2-12 先の見えない夢
気がつくと自宅の玄関だった。
梁子はハッとしてあたりを見回す。
「あれっ?! わ、わたし……」
「どうしたんですか? 梁子さん」
上がり框には母のゆかがいた。
いつものように帰宅の出迎えできていたのだろうが、不思議そうにこちらを見ている。
「えっと……た、ただいま戻りました」
「それはさっき聞きました。本当にどうかしたんですか? どこか体調おかしいんですか、梁子さん。少し帰ってきたのも遅かったですし……」
まだボーッとしている梁子を心配して、ゆかが声をかける。
見かねたサラ様がすうっとそこに姿を現した。
『ふははっ、心配するな、ゆか。ちょっと色々とあってな……。なに、たいしたことではない。梁子、もうヤツは帰ったぞ。いい加減しっかりしろ』
「えっ……あ、そうでした……ね」
おぼろげながら、真壁巡査と家の前で別れたことを思い出す。
もう、二度と会うことはないかもしれない……。
それで良いはずなのに、なぜか梁子は心寂しい思いに囚われた。
靴を脱ぎながら考え込む。
その様子に何かを察したのか、ゆかが優しい声音で話しかけてきた。
「梁子さん、どなたかとご一緒だったんですか?」
「あ、はい。間取り収集の一環で……この間ウチに来たお巡りさんに……手伝ってもらってました。それで、そこまで送ってもらって……」
「あら。まあ」
「な、なんですか?」
「それは……今度ちゃんとお礼してあげませんとね?」
「え、あ、そうですね……」
ほほほ、とゆかが意味深に笑う。
変に誤解されているようなので、一応訂正しておいた。
「あの、別になにもないですよ?」
「ええ、ええ、わかっております。サラ様、今日もお疲れ様でございました。では。わたくしはこれで……あ、今夜はカレーですからね。早く支度してきてくださいね、梁子さん」
「はい……」
なにがわかったというのだろうか。
梁子は母の態度にモヤモヤしたが、あまり深く考えるのはやめておいた。
ゆかを見送ってからお堂へ向かう。
「あの、サラ様」
『わしは何もしておらんぞ』
「えっ?」
さっそく文句を言おうとした梁子だったが、サラ様にそう切り返されてしまった。
何もしてないって……そんなバカな。
納得できず、梁子は語気を強める。
「どういうことですか? さっきわたしがバスで倒れそうになったとき……サラ様が真壁巡査を操ってたんじゃないんですか」
『いや違う。わしがそうしようと思ったときには、もうあやつの方が勝手に動いておった』
「そんな……」
『本当だ。どのみち怪我をしなかったのだから、良いではないか』
「良くないです! わたしが、だ、男性に触られることになったじゃないですか! 他にもっとやりようがあったでしょう! サラ様が守ってくれるから安心して生活してるのに……こんな、守ってくれなかったなんて、今まで一度も……」
『そんなこと言われてもな……』
中庭のお堂に着いたので、二人とも中に入る。
ぶうぶう文句を言い続ける梁子に、サラ様はゲンナリしはじめた。
『そう不服を言うてくれるな。なにもそんなに嫌ではなかったろうて』
「はい? ど、どういう意味ですか? 別に、わたしあの人のことそういう……」
『なんだ? 少しは気になっておったのではないか?』
「ち、違いますっ! もうっ、変なこと言わないでください。そんなこと言ってると、今日は奉納の儀式してあげませんからね! そうだ、明日は日曜で午前からバイトだし……明日にします、明日!」
『な、何? 梁子……今日、できるだろう? できるというのに、どうしてしないのだ!』
「そういう気分じゃないんです。それにあの家のこと……たぶん、まだ終わってないですよ。正吉さんに報告もしてないですし。庭の写真も見直して一度はラフ画として描き起こさないと……とにかく今日はダメです! はい、今日もありがとうございました。サラ様、おやすみなさい!」
『なっ! ちょっと待て、梁子?!』
パンと手を合わせてお祈りすると、サラ様が引き留めるような体勢のままご神体に戻っていく。
それを見届けるか否かのうちに、くるりと背を向けてお堂を出る。
本当はちゃんと丁寧にしないといけないのだが、あんな仕打ちをされた後ではどうしてもサラ様を敬おうという気持ちにはなれない。
梁子は自室まで戻ってくると、荷物を置き、スマホを取り出した。
田中家の庭がきちんと撮れているかチェックしようとしたのだが、ふと着信履歴の方を見てしまう。
そこには番号だけの通知があった。
時間的に真壁巡査の番号だ。
梁子はそれに名前をつけて登録……しようとしてやめた。
「もう、会わないですよね……」
街のどこかで偶然出くわすことはあるかもしれないが、こうして個人的に連絡を取り合うことはもうしないだろう。
であれば、不要なものだ。
もともと家族や知り合いとも頻繁に連絡をとる習慣がなかった。今すぐ履歴を消すこともできるが、少し面倒なのでそのままにしておく。いずれ消えるだろう。
手帳に挟んであったメモの存在を思い出した。
きれいな字で「真壁衛一」という名と、番号が書かれているメモだ。
「……」
梁子はゴミ箱の前まで行くとそれを取り出し、ひと思いに破り捨てた。
ビリビリになって散っていく紙片を眺めながら、梁子は嘆息する。
「いい人……でしたね。でも、だからこそ、これ以上関わったらいけない……」
それは自分に対して言った言葉だったのか。
梁子は田中邸を思い出しながら、デッサンを開始した。しばらくすると、階下から母の呼ぶ声がする。
スケッチブックと鉛筆を置いて部屋を出る。
廊下にはカレーのいい香りが漂っていたーー。
その夜。
梁子は不思議な夢を見た。
顔の見えない男と幸せそうに歩いている夢。
けれど、どこからか真壁巡査が現れて、「本当にそれは幸せなのですか?」と問われる。
次いで、タヌキの正吉も現れる。「俺は幸せだった。サヨさんの力になれたから。でも、やっぱり、辛かった。俺はタヌキで、サヨさんは人間で。思いが交わることはなかった。だからこの記憶を消してくれ!」
顔の見えない男が隣で語る。「後悔はないのか? 君が望む未来はこれでいいのか? これが君の本当の幸せなのか?」矢継ぎ早にそう言われて、梁子は思わず身をすくめる。
さっきまでは確かに幸せだと感じていた。
それはもう、疑いようがないくらいに。
けれど、後悔はないのかと問われて急に自信が無くなってしまった。
真壁巡査や正吉を目の前にして気持ちがゆらぐ。
そうこうしているうちに、急にあたりが真っ暗になる。
不安になり「サラ様?」と呼ぶ。もう一度。大きな声で呼びかける。
何の反応もない。
さらに呼びかける。何の反応もない。
いつも、そばにいたのに。いつも守ってくれていたのに。なぜ。なんで消えてしまったの?
何度も呼びかけるが、相変わらず何の反応もない。
後悔はないか。後悔はないか。ぐるぐると同じフレーズだけが頭の中にこだまする。
それは誰の声なのかわからない。
最初は男の声だったような気もするが、それもだんだんと疑わしくなってくる。
闇の中で梁子はどうすることもできずに狼狽える。
誰も来ず、どこへ踏み出して行ったらいいかわからない。
光はなく、何も見えない。
そのうち声も消えていった。
だんだんとどこにいるのか、自分の存在すらもわからなくなっていく。
誰もいなくなった場所で、自問する。
わたしはどうしたいのか。どこへ、行ったらいいのか。すべてから解放された場所で、自分を自分足らしめるものはなんなのか。
梁子は暗闇の中でもがきつづけた。