五
図書館は蔵書整理のため利用ができなくなっていた。図書館から引き返して教室に戻ると、笹井が難しい顔をして本を眺めているのを見つけた。教卓に本を広げて、黒板には
div E =ρ/ε
の一式が、チョークで書かれている。見覚えのある式だった。div Eはある点からの電気力線の「湧きだし」を意味し、ρはある点における電荷の密度を表す。εは定数だ。
正の電荷と負の電荷の間に力が働くというのは有名な話だが、電磁気学ではこれをもっと一般化して、ある電荷からその電荷の大きさに比例する本数の線が湧きだしていると仮想的に考える。これが「電気力線」だ。この線の密度が大きな場所ほど、大きな力が働くとすることで、理想的な点電荷だけでなく、空間や平面に広がった電荷による静電気力も考えることができるようになる。ただ、divが何を意味しているのかを掴むまでが少し難しい。
「わかったのか、ここの部分」
笹井は黒板に描かれた数式を見上げた。笹井は器用だ。チョークを使って書いたアルファベットと数字は整っていて、読みやすい。
「まだ8割くらいかなあ。やっぱり微分積分はちゃんと勉強しなきゃだめだね」
「なんでこんなことをしているんだ」
笹井は悪戯を見つかった子供みたいな笑みを浮かべた。
「中学の時にやった、電流と磁石の実験あったでしょ? なんで磁石を動かすと電流が流れるのか、なんで電流が流れると方位磁針が動くのか。その疑問を追っていったらここまでたどり着いたってわけ。というか、佐藤くんがそれ聞く? 佐藤くんの知識も、授業の予習ってレベルじゃないよ。私も同じこと聞いていい」
「家庭の事情なんだ」
「複雑な事情がありそうだね」
「それほどでもないが」
「よかったら教えてよ。秋元くんの心の暗部に触れない範囲で」
暗部とは、大げさな。
「そんな大したことじゃない。両親と、あと兄が、クレイジーすぎるんだ」
両親は科学への興味が芽生えるような環境を提供し、僕らはある程度までそうなった。僕が両親の企みを見抜き自然科学から距離を置いた以外にも、両親には誤算があった。兄は両親の買い与えた書籍を黙々と読み、両親にもっとくれと頼むようになり、最終的には自主的に探し始めさらに知識の深化に努めるようになった。高校に入学するころには、両親の持っている知識をはるかに超えていた。
中学生のころまでは、よく兄と父が話をしているのを目にしていた。自宅の居間になぜか取りつけられたホワイトボードに簡単な数式を書きながら、父と兄が話をしていたのを覚えている。両親とも、兄が自分たちの望み通りに好奇心旺盛な学生になったことを心から喜んでいた。しかし、やがては兄の方が、両親の知識に不満を覚え始めたのだ。兄にとっての両親は、話し相手として(もちろん、学問的な話題で)物足りなくなってしまったのだ。両親に見切りをつけた兄が目につけたのは、弟である僕の存在だった。
「なあ聡史、俺と一緒に、こいつを読んでみないか」
それは高校数学の教科書だった。僕は中学二年生、兄が高校二年生の時のことだった。
両親にいつも褒められて、賢いと言われた兄を、当時の僕は尊敬していたから、勧められるままその提案に乗っかった。
兄は、新しい話し相手を作るために、僕を教育することを思いついたのだ。兄は押し入れにしまってあった教科書類を引っ張り出し、予習と称するには先を行きすぎた授業を僕は聞かされることになった。
「授業中の佐藤くんが、なんで窓の外ばかり見ていたかわかったよ。」
授業を聞くよりも青空を眺めていた方が有意義だからだ。。
「暗部っていうか、目茶苦茶面白いね、その話」
「どうも」
兄の話をすることはあまり気が進まなかったのだが、一度話してみるとあっさりと僕の手を離れていった。自分で重要だと思っていることも、口にしてみると大したものではない、と何かの本で言っていた気がする。
笹井は、教室の後ろのほうに首を回した。
「今、廊下に誰かいなかった」
思わず息を止めてしまった。ゆっくりと振り返り、僕も廊下の方を向く。教壇を降り、そろりと教室の端まで移動して、扉から顔を突き出してみた。
「よお、親友」
