1-15 おもてなし
「えっ……? 消えた?!」
梁子はあわてて手元の契約書の控えを確認する。
まだ、エアリアルの契約書もテーブル上に残っていた。
サインもまた幻影で、すぐ消えてしまうのではないか……と不安になる。さっきのはあくまで「フリ」で、この家を出た途端、契約自体なかったことになってしまうのではないか……。本当はまだ騙されているのではないか、などと、さまざまな疑念が頭をよぎる。
「……はい。はい、マスター。あ、お茶を入れて差し上げるのですね。ええ。わかりました~。お任せくださァ~い!」
天井付近を見上げながら独り言をつぶやいていたエスオが、しずしずと梁子のもとにやってきた。
手元からポンと手品のようにティーポットとカップを取り出してみせると、バチッとウインクをする。
「まあまあ、まずは座って! そしてゆっくりお茶でも召し上がれ~! マスターから直々に、おもてなししてあげてって言われたのよォ。さあ、どうぞ~」
なみなみと琥珀色の液体が注がれると、一杯の紅茶がソーサー付きで梁子の目の前に差し出される。
それはテーブルの上で湯気をたてながら芳醇な香りを漂わせていた。
梁子はいわれるままソファに座り、不安げにサラ様を見上げる。
『たぶん平気だ。試しに飲んでみろ』
サラ様の許可もあって、思い切って飲んでみる。
すると、アールグレイのかぐわしい香りが口いっぱいに広がった。
「わ、美味しい……」
紅茶の中でもアールグレイは、梁子の特に好きな銘柄だった。
砂糖が入っていないのか、甘みはあまりない。だが、お菓子が横にあったらたまらず口にしてしまいそうなほどそれはとても美味しい紅茶だった。
梁子は一息つくと、おずおずと尋ねてみた。
「あのう……エアリアルさんは……最初からここにいなかったんですか?」
「そうよォ~。今どこにいるかっていうと~どこだと思う?」
「ええと……どこでしょうか。大井住大学ですか?」
「ブッブー、アメリカよ♪」
「あ、アメリカ?!」
エスオがこともなげに言ったので、梁子は余計に驚く。
「ど、どういうことですか……? さっきの姿が幻影だったとして、どうやってそれをアメリカから……」
「それは私からご説明しましょう」
そう言って、さきほどまでエアリアルが座っていたソファに衣良野が腰かける。
主がいなくなったので、もういいと思ったのだろう。
梁子を落ち着かせるためなのか、ことさらこちらに目線を合わせてきていた。
「本当はあまりお教えしたくないのですが……いろいろと説明しておかないと、その契約書のサインも不審に思われてしまうでしょうからね。きちんとご納得いただけるようお話ししておきます」
「実際……いま不安になっています。このサイン、本当に大丈夫なのですか?」
「不安になられるのも当然ですね……。わかりました。とりあえず、順を追ってご説明いたしましょう。まずはこの家のこと、Hについてです」
「はい」
「先ほどご指摘がありましたように……この家は、家の精であるHが作り出した幻影です。と同時に、とある媒介を使って別の空間や部屋を投影する……いわば、家の形をした三次元映写機……『大きなホログラム』でもあるんですよ」
「ホログラム?」
聞き慣れない言葉に、梁子は首をかしげる。
「ええ。さきほどのマスターは、そのようにして投影された『幻影』でした。最初はアメリカにあるマスターの研究室ごと映像が投影されていたのですが……ほら、机とか、書類とかあったでしょう」
「ええ、たしかにありましたね」
「途中から貴女方がいらして……貴女方に研究の一端を見られると困るからと、マスターは書類などを消し去ったのです。私たちには普段、研究の進捗を一緒に見てほしいと、いろいろと置いたままにしていますがね……」
「そうだったんですか。でも……映像といっても、さきほど握手したとき、感触が確かにありましたよ? 映像は触ることなんかできないですよね?」
「あれには別の『魔法的要素』が加わっているんです。詳しくは私の口からは明かせませんが……ヒントを言うと、対象者の『感覚』を騙しているのです。例えば……そのソファの感触、素晴らしいでしょう? ですが、実際座られているのはただの空間です。空気椅子みたいなものですね」
