四
僕がよく利用する図書館は二つあって、ひとつは学校の図書館と、もうひとつが市のターミナル駅と直結しているビルの中に入っている市立図書館だ。
昼休みに高校の図書館を訪れたとき、奥の方の机で本を広げている笹井を見かけた。次の日はカウンターに、さらにその次は、片隅に備え付けられた応接セットのソファに座っていた。
一番最後に見たときの笹井は、机と椅子の周りを暖かく包む陽だまりの中で、首を傾けて気持ちよさそうに目を閉じていた。
休日は市立図書館にいるところを見かけた。
相変わらず熱心に何かを読んでいるようだったが、ふっと本を開いたまま立ち上がり、書棚と書棚の間に姿を消した。僕は探していた本を書架から取り出した。貸出カウンターに向かう前に、笹井が座っていた机のすぐ横を通ってみた。
笹井はまだ席を外していて、机の上には本が開きっぱなしになっていた。分厚い赤い表紙で、縁に金色の線が入っている大判の本だ。やや黄ばんだ紙、ところどころかすれかけた文字。僕はこれと同じ本を、どこかで読んだことがある気がした。
「秋元くん」
図書館の中だからか、ささやくような小さな声。それでも、不思議とはっきり耳まで届いてくる。
「よく会うね」
「そうだな、僕も、よく図書館に来るから」
笹井はつと視線を下げた。僕の脇に抱えた本だ。
「佐藤くんはどんな本読むの」
僕は本を広げて、彼女の前に差し出した。
「へえ」
僕の開いたページの中央に目の焦点を合わせる。
「綺麗。銀河の写真ね。秋元くん、こういうの詳しいんだ」
僕は見せたのは、NASAのハップル望遠鏡で撮影した銀河の写真だ。この写真集は、そういう天文写真をたくさん収めている。
「眺めてると楽しいから。星の名前とかは全然覚える気にはならないけど」
実際、僕はその手の話がまったくわからないのだ。なにより、星座の名前は多すぎて覚えることができない。わかるのはオリオン座くらいだ。
「面白いね」
彼女はページの端から端まで視線を巡らせてから顔をあげた。
「引きとめちゃってごめんね。私も、今度、見てみようかな」
僕はそのままカウンターに行って貸出手続きを終えた。なんとなく、楽しい気分になっていた。
家に戻ると、玄関に見慣れない靴があったが、すぐに思い出す。大学で下宿をしている兄が、珍しく帰ってきているのだった。リビングに入ると、兄はソファの上で寝そべって本を読んでいた。たぶんその本は、僕には理解できない類のものだろう。僕がどれだけ頑張っても理解できないことと、兄は日曜新聞に乗ったクロスワードみたいにふんふんと解いてしまうのだ。
中学のときだ。僕は、少しでも兄の知らないことを知りたくて、図書館に通っては出来る限り兄の知識体系に組み込まれていなさそうな分野の本を探しもとめた。物理と数学を兄が愛してやまないことはわかっていたから、僕は兄が知らないだろうというタイトルを探して、まだ教科書でも読んだことがなかった電磁気学の本を手に取った。
ぱっと見、よくわからない記号が並んでいたけれど、これは間違いなく兄が網羅していない分野に違いないと考えて、さっそく読み始めた。半分ほど読み終わったところで、兄の部屋に同じ本が置いてあるのを発見してやる気をなくした僕は、そのままもう一度図書館に戻ったという間の抜けた思い出がある。
机の上に置いた携帯が鳴る。兄は無視している。
「携帯鳴ってるけど」
「いーよ、今これ読んでるから、あとでまとめて返信する」
兄は人間関係に対して結構ルーズなところがある。それでも、自然と周りに人が集まってくるから不思議だ。それは、兄にはあるのに僕には欠けているもののひとつだ。
「聡史」
「なに」
「今日の晩飯は俺が振舞う。楽しみにしておけ」
今さっきまで買い物に出かけていたのであろう、品物の入った袋が、テーブルの上にそのまま置いてある。
「料理なんてできたっけ」
「身に付けた、この半年の下宿生活で」
今日は夕食の席に家族四人がそろう。
「楽しみにしておくよ。兄さんはたいていのことができるからな」
言ってしまってから、後半がほとんど呟くような声になってしまったことに気付いた。兄のページをめくろうとしていた手が一瞬止まったように思えたのは僕の気のせいだろう。
『兄さんのようにはうまくいかないもんだね』
高校受験に失敗した僕のそばで、両親はそういった。そのときも、兄はこんなふうにソファに寝転んで本を読んでいた気がする。両親に悪気はないのはよくわかった、だがそれでも、無償に腹が立ってしかたがなかった。もうなんとも思っていないつもりだったけれど、久しぶりに兄を前にして、自分がまだ全然平気でなかったことに気がついた。
その夜、兄は包丁を振るい、玉ねぎを切り刻み、ちょっと凝ったカレーを作った。カレールウとかを使うのではなくて、カレー粉やらスパイスやらを買いこんでやけに凝っている。大学生になると大抵の人間は軽薄になるというのは兄の弁だが、本人もその通りになりつつあるらしい。
それでも、食べてみるとおいしいというのが癪にさわる。馬鹿にしてやれるくらい、兄が不器用だったらよかったのに。
夕食を終えて、自室でひとりになったとき思い出した。笹井が読んでいた本は、あの時、僕が兄に対抗しようとして読もうとしていたのと同じものだった。大学物理の本らしく高校生で読もうなんていう酔狂な輩は僕と当時の兄くらいしか思いつかないが、笹井はこういった方面にも、高い学習能力を持っているのかもしれない。




