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記録  作者: 水
8/9

 翌日話してわかったことだが、笹井も僕と同じ所で行き詰っているようだった。

「変動する磁場やら電場とか、イメージがつかないものをどうやって理解すればいいんだろうね」

 物理学における数式は「言葉」だ。物理法則を発見できて、もしも通常の言語でそれが表現できるなら問題ない。けれど、僕らが目に見ることができず、手を触れることもできず、直接測定することのできないモノとモノの関連を表現するには、数学という言葉を使わざるを得ない。それは非常に便利なツールであるが、日常的な感覚からは外れているから、そこで学習を断念してしまう者が非常に多い。そして僕らはルールを理解してはいたけれど、その数式が、いったい何を意味しているのかがつかめていなかった。

「どう思う、秋元くん」

「わからん」

 そう言って、時間だけが無為に過ぎて行った。

 もやもやとした気分で帰途につく。僕も笹井もまだ頭の中に黒い雲がかかっているようだ。いっそ考えない方が、問題がすっきりするかもしれない。

「ずっと不思議に思ってたことがあるんだけど、ひとつ聞いていい」

 口を開いたのは笹井だった。

「なんで理系クラスにいかなかったの」

 もっともな質問だった。適当な理由をでっちあげる余裕が今なかったから、素直に答える。

「兄が理系だからな」

「仲悪いの」

 笹井はなんだか面白そうだ。

「そういうわけじゃないが」

 僕は考える。なぜ理系には行きたくなかったのか。

「兄が、どうしようもないクソ天才だからだな」

 劣等感とかコンプレックス。この感覚を表現する言葉は挙げ始めればきりがない

「兄は凄かった。僕らと同じくらいの年齢のときには、大学でやる基礎的な数学やら、物理学なんかはぜんぶ習得して、自分で公式を作ったりしてた。僕にはもう何がなんだかわからなかった」

 そして、素直だったころの僕には異様な予習を強いてきた。笹井は曖昧にふうんと返事をした。

「悪い話をし聞いちゃった。ごめん」

 つい真剣な気分になってしまった。決まりが悪い。横目で隣を見ると、笹井の口元に笑みが浮かんでいるのが見えた。

「謝りついでに頼みごとをしていい」

 謝る気が感じられないが。

「なんだ」

「お兄さんに聞いてきてよ。そんなにすごいお兄さんが本当なら、私達の疑問なんて一発で粉砕してくれるんじゃないかな」

 そうかもしれない。僕ができなかったことを、兄は簡単にやってのけるから。

「私は、秋元くんは優秀な兄を持ってラッキーだったと思うよ」と笹井はいう。

「なんでだ」

「だって、こんなに苦労をしなくても、欲しい情報や知識が簡単に得られるじゃない。せっかくだからさ、利用できるものは最大限利用してみない。強制はしないけど、ただ、目的の達成に要する苦労が減る機会を逃すのは残念だけど。それと、辛い気持ちになったときは、自分の目的にあった最適な方法を、感情抜きで片っ端から実行することだよ。少なくとも、私はそう」

 笹井の考え方は恐ろしく実用的だった。僕が

今まで使ったことのない新しい武器だ。

「なんか、自分が凄く女々しい人間に思えてきたよ」

「たいていの人は、どこかしら女々しいものだと思うよ。秋元くんに限らず」

 人を食ったような話だ。納得するかどうかは別として、合理的な方法であることには間違いない。

「ともかく、親切な人に丁寧に教わるのがさ、一番楽なんだよ。ただ、二人の間に問題が生じていなければね」


 兄はソファの上で寝ころんでスマホをいじっていた。僕は鞄をおろして、中から電磁気の本を取り出してテーブルの上に広げた。

「兄貴、頼みがあるんだがいいか」

「いいだろう」

 兄貴は手元の画面を見てにやにやしながら、横目での僕の方をみる。

「お。俺も持ってたよ、その本。頼んでくれれば、お前にあげたのに」

「興味深い女子高生にあげたんだろ。それはいいとして、教えてくれ、ここ」

 兄は意外そうな目で僕の方を見て、それからテーブルの上に広げたページに目を走らせた。

「ちょっとめんどくさいところだな」

 と兄は言う。

「で、詳しく教えて欲しいところなんだが」

 僕は疑問点をいくつか兄に質問した。兄はふざけることも、からかうこともなく僕の話を聞いていた。聞き終わった後、ちょっと考えたように間をとってから、簡潔かつ明瞭に僕の疑問点に答えた。僕と笹井の疑問は一瞬で解消された。

 たったこれだけ。

「ありがとう、助かった」

「聡史、お前はたぶん俺より賢いんだろうな」

 兄は本のページをぺらぺらめくりながら言う。

「僕には、この本をひとりで読みとおせるだけの頭も根気もないよ」

 何を言っているのかわからない。兄は、どう説明したもんかなあ、と呟いて困ったように頭を掻いた。

「俺は、この本をひとりで読みとおしたんだ。というか、ひとりで読みとおそうと思ってしまう馬鹿だったんだ。時間がかかったよ。非効率的な努力をしてた」

「意味のある努力だろ」

 なぜ僕が兄を弁護しているのだろう。

「当時の俺はそう思ってたよ、けど、今は違う。俺は母さんか、父さんにこの本を持っていって教えてもらえば一瞬だったんだ。それをしなかったから、一カ月近くロスした」

 兄はソファの上に座りなおした。

「時間をかけることとか努力をすることは美徳だと一般的にいわれている。だが、俺の最初の目的はこの本の内容を理解し切ることだった。当時の俺は目の前の課題に取り組んでいるうちに本筋を見失って、努力することそのものが目的になっていたというわけさ。だが、お前は努力してる自分に酔わずに、最短の道のりで、最初の目的を完遂しにかかった」

 兄が長々と語るところを、僕は初めて聞いた気がする。

「ま、そういうわけで聡史は俺より賢かったってわ思うわけだ。俺はプライドが高いから、そういうところで損してるのかもな。勉強になったよ、聡史。つまるところ仲間は大事っていうことだ」

 兄は珍しく笑ってみせた。

「聞いてくれてありがとーな」

 気持ちの悪い沈黙が落ちる。僕はつい逃げるように、自室へ戻っていってしまった。

 自室で考えて、もうひとつわかったことがある。僕ら兄弟の間には、そもそも問題なんて生じていなかったということだ。

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