1-17 再会
日も暮れた午後7時、梁子はようやく自宅近くのバス停まで帰ってきた。
サラ様と小声でたわいない話をしながら、自宅へ向かう。
角を曲がると、門前に見慣れぬ一台の自転車が停まっているのが見えた。
「あれ、なんでしょう、この自転車……」
『……警視庁、と書いてあるな』
「えっ? ってことはお巡りさん……の? なんで……」
梁子は一瞬、真壁巡査の顔を思い浮かべたが、すぐにそれを打ち消した。
なにも警官は彼だけではないのだ。
だというのに……どうしてわざわざ彼を思い浮かべてしまったのだろう。
梁子は自分でも理解できないままインターフォンを押した。
しばらくして、母親のゆかが出た。
『おかえりなさい、梁子さん』
「ただいま戻りました。あの……」
『貴女に用があるってお巡りさんがいらしてますよ?』
「えっ? わたしに……ですか? 何の用か聞きましたか?」
『いいえ。とにかくかなり長い間お待ちしているから、早く会ってあげてください』
「はい」
開錠されて門の横の扉が開くと、梁子は緊張した。
いったい何の理由で家に警官が来ているのだろう。
自分に用とは……? まさか昨日の件でだろうか。
「あ、おかえりなさい。上屋敷さん……ですよね?」
「アナタは……」
石畳を歩いていくと、玄関前に――真壁巡査が立っていた。
若干予想していたとはいえ、まさかの再会に梁子はドキリとする。
ストーカーか? とも一瞬思ったが、警官だしいくらなんでもそれはないだろう。
いや、昨今では警官でも恋愛対象にストーキングするものもいて、事件に発展することも珍しくない……。
サラ様が小声で『警戒するに越したことはないぞ』とつぶやくのが聞こえた。
「良かった。もう少し待ってもお帰りにならなければ、また明日出直そうと思っていたので」
「あの……。わ、わたしに、何か用ですか?」
「ええ。昨日の件で……少し」
「……」
やはりか、と梁子は息をのむ。
「お時間はとらせません。二、三お伺いするだけですぐに帰ります」
「そうですか……。こ、ここではなんですし、中でお話しませんか?」
「いえ……先ほどお母様にもそう勧められたのですが、こちらで結構です。これは……その……自分でも少し、お聞きしてもいいものかどうか迷ってるようなことですから」
「……?」
「おかしいと思われるでしょうが……自分は実は、昨日のことを詳細に思い出せないのです」
「思い出せない?」
「ええ。上屋敷さんにお会いしたことは……覚えているんですが。その他のことはどうにも不明瞭で……。はあ、どうしてこうなってしまったのか……体調はとくに問題はないんですがね……。しかし、上司に報告する上でとても困っておりまして。上屋敷さん、どうかご協力していただけませんか」
「ええと……」
これは、衣良野が引き起こした記憶障害だ。
そのせいで真壁巡査はいろいろと仕事上に不都合を生じさせてしまっているのだろう。
すべて知っている梁子にとっては、同情を禁じ得ない話である。
「わたしにできることでしたら……」
「そうですか! ご協力感謝いたします」
「いえ……」
「ではさっそくお聞きしますね。あ、その前に……少々変な話をしてもいいですか? 実は今日、昨日の現場にまた行ってみたんです。そしたら……自分でも言ってておかしいと思うんですが……あの家がきれいさっぱりなくなっていましてね」
「えっ?」
「家が……建物がそっくり消えていたんですよ。もうビックリです。自分でも信じられません……。嘘だとお思いになられるでしょうが……でも、実際なくなっていたんですよ。それで、その点についてもいろいろと確認をとっていきたいのですが……上屋敷さん。たしか貴女、昨日絵を描いていましたよね? その家の絵を……」
「ええと……」
さてどうしよう。
ちらりと何もない空間を見上げる。
そこには姿を消したサラ様がいるはずだったが、何も言わないままだった。
こそっと耳打ちするくらいでは誰にも聞こえないはずだが、そういうそぶりもない。
梁子は、エアリアルとの約束もあったので嘘をつくことにした。
「あの家……とは?」
そ知らぬふりをして、相手がどこまで覚えているのかを聞きだす。
「えっ? あの……古びた洋館があったじゃないですか。貴女がその家をデッサンしていて、自分はその絵を見せてもらったはずです。覚えていないんですか?」
「ごめんなさい。ちょっと、わたしも……なぜか昨日のことはよく覚えていないんです。わたし……絵を描いていたんですか?」
「えっ……ええ、とてもお上手な絵でしたよ。あの時のスケッチブック……今もお持ちですか?」
「いえ、それが……。いつも使っているやつがいつの間にかなくなっていて……今日も探していたところなんです」
「そんな……」
奇怪な現象に巻き込まれた体でいこう。
梁子はそう考えた。
迫真の演技で、必死に真壁巡査の話に合わせていく。
「どういうことなんでしょう? 家が消えたとか……わけがわかりませんけど……。あの、わたし、お巡りさんに会ったことはなんとなく覚えていますよ? でも、それ以外は何をしていたのか……本当にさっぱり覚えていないんです。変ですよね……。そういえばわたし、どうしてお巡りさんと会ってたんでしょうか」
