2-11 嘘と本当
「これはおそらくサヨさんから……アナタへの手紙です。彼女の部屋と思われる場所にありました。このぬいぐるみの中に……」
そう言って、梁子は手元のバッグからタヌキのぬいぐるみを取り出す。
そのぬいぐるみは片目に傷があったので、健一はハッとした表情になった。
「そのタヌキ……いや、まあいい。とりあえず、目的のものが見つかったようで良かった。これはあとで読んでおく。今日はもう帰ってくれ」
「はい……わかりました。お渡しできて良かったです。では……」
「上屋敷さん、もうよろしいのですか?」
こたつの上にぬいぐるみを置いてから立ち上がろうとすると、真壁巡査が声をかけてきた。
「ええ。もう……望みは叶いました。ですから行きましょう。真壁巡査」
「……」
何か言いたそうだったが、梁子がそう言うので真壁巡査は従った。
「では、田中さん、おじゃましました」
「ああ。あの……上屋敷さん、と言ったか」
「はい」
「その……良かったら、おふくろの葬儀に……出てもらえないか? そうしたら多分、おふくろも喜ぶ」
玄関先で見送られながら、梁子はしばらく考えこんだ。
自分はあくまで正吉の代理だ。故人であるサヨさんと直接の面識はない。
だが、せっかくの申し出なので受けてみることにした。
「ええ……。日取りが決まったら、是非行かせていただきます」
「そうか。ええと……」
「あ、わたしの連絡先はこちらです」
「ああ……。手紙もありがとう。突然来られて困惑したが……ありゃあ、遺言かもしれないからな、助かった」
「……ええ。では」
梁子は健一に連絡先を書いたメモを渡すと、そそくさと家を辞した。
路上まで来て、さて正吉に報告しなければと立ち止まる。
だが、真壁巡査は梁子を自宅まで送っていく気満々のようだ。
きらきらとした目でこちらを見ている。
正吉への報告はやむなく別の日にすることにした。
「真壁巡査、わたしはバスで帰りますけど……アナタは?」
「自分もバスです。あの……上屋敷さん、良ければご自宅まで送らせてください!」
「ええと……」
「あ、自分ですか? お気になさらないでください。無事送り届けられましたら、あとはひとりで勝手に帰ります」
「そうですか。じゃあ……」
「ありがとうございます! この真壁、ご自宅までしっかりと護衛させていただきます!」
真壁巡査は食いぎみにそう言うと、嬉しそうに敬礼のポーズをとった。
なんだか犬みたいな人だな、と梁子は思わず苦笑する。
バス通りまで歩く間、少しだけ話をした。
「真壁巡査……今日は本当にありがとうございました。とても助かりました」
「いえ。あれ、手紙だったんですね。息子さんにきちんとお渡しすることができて良かったです」
「はい、あの……全然ナマモノじゃなかったですね。ごめんなさい」
「えっ? なんで謝るんですか。あれも立派なナマモノ……ですよ! 遺言書とかだったら、本当に早めにお渡しないと駄目でしょうし。ですから……今日我々がお伺いしたのはタイミング的に良かったんですよ、上屋敷さん。結果オーライです!」
「そう言ってもらえると……助かります。ありがとうございます、真壁巡査……」
梁子は胸が痛んだ。
こんなにいい人なのに……自分は彼を騙している。
家のことも、正吉のことも。
言ってはならぬことだから黙っていたが、それでも嘘をついていることにはかわりない。
きっと一度きりならそれほど悩まなかっただろう。
でも、こうして何度も会っているとその都度嘘を重ねていくことになる。その度に心が痛む。
梁子は知らぬうちに、罪悪感を覚えるようになっていた。
「真壁巡査は……一度、うちまで来たことありますよね」
「ええ。ですから、大丈夫ですよ。万が一何か起こっても送り届けられます。安心してください!」
「何かって……? えっと、事故とか災害とかですか? あの……真壁巡査はどの辺にお住まいなんですか? うちの近所なんですか?」
「ええと……それが……。この近く、なんです」
「えっ?」
今歩いているのは田中邸の近くだ。
大泉学園駅からかなり離れた北側の住宅街である。梁子の家は駅の南側。真逆だ。
「そんな……逆方向じゃないですか! ここで別れたほうが早く帰れますよね? も、もういいですよ、ここで」
