2-8 心のブレーキ
翌日。
梁子は大学が終わると、例の家に向かった。
今日は午後の講義がほとんどなかったため早く帰れたのだ。時刻は3時を回っている。
市内バスに乗り、目的地近くまで来ると昼下がりの平和な住宅街を歩く。
「あれっ?」
例の家の前まで来ると、門のところに大きな張り紙があった。
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近隣の皆様へ
先日はお騒がせして大変申し訳ありませんでした。
故 田中サヨ は、七十三才の生涯を閉じました。
つきましては○○斎場にて、通夜・告別式を執り行う所存です。
日時はまだ未定のため、近日中にまたご報告させていただきます。
田中健一
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「健一……これは息子さんの名前ですね」
『ああ、だが日時が未定というのはどういうことだ?』
「最近は高齢化社会だから、なかなか火葬場が空かないそうですよ。だからでしょう」
『……団塊の世代というやつか。数が多いと難儀なものだな』
サラ様が感慨深げにつぶやいている間に、梁子は門の戸に手をかけた。
門は木製のしっかりした格子戸になっている。梁子の家ほどではないが、簡素な瓦屋根もあり、よりいっそう家を奥まった印象にしている。
戸の横の柱に「田中」と太い字で書かれた表札がかかっていた。
梁子は思い切ってガラリと開ける。
『あっ、おい梁子!』
「健一さんが今、この家にいらっしゃるか……確認しないと」
『それはそうだが……お前はそのサヨとかいう老女とまったく面識がないんだろう? なんと言って会うつもりだ』
「それは……知り合い(の知り合い)だって……言いますけど」
『(の知り合い)の方が重要じゃないか?』
「まあ……きっとなんとかなりますよ」
大きめの飛び石の上を歩いていくと、梁子は玄関のチャイムを鳴らした。
だが誰も出ない。
しばらく待ってからもう一度鳴らしてみたが無駄だった。
鍵も当然かかっている。
「はあ……息子さんの家は別にあるって言ってましたよね、どうにかしてそっちに行くしかないんでしょうか。でも正吉さんはその場所を知らないだろうし……手紙はこの家にあるし……はあ、詰みました」
がっくりとして道路まで戻ると、ちょうどそこに驚くべき人物がやってきた。
自転車を颯爽と乗りこなし、キキッと家の前に停める。
その相手は梁子の姿を認めるや、ぱあっと顔を輝かせた。
真壁巡査だった。
「あれっ! 上屋敷……さんじゃないですか。またお会いしましたね!」
「え、ええ……こんにちは。お巡りさん」
「真壁巡査です! そうお呼びください。それよりどうしてここに? 昨日もこちらにいらっしゃいましたよね? この家の方とお知り合いなんですか?」
「ええ、知り合い……ですね」
梁子は(の知り合い)の部分を省略した。
「そうなんですか。自分はちょっと巡回で……というかもしかしてと……いや、なんでもありません! いやあ、今日はいい日だなあ! あ、天気のことですよ、天気。最近暖かくなってきましたよね!」
「は、はあ……」
満面の笑みで矢継ぎ早に話されるので、梁子は圧倒された。
サラ様はあきれたような声でつぶやく。
『まーた、こやつに会うたな』
梁子は苦笑いしながら、あることを思い付く。
もしかしたらこの男なら、健一のことをいろいろと教えてくれるのではないか。
梁子はさりげなく会話に折り混ぜて訊いてみた。
「真壁巡査……実はわたし、ここで亡くなられた方からあるものを預かっていて……それをその方の息子さんにお渡ししたいんですよ。でも連絡先もわからなくて……会えないし、困っているんです。なにかご存知ありませんか?」
「ああ……それは大変ですね。でも、すみません。上屋敷さんの助けになりたいのはやまやまなんですが……一応、個人情報保護法ってやつで教えられないんですよ。そこのポストにその旨を書いた手紙を入れておくっていうのはどうですか?」