「えっ、それも、覚えていないんですか?」
「はい」
「ええと……たしか不審な女性がいるという通報で、あの場所に自分が派遣されたんです。そして、その場所には貴女がいて、職務質問をしたら……たんに絵を描かれていただけだったので……なんら不審な人物ではない、と判断したんです」
「そう……でしたか」
ここまでは問題ないと梁子は内心安堵する。
「そして、通報は、貴女が描いていた『家』からのものでした。でも……通報した人物の名前は嘘だった。ためしに折り返しかけても通じなくなっていましたし……」
「おかしなことが起こってたんですね。他には、何が……?」
「ええと……たしか貴女とそのあと、一緒にあの『家』を調べたような気がするんですが……上屋敷さんは覚えていませんか? そのあたりが自分は特によく思い出せないのですが。……ああ、俺も耄碌したな」
「そうですね……ああ、少し思い出してきました。たしかに、わたしとアナタは何かを調べていたような気がします」
これは少しまずいと梁子は思う。
「でも、家? でしたかね……たしか何もなかったのではありませんか? 家があったかどうか……。ごめんなさい、ちょっとそれ以上はよく憶えていません」
「そう……ですか。家自体、はじめからなかった……ということか。だとしたら……上屋敷さんが絵を描いていたというのも事実じゃない……のか……?」
混乱するあまり、真壁巡査はまたくだけた口調に変わりつつあった。
半分独り言のようになっている。
「あ……そうだ。そういえば上屋敷さん、貴女はなぜあそこにいたんですか?」
「わたし、ですか? さあ……ごめんなさい。それもよく……わからないです……」
梁子は真壁巡査を注意深く観察しながら、慎重に答えた。
余計なことを言ってはいけない。
「そうですか……。わかりました。もう結構です。腑に落ちませんが……不思議なこともあるものですね。上屋敷さんがまるで憶えていないなら仕方ありません」
「わたしたち、こんなふうに記憶があいまいになるなんて、ちょっとおかしいですよね……」
「ええ、すべてがあいまいで……モヤモヤする……。スッキリしませんね。でも、ひとつだけたしかなことがあります」
梁子はドキリとした。
「……なんですか?」
「誰かが上屋敷さんを通報した、ということです。これだけは記録に残っている。事実だ。貴女にそうやって迷惑をかけようとした、悪意を持つ人物がいた、ということには違いありません。……それは、非常に危険なことでもある」
「恨みとか、そういうことですか? そういった人にはちょっと……身に覚えはありませんが」
「……なんにせよ、気を付けてください。上司には一応そう報告しておきます。どういう理由かはわかりませんが、貴女はあそこにいて、第三者から悪意のある通報をされた。そして、もしかしたらそれはなにか事件に巻き込まれていた状況だったのかもしれないと」
「えっと……わたし、なにか危険な状態なんでしょうか?」
「わかりません。ただ、今後も注意するにこしたことはないでしょう。ご心配なら、しばらく上屋敷さんの家の付近を重点的に巡回しておきます。このまま、なにもなければいいんですが……」
「ありがとうございます。では……そういうことでお願いいたします。もう……よろしいですか?」
「あ、ええ……」
なんとか真壁巡査の考えがまとまったようなので、梁子は家の中に入ろうとした。
その背に、声がかかる。
「あのっ」
「え? はい……」
振り返ってみると、真壁巡査が真剣な表情をしていた。
「このことは……どうかご内密にしていただけませんか。こんな状態になるなんて……原因がわからないとはいえ、警官として失格です。貴女という市民を、ちゃんと守れなかったかもしれないんですから……。非常に不甲斐なくて、申し訳ない……」
「そ、そんな! 気にしないでください。その……わたしだって、同じように記憶が? あいまいで変な状態になってたわけですし……そう! もしかしたら近くで得体のしれないガスとかが発生してたのかもしれないですよ。そのせいできっと記憶が……」
「えっ? ガス? それは本当ですか? だとしたら他の事件か……」
「あっ、いえ、その……たとえです、たとえ! とにかく……きっとお巡りさんのせいじゃ……ないです。だから……」
「ありがとうございます、上屋敷さん。そう言ってもらえると……助かります」
この警官は、かなり自分に厳しい人なのだ、と梁子は感じた。
衣良野に魔法をかけられ、記憶があいまいになっても、どうすれば市民を守れるのかを一番に考えている。
それは、仕事熱心だとかそういうことではない。
きっと、本人の持つ素質がそうさせているのだろう。
「こちらこそ、心配してくださってありがとうございます」
「い、いえ……」
梁子が礼を言うと、真壁巡査は照れたのか少し顔を赤くしてうつむいた。
そして、遠慮がちにこちらを見つめる。
――まただ、またこの視線だ。
梁子はそう思ったが、でも今度は不思議と嫌な気はしなかった。
「では……」
「あ、ええ。ご協力、ありがとうございました」
姿勢を正して敬礼すると、真壁巡査はくるりと踵を返していってしまった。
サラ様は何も言わない。
梁子も無言のまま、家の中へと入った。