梁子は一瞬その姿勢を想像してげんなりした。
「えっ、そ、それは辛そうですね……今はそんな風に感じないですが……。で、では、このサインは? これも騙しているんですか?」
「それは、マスターの持つ『魔法のペン』で遠隔地から書かれたものです。一応、消えたりはしないはずですよ。ご安心ください。たしかあれはまだ『字を消す』という機能までは実装されてなかったはずですから……」
「魔法のペン? 字を消す?」
「あ、いや、失敬。これはまだ開発途中のものなので、これ以上は詳しくお話できないですね。今度マスターに会ったときにでも直接お聞きになってみてください」
「はあ……とにかくいろんな『からくり』が噛み合わさって、この状態が作り出されてたってことなんですね」
「まあそういうことです。ちなみに、Hだけでなく、私やB、そしてCもホログラムです。だからこうして……自由に姿を変えられます」
ためしに……と衣良野が辞書の姿になったり、人の姿に変化してみせる。
ターも、彼につられて黒猫に変化してみせた。
サラ様同様、彼らも化けて出ていると思っていたのだが、どうやらそれはもう少し現実的だったらしい。
サラ様だって言われてみれば、ホログラムの一種と言えるかもしれない。
肉体は持たなくても世界に干渉できるといった点では同じだ。だが……どちらかといえばそれはオカルト寄りである。
梁子は衣良野たちの事実に驚愕しながらも、もう一口紅茶をすすった。
「あ、そういえば、この紅茶も本当の紅茶では……ないんですか?」
「良く気が付かれましたね。そうです。そこにはカップも、ソーサーすらありません。あなたの過去の記憶を頼りに幻影を作り出し、また一番おいしいと思われる紅茶を感じてもらっているだけです」
「これも幻影とまやかし……なんですね」
「ええ。それから、Hの機能はそれだけじゃありませんよ。部屋の内装だって変えることができるのです。H! 少しお見せしてあげてください」
「いいわよォ~。それ、ほいっと」
「えっ……?」
エスオがそう声をかけると、壁紙が全部赤になったり青になったりとめまぐるしく変わりはじめた。
「ゆくゆくは人々の暮らす家はこのように簡単にリフォームできたり、ポータブルに『引っ越し』できたりするようになるでしょう。まさにマスターの、素晴らしき研究の成果なんです!」
「……」
自慢げに披露する衣良野たちとは対照的に、梁子は絶句していた。
これではまるでゲームの世界ではないか。
自分の部屋の内装を好きなように変えたり、家具を出したり、アイテムを並べたりする。
それはとても素敵なことだが、同時に恐ろしいことでもある。
実体をともなっているように見えても実際はそこには何もないのだから――。
映像だけなら当然、他の物を通過させてしまう。
雨風はしのげず、段差も一歩間違えれば落下事故につながってしまう。
それは致命的な欠陥である。
「ずいぶん便利ですが……これ、雨とかはどうやってしのいでいるのですか? それに、この家は二階があるようですが、どうやって上へ?」
「それは、Hのもっとも優れた機能の一つですね。普通、人や物は映像を通過してしまいますよね? でもそれも、空気を『うまく』活用すれば……屋根は雨漏りもしませんし、二階へだって実体のある人を載せることができます。ただ、コストがとてもかかるので、二階をそのように開放することはめったにありませんが」
「実体? ええと……投影されたエアリアルさんとかなら二階に行けるけれど、わたしたちだと二階に行くのは難しいってことですか?」
「ええ……質量のあるものを空中に浮かせるのはいまだ実験段階なんです。その実験の一つがBです」
梁子は、床をじっと見つめているメイド服の女性を眺めた。
掃除を再開したがっているのか、足先で微妙にほこりをかき集めている。
たしかにこの箒の精は、昨夜、猫の精ターを乗せて空を飛んでいた。
だが「人」を乗せることまでは、はたしてできるのだろうか。
家もそうだ。人はなにもなしで空中に浮かぶことができるのか。竜巻でもなければ飛ばないだろう。現実問題、そんな暴風を家の中で吹き荒れさせることはできない。仮に行うとしたらそれだけのエネルギーが必要になる。
