2-10 手紙の捜索
コンクリート製の三和土の玄関には、上がり框にのぼりやすいよう十センチほどの高さの式台があった。
梁子たちはそこで靴を脱ぎ、上にあがらせてもらう。
左側には腰高の靴箱があり、その上にガラスの花瓶が置いてある。
中には見るも無惨な花が入っていた。
サヨさんが生きていた頃には、毎日水換えがされていたのだろう。
だが、今は手入れをするような人間は誰もいない。健一はこんなものより、やることがたくさんあるのだ。おそらくこれはサヨさんが倒れた日からずっとこのままなのだろう。
梁子はドライフラワーのようになっている花を見て、なんだか物悲しい気持ちになった。
「じゃあ、私は奥の居間にいますから。探し終わったら声をかけてくださいよ。いいですか? くれぐれも変なことはしないでくださいよ」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
梁子が軽くうなづくと、健一は右手に伸びる廊下の奥に消えていった。
こっそり目で追うと、一番手前の部屋の襖を開けて入っていく。
梁子はそちらの部屋は後回しにすることにした。
どうせ最後にはあそこに行くのだ。
それよりも、他をすばやく回ってこなければならない。時間はあまりないのだ。
「さて。どこから探しましょうかね……」
全ての部屋をじっくりと観察したかったが、あまり遅いと不審に思われる。ゆっくりしているヒマはなかった。
何か盗んでいたのか、と疑われたらどうしようもない。その瞬間、追い出されでもしたら一巻の終わりだ。そうなってはこの家に入るチャンスはもうなくなってしまう。
そんな疑念を抱かれないよう、真壁巡査に付いてきてもらったのだが……彼はある意味調査の邪魔であった。
案の定、梁子は玄関からまっすぐ奥に伸びる廊下を進もうとして、呼び止められる。
「あの、上屋敷さん」
「……なんですか? 真壁巡査」
ゆっくりと振り返る。
「あの、話がよく見えないんですが……上屋敷さん、あなたはその……あの方に渡すものを持っていたわけじゃないんですね? いったい、どういうことなんですか」
「ああ、そのことですか……」
「ナマモノ……食べ物じゃなかったんですか? そう思ったから自分は急ぎだと思って……」
さてどうしようと梁子は考えた。
こういう風に問いただされるとやっかいだから、協力を拒んでいたのだ。
それをサラ様が……。
文句のひとつでも言ってやりたかったが、この状況でもサラ様は何も言わない。
どのみち今は、真壁巡査の前でサラ様と会話することはできなかった。
梁子はぐっと我慢した。
「わたしも……何を渡すのか、分からなかったんです。ナマモノ……食べ物かもしれないっていうのは……その可能性だってあったので……だからお願いしようと思ったんです。ちゃんとお話ししなくてごめんなさい。怒ってますよね?」
「い、いや、別に怒ってはないですよ。ただどんなものなのか、とか、どうやってそれを頼まれたのか、とか、そういうなりゆきが気になってですね……」
「それは……亡くなられたサヨさんが生前おっしゃってたんです。息子にいつか渡したいものがあると。手がかりはタヌキの人形です。それがあるところにあるって……死ぬ前にどうしても渡しておきたいんだって、そう言って……ました。でも、ずっと渡せずに、今もそれが健一さんの手に渡らないままなのかと思うと……サヨさんの気持ちを考えたら、わたし……」
「そうだったんですか。わかりました、上屋敷さんは……善意で故人の思いを遂げてさしあげようとしていたんですね」
「ええ、そう……です」
「タヌキの人形ですか。どこにあるかわからないなら、手分けして探しましょうか?」
「えっ、いえ……それだとわたしの監視にならないんじゃないですか? 健一さんに頼まれましたよね? わたしの行動を……だから、一緒に探しましょう」
「あ、そうでしたね、ハハハ……」
梁子はホッと胸を撫で下ろした。
別々に探して、もし真壁巡査が先に手紙を見つけてしまったら、そこで家の調査は強制終了させられてしまう。
それでは困る。
面倒だが全てが終わるまでは、一緒に行動してもらわねばならない。
なんとか離れられずにすんだので、梁子は安心して探索を再開させた。
廊下は途中から縁側のようになっている。
左手に庭が一望できるガラス戸があり、右手に二部屋分の障子戸がある。