「いえいえ、いいんです。自分がお送りして差し上げたいので、お気になさらないでください。ご迷惑ならやめますが……女性を夜にひとりで帰すなんて、男としても警官としてもそんなことできません……って、ああ! そうか、しまった! だから言わなきゃ良かったんだ……って、家が真逆だって知ったらそうやって気を遣われちゃいますよね。ああもう……自分、どうにも嘘がつけない性分でしてね、ははは……。ああ、失敗した……」
照れて笑う真壁巡査に、梁子は急に泣きたくなった。
嘘がつけないなんて……。自分は嘘をついてばかりなのに。
どうしてこうなんだと哀しくなる。
「ど、どうしました? 上屋敷さん! やっぱりご迷惑でしたか!」
「いいえ……」
拳をにぎりしめてうつむいてしまった梁子に真壁巡査は狼狽えた。
怒らせてしまったのかと、錯覚したのだろう。
だが、そうではない。泣きそうになるのをぐっとこらえ、梁子は決める。
少しだけ本当のことを言おうと。
「あの、ありがとうございます。真壁巡査……。こんなわたしを心配してくださって、助けてくださって……お仕事柄、なのかもしれませんけど、そう言っていただいて本当に感謝しています。こんなに良くしてくださって……それなのにわたしは……ごめんなさい。わたし色々と……嘘をついていました」
「えっ? 嘘……?」
真壁巡査が驚いたように梁子を見つめる。
「はい。わたし……実はサヨさんとは知り合いでもなんでもないんです。正確には、サヨさんの知り合いの人と知り合い、で。その人とはつい最近出会って……」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください。あの家の方とお知り合いじゃなかったんですか?」
「はい。亡くなられたご婦人とは、お会いしたこともありませんでした」
「……」
「あの、これって何か罪になるんでしょうか」
「いえ……とりあえずお話を続けてください」
「はい……」
急に真顔になった真壁巡査に動揺しつつも、梁子は正吉がタヌキであること以外は伏せてことのあらましを説明した。
「……ではその正吉さんという人に頼まれて、あの家に行こうと思われたんですね?」
「はい。渡すものが手紙だということも、それがどんな人形に入っているのかも、その人形がどの部屋にあるのかも教えてもらっていました。正吉さんは、訳あってあの家の人に会うことができないんです。だから……わたしが正吉さんの代わりに……」
「そうでしたか。それで……息子さんのいた居間にもたくさんのタヌキの人形がありましたが、上屋敷さんは決してそちらには触れようとしなかった。それは、あらかじめ手紙のある場所を知っていたからなんですね?」
「はい」
「なるほど。であれば……その人は最低一度はこの家に入ったことがあったわけですね。でなければそんなに詳細には……あ、一応確認しておきますが、その正吉さんという方は本当にサヨさんとお知り合いだったんですよね?」
「はい。そう聞いています」
「……犯罪者じゃないですよね?」
「えっ? は、犯罪者?」
「あ、その……また上屋敷さんが変な事件に巻き込まれてらっしゃるんじゃないかと思ったもので……」
「事件、ですか? いえ、その、正吉さんはどちらかというとその犯罪者……空き巣とか詐欺師とかからサヨさんを守ってくれていた方です。だから悪い人じゃないですよ。わたしもいまのところ特に事件に巻き込まれてませんし……」
「そうですか? あの家で俺の代わりに盗みを働いてこい、とか言われてたわけじゃないんですよね?」
「……あの、真壁巡査。アナタしっかりその目でわたしを監視していたじゃないですか? 変なこと言わないでください」
「あ、ああ、そうでしたよね……失礼しました」
「とにかく。その正吉さんのために、それから亡きサヨさんのために、わたしはあの手紙を息子さんにお渡ししたいと思ったんです……」
これは違う。本当は上屋敷家のため、田中家の間取りを得るためだった。
正吉の願いを、サヨさんの願いを叶えるというのは、その副次的なものでしかない。
やはりすべて本当のことを言うことはできないようだ。
梁子はためらいながらもまた嘘を重ねる。