『ふむ。それは結界の類か?』
「サラ様? 結界、ですか?」
ふと思い至ったのか、しゃがれ声が口をはさむ。
『ああ。これ以上先に進ませないということを人や物に対して行う術だ。おそらく、あの女科学者は「科学的に」それを解明したのだろうよ』
「そんな……そんなことが……」
「お見事です。たしかにマスターは結界と呼ばれるものを長年研究していました。そして、それを解明し、Hに『物を通過させない機能』を付加させたのです」
「もう、なにがなんだかさっぱりすぎて……頭がついていかないのですが……」
梁子はそろそろオーバーヒート気味になってきた。
いい加減、もうこれくらいにしてほしいと白旗をあげる。
その様子に衣良野は苦笑した。
「失礼しました。ふふ、いろいろと専門的な話をしすぎましたね。お許し下さい」
「いえ、要は、この契約がちゃんと効力を発揮してくれるかどうか……それがわかればいいんです。お話ありがとうございました。つまり、大丈夫ってことですよね……?」
「ええ、大丈夫ですよ。なんなら家に帰られてからじっくりと契約書をご覧になってみてください。消えたりなんかしてませんから。きちんと契約されていましたよ」
「そうですか。わかりました。あ、サラ様……サラ様は間取りの一部、手に入りましたか? そっちも大丈夫ですよね?」
くるりと、梁子は背後を振り返る。
『ああ、梁子。安心しろ。すでにこの家の裏口からの一部と、今日通された表からの間取りの一部は胃の中だ。消化は……このあとゆっくりと、な。おい、エスオとやら、間取りもリフォームとやらで変わるのか?』
「あら~いつの間に食べられたの、アタシ? こっわ~いっ!」
『ふざけるな。食べたというのは言葉の綾だ。見知ったことで我が内に取り込んだ、というだけだ。……それより、もう一度聞く。間取りは変わることがあるのか?』
「いいえ。この形はアタシの元になった家の姿。だから、間取りは変更されない、というよりできないのよォ~。変更できるのは中身の内装だけね♪」
エスオがくねくねとしながら答える。
『そうか、ならば一安心だな』
「じゃあ、そういうことで……。サラ様、ひとまず今日は帰りましょう。衣良野さんたち、紅茶は幻影でしたけど、とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」
梁子はそう言って立ち上がった。
「上屋敷さん、ちなみにあれは幻影ですから。カロリーはゼロですよ。お口に合ったならなによりです」
「そうですか。それは嬉しいですね。カロリーゼロですか……いいですね。エアリアルさんはこういった方面でもビジネス成功しそうですよね。ダイエット産業とか……いいかもしれない。あ、いやその……思ったことを言ってみただけですけど……女子にとってはカロリーは重要ですからね……」
なにやらぶつぶつとつぶやきはじめた梁子に、衣良野が申し訳なさそうに声をかける。
「あの、上屋敷さん」
「は、はい?」
改まった物言いに、梁子も思わず身構える。
「私たちは……マスターの研究が実りあるものになるなら、こんなに嬉しいことはないのです。主の喜びは私たちの喜び……。ですから、今日は本当に良かったです。来ていただけて……。最初はこちらが逃走した形でしたが……これからもどうぞよろしくお願いいたします、上屋敷さん」
「ええ……」
梁子はにっこりほほ笑むと部屋を出た。
去り際、一つだけ疑問に思っていたことを聞いてみる。
「そういえば、なぜ表札がエアリアルさん、ではなく衣良野さんの名前だったんですか?」
「マスターの名前のままですと、万が一誰かにバレたらいろいろと厄介ですからね……。それに、イラノイトシという私の名前は偶然にもこの日本にありそうな苗字が含まれてましたから。適当に漢字を当てはめて使わせていただきました」
今「含まれている」と言っただろうか。
表札に衣良野とあったので、梁子は自然と「衣良野さん」と呼んでいたのだが、本当はどこからが苗字でどこからが名前だったのだろう。
もしかしたら苗字などはなく、単にイラノイトシという「名前」だけだったのかもしれない。
ふと変なところが気になった梁子だった。