扉の後ろに隠れていたのは佐藤だった。頭の後ろに手をやりながら、教室に入ってくる
「親友なら盗み聞きでもなんでもしていいんだな」
「あの秋元が、夕闇迫る教室の中で女生徒と二人で話しこんでいたら、いくら親友だって、いや、親友だからこそ踏み込むのをためらってしまうだろ」
そういって佐藤は、自分の机の脇にかかったセカンドバッグを手に取った。忘れ物を取りに来ただけだったらしい。笹井は佐藤の軽口に沈黙で答えた。
「お前の一番嫌いな話をしてたしな」
佐藤は、黒板に羅列された記号を見て嫌な顔をした。
「じゃーこういう話はやめよう」
笹井は黒板消しを手に取って、板書された文字を乱暴に消した。チョークの粉がぱらぱらと降ってきて、黒い髪と肌色の頬にパステル調の色を添えた。子供が夢中で泥遊びをしているような無邪気さに、僕は一瞬目がくらみそうになった。
「相良先輩の話でもしない、佐藤くん」
佐藤は目を向いて、それからいつものような軽薄な笑みを浮かべる。笑みを浮かべる一瞬前、感情が感じられない無表情が現れたのを僕は見逃さなかった。こいつは、こんな顔もできるんだなと思った。
「俺はこいつを取りに来ただけだからな、すぐ帰るよ」
セカンドバックを僕らに見せるように持ちあげてから、佐藤は退散していった。まるで、頬を張られた犬のようだ。そして、僕と笹井だけがあとに残された。
「秋元くん、どう、次は恋バナでもする?」
「こんな趣味の悪い話の振り方をする奴を僕は始めて見た」
佐藤の意中の相手には僕はそれほど興味がないが。それはいいとして、質問には答えよう。
「好き嫌いというか、恋愛っていうものがよくわかんないな。僕には無意味な口約束にしか思えないけど」
笹井は声をあげて笑った。
「もし秋元くんに、誰もがうらやむ最高に可愛い彼女がいれば、すごく説得力が増すんだけどね。意味のない口約束説」
「わかってるよ、恋愛を語るには僕には実績がなさすぎる」
「実績。面白いこと言うね」
と、笹井。
「実際、私も恋愛なんて、なんの効力もない口約束だと思うよ。だけど、一時の熱にまかせて、あるのかないのかも曖昧な関係を作って、それを維持するために思いっきり背伸びをするんでしょう。その涙ぐましい努力に、私は桜みたいなはかない美しさを覚えるよ」
「実に日本的だな」
「世の中の存在するものは大抵はかないから、その気になればありとあらゆる事象は日本的な美と結びつけられる。日本的って言っておけば文化人っぽくみえるのは中学生までだよ」
文化人なんて気どったつもりはなかったが、不思議と腹が立たなかった。笹井と佐藤が最も違う部分だ。
「実に笹井的だな」
笹井はもう一度声をあげて笑った。
「意味分かんないけど、そういう返し結構好きだよ」
「チョークの粉、払ったらどうだ」
「そうだね」
相良というのは、あの時教室にやってきた陸上部の先輩の名前らしかった。僕は全く気付かなかったが、笹井はあの時、教室を横切ってくる相良と、佐藤を見て、何かを気付いていたのかもしれない。
「もしこの本のことでわからないことがあったら、秋元くんに聞いても良いかな」
笹井は制服のチョークを払いながらそう言う。どうやっても兄には敵うわけがないと知って、途中で挫折していた電磁気学。あれ以来手に取ろうとしたことはなかったけれど、今は不思議と、嫌だと感じることはなかった。たぶん、笹井との話を楽しいと感じていたからだろう。
「いいよ。僕もちょうどいい機会だから読んでみる」
そう言葉にしたとき、頭にまかれていた鎖がゆるんだような不思議な感覚があった。あの時の続きに、もう一度取り組もうという気分になっていた。
中学のころは図書館で借りていた本を、Amazonで注文することにした。専門書は一般書と比べて値段が高い。以前兄が、欲しい本が五万円もすると騒いでいたことを思い出す。結局、アルバイトでお金を貯めて買ったと言っていたが。
専門書は、読者層が極めて薄いが、常に一定の需要があるため、需要者の足元を見た価格設定になっている。しかし僕の探していた本は、中古であればお小遣い程度の金額で十分に足りた。
以前の記憶をたどりながら、少しずつ読み進めて行こうと思う。