「サヨさんは会ったこともない人でしたけど、話をきいたら、もうわたしがやってあげるしかないと思って……」
「はあ、でも……本当に危険ですよ。さっきの息子さんだって、話のわかるいい人だったからいいですけど……もしお一人で行ってたら、ふたりっきりになったら何をされてたか……」
「あの、それは……そんなこと言ったら今もそういう状況だと……思いますけど……」
ボソッとつぶやいてみると、それを聞いた真壁巡査が急に赤面した。
「なっ、じ、自分はそんなことしません! 仮にも警察官ですし! そ、そんなことないです! ないない! あり得ないです!」
「そうですか? 警察官でも、最近は不祥事起こす人もいますけど……」
「それはそう……ですけど……でも、自分は絶対にそんなことしません! 上屋敷さんが嫌がることなんて……」
「冗談です。失礼なこと言いましたね。ごめんなさい」
「あ、いえ……」
真壁巡査はまだ顔が赤いままである。
梁子は妙に落ち着かなくなって先に立って歩いた。
「い、行きましょうか……」
バス乗り場まで着くとちょうど来たので一緒に乗り込む。
夜なので混んでいて、微妙に席に座れない。
梁子と真壁巡査は通路の真ん中辺りに立った。
「あの、上屋敷さん」
「はい」
「前に田中さん家の前で会いましたよね」
「ああ……そうですね」
「あのときは……任務中だったので現場を離れられなくて……お声をかけられなくてすみません」
「いえ……わたしも仕事中でしたから」
「ああ、そういえば、たしか何かの宅配スクーターに乗ってましたよね。アルバイトなさってるんですか」
「はい。ダイスピザっていうピザ屋です。あ、良かったら、これどうぞ」
梁子はバッグからピザの割引券を出すと何枚かちぎって真壁巡査に渡した。
「今日のお礼です。こんなものしかなくて申し訳ないんですけど……」
「え? いいんですか、こんな……」
「ええ、新規のお客さんを得るために、いつも持ってるんです、それは、初回~三回までの割引券なんで。是非使ってください」
「わあ、ありがとうございます。自分、ピザ大好きなんです。あ、さっそく今度出前取らせてもらいますね。そうしたら……」
「ん? なんですか?」
「いえ。そしたらまた上屋敷さんに会えるかもしれないと思いまして」
真壁巡査がそう言って、にこっと笑いかけてくる。
そういう意図はなかったのだが、思いがけずそういうことになってしまったようだ。
梁子はすぐさま後悔した。
「わ、わたし以外にも、スタッフがいるので……必ずしもわたしが行くとは限りませんよ」
「そうですか。でもまあ……上屋敷さんが来る来ない関係なく利用させていただきます。ありがとうございます」
「い、いえ……」
なんだか妙に気恥ずかしくなって、梁子はそっとうつ向く。
駅に近づいてバスが北側から南側に抜ける線路下のトンネルをくぐっていった。その先の角を大きく曲がるときになって、バスがぐんと傾く。
「わっ、おっと……」
あわててバスの柱に掴まる真壁巡査を見て、梁子もそれを掴もうとした。
身の回りには真壁巡査が掴んでいる柱くらいしか、掴めるところがない。
だが、梁子はそれを掴むのをためらった。
なぜだか真壁巡査と同じ柱を掴みたくなくなったのだ。
もしかしたら手が触れてしまうかもしれない。と、そう危惧した。そうなると、とても、困る。
迷っているうちにバスはさらに揺れた。弾みで梁子は倒れそうになる。
『なにをやっとるんだ。梁子。まったく……しようがないな』
サラ様のしゃがれ声が聞こえたかと思うと、肩を、大きな腕に支えられた。
右手に立っていた真壁巡査が、左の片腕で梁子を抱き留めたのだ。
何が起こったのか一瞬理解できなかった。
梁子はかっと体が熱くなった。
「大丈夫ですか?! 上屋敷さん」
「あ、あの……」
それ以上何も言えなくなって固まる。
バスが駅の南口に停まる。
何人かが降りていき、また何人かが乗ってきた。
そのタイミングで目の前の席が空いたので、真壁巡査に薦められる。
「あ、どうぞ、上屋敷さん。自分は大丈夫なんで座ってください」
見回しても老人や体の不自由な人はいないようだった。
梁子は大人しく座った。
それから、家に着くまでの記憶がない。
ただ初めて感じた力強い真壁巡査の腕の感触だけが、鮮明に残っていた。