「そう……ですね。でも、この家にいつ寄られてるのかわからないですし……それは、なるべく早くお渡ししたいものなんです」
「ああ、ナマモノってことですね?! じゃあ大変だ」
何を勘違いしたのか、真壁巡査は勝手にナマモノだと思ったようだ。
都合がよかったので梁子はそういうことにしておいた。
「そう……です! だからどうにかして息子さんに……」
「わかりました。では、その方のご住所や電話番号をお教えすることはできませんが……ひとつ自分が知っている『有力な』情報をお教えしましょう」
「有力な情報? なんですか?」
「この家の息子さんは、昼間、都心の会社にお勤めです。……昨日も、事件の連絡を受けてすぐにこの家にやってきてくださいました。昨日は警察の事情聴取が長引いたので来られなかったようですが、早く終わったならこの家に用があるとおっしゃってましたよ。ですから、もしかしたら……今夜あたり来られるかもしれません」
「ほ、本当ですか!」
梁子は思わず真壁巡査に近づいて、キラキラした目で見上げた。
急に顔が近づいたので、真壁巡査はたじろぐ。
目と鼻の先にいる梁子に対して、一歩下がろうか、それともそのまま近くで見ていようか……という気持ちの狭間で揺れているようだった。
梁子は思いがけない情報を得たことに舞い上がっていて、それに気づかない。
胸の前で手を組み、感謝の言葉を並べ立てる。
「ありがとうございます、真壁巡査! これで、頼まれた方も報われるってものです。本当にありがとうございます。ああ、なんてお礼を言ったらいいのか!」
「い、いえ……いいんですよ、これくらいしか自分には……」
真壁巡査は、こころなしか顔を赤くしていた。
だが、はたと何かに気づいて真顔に戻る。
「あれ? ということは……夜にこちらの家を訪れるってことですね? 上屋敷さん、いくらお知り合いだとしても……それは少し危なくないですか?」
「いや、それは……大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
「年頃の女性が夜中に一人で訪れるというのは、ちょっと……夜道もそうですし、もし良かったら自分が同行いたしますが」
「えっ、いえ、そんな! そこまでしていただく謂れはありません! ほんと、大丈夫ですから……それにお仕事でそんな一人の市民に付き添うなんて……そんなことできるんですか?」
「それは……その、実は自分、今日夕方までの勤務なんですよ。本当にたまたまなんですけど……上屋敷さんさえ嫌でなかったら、自分が……行き帰りも護衛させていただきます。いかがですか?」
「…………」
梁子は絶句した。
ここまでしようとするなんて。
この警官はいったい何を考えているのか。自分はあくまでも一市民だ。だというのにこの扱い……。
好意を向けられてるのは前にもわかっていたことだが、ここまでされるのは珍しかった。
なぜなら、そうなる前にたいていの輩はサラ様が追い払っていたからだ。
今は追い払うどころか、ある程度この男の思うがままにさせている。この変わり様はどうしたことかと、梁子は内心サラ様に毒づきたくなった。
「いや、でもやっぱり……」
「ハハッ、そうですよね。普通ここまでするなんて、さすがに変……というか、ご迷惑ですよね。まったく、何を言ってんだ俺は……」
真壁巡査は動揺しているのか、また口調が乱れ一人称も「俺」に変わっていた。
どうしようと思っていると、サラ様が突然妙なことを口走る。
『梁子、ここはひとつ、ヤツの好意に甘えてみてはどうだ?』
「さ、サラ様?!」
小声で信じられないとつぶやく。
だが、しゃがれ声は淡々とその理由を語った。
