4-36 エスオとの戦い
「えっ? に、逃げられた……?」
視界がクリアになると、千花が困惑しながらつぶやく。
誰もいない。
二階部分は、がらんどうだった。外側からは窓が見えていたはずだが、中はのっぺりした壁しかない。天井もなく、頭上には青空が広がっていた。
「青……空?」
梁子は違和感を覚える。
たしかここに入った瞬間は薄暗いと感じていたはずだ。でも、今はさんさんと太陽の光を浴びている。
いったいどういうことかと思ったが、すぐにわかった。
「エスオさん……ですね?」
「そう、その通りよ~。ここにマスターがいると思ったあ? それならアタシの思惑通りね!」
床からニコニコ顔のエスオが現れる。
どうやら彼は「本当の意味での」時間稼ぎをしていたようだ。まるで二階があるかのように見せかけ、そしてそこに己の主がいるかのように一階の天井にリアルタイムのエアリアルの映像を流していたのだ。
梁子は歯噛みをした。
まさかこの建物にいなかったとは。一杯喰わされた。エアリアルは今どこにいるのか。
『こしゃくなマネを……』
サラ様もかなりご立腹らしかった。鬼のような形相でエスオを睨んでいる。
『あの女科学者を止めるにはもう時間がない……さっさとカタをつけるぞ!』
言うが早いか口を大きく開けてエスオに躍り掛かった。
だが、食べられても、また別の場所にエスオは現れる。
「フフフ……いくら食べてもいいわよ~! 今度のアタシは使い捨てのコピーだから。前みたいにエラーは起こらないわ。その間にマスターは実験を始めちゃうの♪」
何度かその攻撃を繰り返していたが、サラ様はふとあることに気付いたようだった。
『ん……? そうか。これはすべて分身……であれば、やはり本体を仕留めねばなるまいな。あの辞書、猫、箒は幻影のそばに本体があったが……お前は別の場所にあるのか』
「フフッ……そうね~。でもヒ・ミ・ツ。だってまだ消されたくないもの~」
冷や汗を浮かべながらそうおどけてみせたエスオだったが、サラ様には通用しない。
『フン、教えられずとも自ずとわかるわ。この建物でまだ立ち入っていない場所……そこがお前の本体の在り処だろう』
「なっ……!」
サラ様はにやりと笑うと、後方の床を見つめた。そしてそこにかじりつくと、穴を開けて一階へと向かう。梁子たちもふわふわと浮かびながら後を追った。
「あっ、やめっ! ダメよ、そこに行っちゃあ……!」
エスオの制止が聞こえるが、梁子たちは構わず下に降りた。着いたところは狭い納戸のような小さな部屋だった。位置的には玄関から入ってすぐ右手の部屋である。
「たしかに、ここだけまだ入れさせてもらってなかったですね……でも、何もありませんよ?」
梁子はそう言って周囲を見回したが、二階と同様たいしたものはない。
だが、サラ様はまた口を大きく開け、その床を食していった。丸い大きな穴が開く。その下には……基礎と思われる土台の上に、一つの赤いレンガがあった。
「こ、これが……本体?」
梁子がそうつぶやいたのもつかの間、エスオが上から飛び降りてきた。
「ダメよっ! それだけは、壊させるもんですか! マスターの実験が終わるまでは……」
そう声高に叫び、レンガの周囲に透明なガラスのようなものを幾層も構築する。あの正吉を囲っていたときの分厚いガラスのようだった。
だがサラ様はそれを一笑に伏し、エスオに最後通牒を言い渡す。
『フッ、こんなもの無いも同然だ。お前はもう退場しろ! 家の付喪神よ』
手をかざし、幾重にも覆われたガラスを破壊する。以前と同じにそれはあっという間に砕け散った。そして、中心にあった赤いレンガが露わになると、それをサラ様はぱくっと口に入れる。
「あ、ああっ、あああああっ!」
途端にエスオが絶叫する。サラ様の膨らんだ顔の中から噛み砕く音がした。ひときわ大きなゴリッという音が聞こえたかと思うと、エスオはきれいに消えていく。
サラ様はレンガの残骸を吐き捨てた。
『……ぺっ、まずい。喰えたものではないわ』
サラ様を中心に次々と床が消失していく。やがて壁、そして天井と、すべてが細かい粒子となって空気中に霧散していった。
「エスオさん……」
すべてが消えた後、球形の結界から抜け出た梁子は、館の跡地を見ながら大きくため息をついた。
結局戦う羽目になってしまった。
皆そこまで悪い人たちではなかった。それぞれ大切な目的があり、お互いに譲れなかったがためにこうなってしまったのだ。梁子は、もっと違うやり方があったのでは、と後悔の念が残る。
