どのみちわしも、お前の先祖たちも消滅する。であれば、まだ術が成就して消滅したほうが良かろう。誰かを殺めて、初めてこの術は完成するというのだからな……』
「サラ様が、消えてしまうなんて……そんなの想像したくありません」
『わしはお前が死にそうな目に逢う方が、想像したくないがな』
「はい、それはわたしも願い下げです」
梁子がニヤリと笑うと、しゃがれ声も、ふはははっと面白そうに笑う。
梁子はサラ様が、思ったよりさっぱりしているのに安堵した。
バスを乗り継ぎ、帰宅する。
玄関をあがり、ダイニングに向かう。
そこには料理をしている母のゆかと、すでに帰宅している父の大黒がいた。
「おかえり、梁子」
いつもと同じ、低く優しい声が出迎えてくれる。
顔は強面だが、その眼差しはひどく穏やかだ。
父は優雅な手つきでコーヒーのカップを持ち上げている。
母は、インターフォンで解錠だけはしてくれたが、今日は何か手の込んだ料理を作っているらしく忙しそうにしていた。
チーズと、何か肉の焼けるいい香りが漂ってくる。
「……」
いつもなら「何をつくってるんですか」と言いながら、母の手伝いをしにいくはずだった。
だが、今日は自室に荷物も置いてこず、梁子はそのままここに直行している。
もしかしたら顔も強張っていたかもしれない。
さすがに異変に気づいたのか、大黒が怪訝な顔をした。
「どうした、梁子。何かあったのか」
この人は顔は怖いけれど、娘を想う気持ちは誰より強い。
やはり、見抜かれてしまったようだ。
大黒の言葉に反応して、ゆかまでが調理を中断してやってくる。
「どうしたんですか、梁子さん。顔が真っ青じゃありませんか!」
この人も怒ると怖いが、誰よりも娘の異常を心配するような人だった。
両頬をあったかい手で挟まれて、梁子は薄く笑ってみせる。
「大丈夫ですよ。ちょっと、疲れただけです」
「本当ですか? 何か、あったんじゃ……」
「仕事が辛いのか。だったらそこまで無理する必要はないんじゃないか?」
「……」
ゆかの言葉をさえぎった大黒に、梁子は呆れたように言った。
「父さん、違いますよ……。仕事は関係ありません。肉体的にではなく、精神的に疲れたんです。あることを知ってしまいましてね」
「あること? いったいなんだ」
「梁子さん……?」
梁子は不安そうにしているゆかを見つめ、その手をゆっくりと下ろさせた。
「この家のことです。サラ様が……蠱毒を使ってできた存在だということを、ある方から教えてもらったのです」
「何?!」
「この歳にしてようやく気づかされました。父さんたちはそれ、もちろん知ってるんですよね?」
「誰からそれを……」
「とある霊能力者からです。そういう方には、いろいろとわかっちゃうんですね……」
「他言無用という掟はどうした」
「間取りのことや、その他詳しいことはしゃべってません。あとは……わたしではなく、サラ様が対応してくださいました」
「サラ様が?!」
『ああ、やつにはわしの声が聞こえてしまっていたからな。一応声のみで対応した』
「サラ様……。サラ様まで……。梁子、サラ様をお堂にも帰してきてさしあげてないとはどういうことだ? ちょっとそれについても話をしないといけないな」
「それは……父さんたちに説明するためです。サラ様もいらっしゃったほうが都合がいいと思って」
「まったく。なんてことだ」
『仕方あるまい、大黒。その相手にはわしの白蛇という姿も、何十という上屋敷家の先祖の姿も見えておったのだ。隠し続けることは敵わなかった。そしてそれを指摘された梁子は、家の真実を知りたくなってな、ついにそやつに訊き出したというわけだ。わしも、それを許した。いつかはわかることだったからな』
「そんな! サラ様! ウチの秘密がよそに漏れてもいいのですか! サラ様のことを話すのは、間取りを得るため、必要に迫られたときだけと決めてあるのに! これは掟違反だ!」
『そう言うな。間取り収集先の住人には、たいてい口止めできるなりの理由があるが……やつに限ってはそういう駆け引きができる材料がなかったからな。霊能力があることをバラされたくなかったら黙っていろ、とでも言えば良かったのかもしれんが、やつ自身、まわりにカミングアウトしている節があった。それにやつは梁子の職場の同僚だ。おそらく何も言わずとも、やつなりの配慮で黙っていてくれるだろう』
「そんな……」
「父さんたちは知っていたんですよね? 蠱毒のこと。自分たちが成仏することなく、永遠に、家のための贄になることも。そして最後は消えてしまうってことも……。それでいいんですか? 母さん」
梁子は以前抱いた疑問と同じ質問をぶつけてみた。
前とは少し違った意味合いで。
ゆかは真面目な顔をして言った。
「ええ。それを知ってもなお、わたくしは嬉しいです。あなたたちを守れることが……。お祖父様とお祖母様が亡くなられたとき、この事実を知らされても、わたくしは不思議と嫌悪感を持ちませんでした。なぜなら、死という存在以上に、あなたたちへの愛が勝っていたからです。わたしという個人が消えてしまっても、のちの子孫が幸せでいてくれればなんの不安がありましょう」
「母さん……母さんは、そういう人でしたね。じゃあ、わたしが人を殺すかもしれないと言っても同じ気持ちですか?」
「えっ? 人を……殺す?」
「ええ。それでもわたしが幸せでいられるとお思いですか? いつかはこの蠱毒が成就するときがくるそうなのです。それは誰かを殺すとき……。その時はじめてサラ様は消え、この家に莫大な富がもたらされるのだそうです。サラ様が消えるということは、ご先祖様たちも……母さんたちも消えるってことなんです」
「そんな、誰かを殺すなんて……そんなこと考えてはなりません!」
「別に今すぐ誰かを殺したいと思っているわけじゃないですよ。これから先も同じです。でも、状況によっては正当防衛で殺さなくてはならないときが来るかもしれません。不可抗力ですが……そうしたときに、皆さんが納得してくれるかどうかなんです。わたしは……数百年続いたこの上屋敷家のご先祖様たちに恨まれるのでしょうか」
『ふむ、どうだかな。もう初代や最初のころの先祖たちは自我が消え去っている。怒るとしたらその後の世代だろうな。もっとも、不満をもらしたところでどうにもならないのだが』
「では、父さんと母さんに限って訊きます。もし、父さんと母さんが生きている間に、わたしがそういう目に遭ったらどうしますか。または亡くなられた後にそうなったら」
「……」
大黒は暗い表情で押し黙った。
なにかをずっと考え込んでいるようだった。
息を軽くはき、重い口を開く。
「梁子、そのときは……迷いなく人を殺しなさい。お前が死ぬより辛いことはない……。仕方がない状況なら、父さんたちは何も言わない。もとより後継者はお前しかいない。お前が死ねばどのみち我々はお終いだ」
「わかりました」
「わたくしも……それで構いません。梁子さんが無事なら、ご先祖様たちもご納得されるでしょう。そして、おそらくそれが天命です。なるべくしてなるもの……。きっと、わたくしたちがその邪法を行ってきた報いなのです。わたくしは後悔はありません」
「……わかりました」