『正吉の言い分では、健一という男はなかなかにひねくれたヤツのようだ。で、あれば……こちらの申し出次第では門前払いを食らう可能性もある。一歩間違えれば機会を失うことにもつながりかねない。こちらの素性を不審に思われれば、一巻の終わりだ。……そこで、この警官よ。警官が同行していれば、よほどのことがない限りその者を信用する』
「そ、それは……そうですけど」
「ん? どうしました、上屋敷さん」
「い、いえ……」
独り言のように声が出ていたらしく、真壁巡査が不思議がっている。
しゃがれ声はなおも言った。
『いいから、構わず利用してやれ。コイツもそれが本望だろうよ。いいから、頼め、梁子!』
「わ、わかりました。じゃあ……頼みます」
「ほ、本当ですか! 上屋敷さん」
「え、ええ……本来だったら、こんなことお願いするようなことじゃないんですけど……お言葉に甘えて、お願いいたします」
「わ、わかりました。では……これ、自分の連絡先です。あと4時間後、7時くらいまでにはどうにか仕事を終わらせるようにしますんで、そうしたらその頃に連絡をもらえますか」
そう言って、真壁巡査は警察手帳のメモ帳にプライベートのアドレスを書くと、それを梁子に渡してきた。
こういうとき、普通の女子であれば少しは胸がときめくのだろうが、梁子にとってはなんの感慨もわかない。
自分でも恐ろしいほどである。と、梁子は思う。
それはきっと、サラ様が決めた運命の相手ではないからだ。
たとえ胸キュンする場面であっても、そうなってはならないと無意識のうちに心にブレーキをかけてしまっているのだ。
どうして、こう何度もこの男に会うのだろう。
運命の相手ではないのなら、もうこれっきりにしてほしい。
梁子は、目の前で妙にニヤけている警官を見ながら、内心イライラしていた。
それはこの男に対してではない。主にサラ様に対してである。
「あ、その……あとでやっぱり不要だと感じたら、別に連絡しなくていいですから。それも捨ててもらって構いません。何か、お役に立てたらって思っただけですので……」
「いえ……そんなことしません。本当にありがとうございます。またあとでご連絡します」
「……もう巡回に戻りますね。では」
「はい」
自転車をこいで去っていく真壁巡査を見送りながら、梁子はサラ様に文句を言った。
「なんで……こう何度もあの人に会うんですか? 偶然ですか? それとも、サラ様がわざと引き合わせているんですか?」
『いや……本当に偶然だ。こういうのが本当の運命の相手と言うのかもしれんなあ』
「やめてください。サラ様が選んだ殿方と、わたしは結ばれるのでしょう? だったらそんなこと言わないでください。あの人じゃないのに……そうだと知ったらあの人も怒ると思いますよ?」
『怒る? どうしてだ』
「人の心を弄んだって、絶対に怒りますよ。今のだって、なんか……その気にさせたみたいで……こっちは利用しているだけなのに」
『ふん。本当に初心だのう、梁子は』
「なっ! サラ様?!」
『あやつはお前への好意もあったが、それ以上に一人の人間を助けたいという思いがあったから、あのように言ったのだぞ。それを……思い上がるなよ、梁子』
「べ、別に思い上がってなんか……。あの人は、真っ直ぐな人です。いろんな意味で。わたしは、ああはなれない。……でも、むやみに傷つけることだけはしたくないです」
言いながら、傷つけるのは相手ではなく、本当は自分が傷つきたくないんだろうなと、梁子は思った。
特別に思いそうになるのをこらえていないと、きっとあとで「ダメ」になってしまう。
もし、真壁巡査を好きになってしまったら。
サラ様が選んだ人が現れたとき、きっと深く傷ついてしまうはずだ。
そんな自分は見たくもないし、予想したくもない。
サラ様が選んだ人なら、きっとそんな思いはしないだろうし、確実に幸せになれるのだ。
だから、梁子は強く望む。
「サラ様。いい加減、わたしの運命のお相手……早く見つけてくださいね。でないと……」
『そうだな、早く見つけるとしよう。梁子すまんの』
梁子はもらったメモを大切に手帳に挟むと、一旦家へ帰ることにした。