だが、考えている時間はあまりなかった。
頭上では相変わらず黒い球体が飛び回っている。
一刻も早く、この実験を止めなければ……。
彼らの死を無駄にしないためにも、それをやり遂げなければならない。
だが……これからどうすればいいか全くわからなかった。
いったいエアリアルはどこにいるのか。皆目見当がつかない。ふと千花を見ると、トウカ様の蔓を外されて地面に降り立っていた。梁子と同じく困ったような表情で空を見上げている。
梁子はダメ元で訊いてみた。
「あの、千花ちゃん。エアリアルさんを探し……たいんですが。はっきり言ってここ以外にはとても思い当たりません。千花ちゃんはどこにいると思いますか?」
「うーん。ひとつだけ可能性があるにはある、けど……」
「えっ、わ、わかるんですか? ど、どこですか!」
「えっと。前に調べた鉄塔のこと、憶えてる?」
「鉄塔? ああ、エアリアルさんの買い取った土地に建てられてるっていう……はい」
「もしかしたらそこの……どこかにいるかもしれない。でも、あれは全部で10基あった。だとしたら、それを今、全部確認している時間はない」
「そんな……じゃあ、いったいどうしたらいいんですか!」
梁子は頭を抱えた。こうしている間にも、黒い球体はものすごい速さで回っている。速すぎて、もう一つの黒い輪のようになっていた。青ざめた顔で梁子も千花もそれを見上げている。
と、そこに思わぬ人物が現れた。
「千花様!」
「えっ?」
声のした方を振り返ると、敷地の外に燕尾服を着た青年が立っていた。
それは人の姿をした不二丸だった。
梁子は驚いた。以前見た時は小学生くらいの容姿だったはずだ。それが今では十代後半くらいになっている。
「ふ、不二丸?! どうしてここに! 千花は来なくていいって……」
千花が動揺しながらそう叫ぶと、不二丸はいてもたってもいられないといった様子で駆け寄ってきた。そして千花を思い切り抱きしめる。
「千花様っ!」
「ふ、不二丸……なんで」
突然のことに千花は顔を真っ赤に染めた。
「こんな異常事態に、主を放っておく従者がおりますか!」
「えっ?」
体を離し、不二丸が千花をじっと見つめる。そして、胸の前に片手を置いて、跪いた。
「千花様。どうやらピンチのご様子。であれば、この不二丸めがお役に立ってみせましょう。どうぞ、ご安心ください」
「ど、どういうこと……?」
特に現状を説明していないのにそんなことを言うので、千花は疑問符を頭に浮かべている。トウカ様はそんな千花にニヤリと笑いかけた。
『フッ。こやつはな、わらわが呼んだのよ』
「えっ? トウカ様が?」
目を丸くして千花が訊き返す。
『ああそうじゃ。ほれ、こやつは式神にしたときに犬以上の嗅覚を持つようになったじゃろう? さっきからこの現状をどうにか打開できんもんかと考えておったら、そのことを思い出しての。ほれ、ここへ来たのも千花の匂いをたどって来れたからじゃ。であれば、あの女科学者の元へ行くことも可能じゃろう。ここに、その痕跡があればじゃがな……』
「す、すごいっ!」
梁子はいつのまにかそう叫んでいた。
サラ様も対象の位置を探り当てることができるが、その方法はあくまでも占いなのでけっこうな時間がかかる。それにくらべると不二丸の方法はなんと早くて正確なのか、と梁子は感心していた。
トウカ様はその反応に思わずドヤ顔になっていた。
一方サラ様は……心底面白くなさそうにしている。
サラ様を気遣いながら、梁子は不二丸に告げた。
「え、えっと……不二丸ちゃん? いや、不二丸君か……。とりあえずその科学者の痕跡なんですけど、『サラ様が残してくださったので』それらを調べてもらってもいいですか? えっと、粉々になった箒とか、潰れた目玉とか、割れた赤いレンガとかがそのへんにあると思うんですけど……。えっと……ほ、本当に良かった~。『サラ様が残していてくれて』~!」
多少棒読みではあったが、それを聞いたサラ様は少し溜飲を下げたようだった。
更地になった土地には、たしかに物の精の残骸が散らばっている。不二丸はまっすぐそれらに向かっていった。
「あっ、これですねっ! お任せください!」
よつんばいになって、くんくんと嗅ぎ回る。しばらくすると何かひらめいたようだった。目を閉じて神経を集中させる。
「……んっ、わかりました! たぶん、あっちです!」
そう言ってとある方角を指し示す。
それは、大井住学園のある方角だった。