ここが、サヨさんと正吉が邂逅した場所なのだろうか。
古い木枠のガラス戸は、下の方が曇りガラスになっている。
奥には雨戸の戸袋もある。敷居や戸袋の形から、雨戸も木製か、それに平たいトタン板を張り付けたものだと思われた。
とても古い家である。
梁子は右手の障子戸を開けた。
そこは仏間だった。
右奥に押し入れ、左奥に仏壇がある。
「ここから探しましょう」
八畳間の天井には、四角い照明がぶら下がっていた。
暗いので明かりをつける。
実際、どの部屋に手紙があるのかはわかっていた。この部屋にはないが、梁子は一応探すふりをした。
押し入れを開ける。そこには色とりどりの布団や座布団がぎっちりと収められていた。
「たくさん入ってますねえ。布団圧縮袋みたいなものに入れてありますけど……これだいぶありますよ。上屋敷さん、これ全部出してみますか?」
「いえ、いいです。たぶん、ここには布団類しか入ってません」
「そうですか。それにしたってどうしてこんなにたくさん……尋常じゃない数ですよ。これってご家族のですかね?」
「いえ、これは……客用です。昔はたくさん、それこそ季節ごとに布団を置いてあったんですよ。急に親戚が泊まったりしたときのために……。この家も親戚の多い家だったんでしょう」
「この家もって? そうか。上屋敷さん家も……」
「ええ。ここのお宅ほどではありませんが……うちも客用布団は置いてあります」
「そうですか。今はそういう習慣のある家ってあまりないですよね。うちの場合は親戚自体少ないですし……」
「けっこう旧家でも親戚関係が希薄になってきてますよ。家主に気を遣わせたくないって、遠方から来た親戚も別のところに泊まったりするようになりましたし……昔はそうしたくてもそもそも泊まるところがなかったから、しかたなく……だったんでしょうね」
梁子は仏壇の下の戸も開けてみたが、特にこれといったものがなかったので、次の部屋に移動した。
左手の、松と鶴が彫られた美しい欄間の下の襖を開けて、奥の間に入る。
そこも八畳ほどの和室で、奥に床の間があった。
明かりをつけると、そこにはユーモラスなタヌキの掛け軸がかかっていた。床柱を挟んで、右に袋戸棚や壺などが置かれた違い棚もある。
真壁巡査はハッとして掛け軸に近づいた。
「上屋敷さん、これ、タヌキの絵ですよ!」
「そうですね。一応ここも探してみましょう」
人形ではない上に、この部屋に目的のものがないのもわかっていたが、梁子はまた探すふりをした。
袋戸棚の中は掛け軸や壺、花瓶などが収められており、右手に押し入れもあったがそこにはまた布団が入っていたりしたので、梁子は捜索をやめた。押し入れの脇に襖のような軽い引き戸があったので、そこを開ける。
するとまた廊下が現れた。
「真壁巡査、ここはもういいです。次に行きましょう」
「はい」
梁子は和室の明かりを消してから、そちらの廊下に出てみた。
廊下はずっと明かりがつけっぱなしだったので、辺りが問題なく見渡せる。
すぐ目の前にトイレがあった。
木の扉の中央に葉の模様のガラスがはまっている。
開けてみると、和式の水洗トイレだった。老齢のサヨさんが使用するには、しゃがんだりするのが少しきつかったのではないだろうか。けれどとてもきれいに掃除してあって、丸い石の敷き詰められた床も壁のタイルも、便器も全てピカピカだった。
ここには何もなさそうなので、次に行く。
トイレの両側にはそれぞれ部屋があった。
左の部屋に入ってみる。
そこは勉強机やベッドなどが置かれた洋室だった。
カーペットが敷かれているからそう思っただけで、本当は和室なのかもしれない。
先の部屋のように天井から照明も下がっていたが、それはモダンな丸いものに変わっていた。また、右手に押し入れもあったが、その襖も板張りの戸に作り替えられている。少しは部屋をリフォームしたのかもしれない。
「ここは……健一さんの部屋?」
がらんとしてほぼ何も置いていなかったが、青いカーテンや、壁に張ってある女性のポスターなどから男性の部屋だとわかった。押し入れを開けてみたが、使っていない暖房器具類が置かれているだけで目的のものはない。
「ここにもないようですね」
「そうですね……」
梁子たちはそこを出ると、トイレの右側の部屋に行った。
ここが、目的の場所だった。
ここが正吉から聞いていた、手紙のある場所、サヨさんの自室である。
ツンと何かすえた臭いがした。
もしかしたらここでサヨさんは亡くなったのかもしれない。
見た感じはとてもきれいだった。
左奥に羽毛布団がかけられたベッドが置いてあり、手芸用品がたくさん置かれた机とミシン台が右奥にある。
右の壁には押し入れもあるが、梁子はそこを見るまでもなく、机に一直線に向かう。
机の上にちょこんとタヌキのぬいぐるみが置いてあった。
その片目には大きな傷がある……。
これはどうみても既製品ではない。サヨさんの手作りだろう。
調べてみると背中にチャックがついていて、開けてみると中から一通の手紙が出てきた。
「上屋敷さん、それ……」
「ええ。おそらくこれが……サヨさんが渡したかったものです」
梁子は手紙とぬいぐるみを手に取ると、真壁巡査に向き直った。
「でも、これはぬいぐるみです。他にも人形があるかもしれないので、もう少し探してみましょう」
「えっ?!」
これだけじゃないの? とでも言いたそうな顔の真壁巡査を置いて、部屋を出る。
サヨさんの部屋の隣は、脱衣場のようだった。
その入り口も、トイレと同じ模様ガラスのついた扉になっている。
開けて目に飛び込んできた洗濯機が最新のドラム式だったので驚いた。家の古さに比べて妙に新しいのでギャップがある。その横に洗面台。
風呂場のドアを開けると、そこはかなり古い造りだった。トイレと同じ丸い石が敷き詰められた床に、タイル張りの壁。こじんまりとした青い浴槽にはなんと湯沸し器が横についていた。
いつの時代のものなのかと思うほど古い様式に、梁子は驚愕する。
まるでタイムスリップしたかのようだった。
家にある過去の膨大な間取り帳を眺めていて、こういう浴槽があることは知っていたのだが、まさか本物をここで見られるとは思わなかった。
「ああ……来て良かったです……!」
手紙とぬいぐるみをバックにしまい、湯沸し器に頬擦りするようにしゃがみこむと、うしろから真壁巡査の戸惑うような声が聞こえてきた。
「あ、あの……上屋敷さん、何してるんですか? そこには人形とかないと思いますが……」
「あっ、そ、そうですよね! いけない、いけない。次を探さないと……ああ、でも名残惜しい……」
『梁子、いい加減にしろ。だいぶ怪しい奴になっとるぞ。そやつ、引いておらんか?』
「大丈夫。珍しかったら、誰でもじっと見ちゃうものです……。だから、別に変じゃないです……」
「上屋敷さん? 何言ってるんですか?」
「なんでもないです! さっ、次行きましょう!」
『はあ……』
梁子の奇行に、しゃがれ声は呆れたようにため息をついた。
真壁巡査も首をかしげている。
風呂場を出て左に行くと、そこは廊下の突き当たりが右にL字に曲がっていた。その先を見ると玄関に通じている。一周してきたようだ。
目の前は間口が開いていて、台所とダイニングテーブルが見えた。
きっとこの台所の右の部屋が、健一のいる居間なのだろう。
梁子たちは台所に入った。
正面に冷蔵庫があり、その左に調理台、そのさらに左に勝手口。部屋の中央にダイニングテーブルがあり、テーブルを挟んで調理台の反対に食器棚があった。
ここにも、テーブルの上とキッチンの窓辺に、枯れた花の入った花瓶が置いてある。
シンクの上には換気扇を回さないと危険なタイプの古いガスの湯沸し器があった。
調理台の上の色あせたクリーム色の棚は相当使い込まれているらしく、年代を感じさせる。
「お、見つかったか?」
「健一さん……」
居間の方から健一が話しかけてきた。
台所と居間の間は何もしきりがなく、六畳間が一目で見渡せる。
中央に掛け布団のかかっていない堀ごたつがあったが、そこに座っている健一以外の光景に、梁子たちは目を見張った。
壁や茶箪笥の上、テレビ台の上など、いたるところにタヌキグッズが置いてある。
膨大な数の人形や置物、さらには絵画まで。
驚いて固まっている梁子たちに、健一がつまらなそうに言った。
「これか? おふくろの趣味だよ。手芸や絵を描くのが好きでね。あと昔からなぜかタヌキも好きだった。いろいろ集めてたらこうなってね。ちょっと異常だろ? これ以上増やすのは止めろって言ったんだけどな……」
健一はそう言いながら、電話帳をめくり、何かを書き出す作業を再開させている。
梁子は台所を探すふりをやめ、健一の近くに座った。
「見つけました。これを……健一さん、どうぞ」
それは真っ白な封筒に「健一へ」と書かれた手紙だった。