半端者の親切心(7月8日加筆しました)
羽ばたく翼の影が、ベビーベッドでつかまり立ちをしている、悪霊の愛娘に覆いかぶさる。今にも凶暴な鉤爪がふり下ろされようとしている。
きっと、悪霊の愛娘の綺麗な目玉は抉り出して、コレクションに加えるつもりなのだ。
カラスには、ぴかぴか光る綺麗なものを集める習性があるのだと、ナニーが言っていた。
そうはさせるか。おれは弾丸のようにベビーベッドに突進した。余勢を殺せず、ベビーベッドに突っ込んでゆく。もとから、立ち止まるつもりはなかった。そんな猶予はない。
鎧のおばけのようなおれの肉体は、ベビーベッドをぺしゃんこにしたが、咄嗟に右腕を壁につくことで、胸に抱えた悪霊の娘を押しつぶすことはなかった。そのかわり、壁に穴があいてしまったが、気にしなくて良い。悪霊は例え屋敷が全壊しても、娘と奥方が無事なら満足する。
カラスはおれの乱入に驚き、怒った。けたたましい怒声を張り上げ、おれの頭を何度も蹴りつける。一撃一撃の威力はたいしたことないのだが、目をやられそうでひやりとする。おれは壁に突き刺さった右の拳を引き抜き、頭上で振り回した。おれの反撃に、カラスは戦慄き、騒ぎたてる。手加減しているとは言え、拳が何度かカラスの翼を掠めたのだが、カラスは怯まない。果敢におれに挑みかかる。
こんなにしつこく食い下がるのは、おかしいんじゃないだろうか。いや、おかしいことはないか。たぶんこのカラスは、この部屋にいる人間が、雛を浚って殺したと思い込んでいる。だから、我が身も顧みずに報復しようとしているんだろう。カラスは怒っているが、それ以上に我が子を失ったことが、悲しくて辛くて、やりきれないのだと思う。
可哀そうだ。あんなに一生懸命に準備をして、あんなに一生懸命に守って来たのに。あんなに楽しみにしていたのに。可哀そうだ。おれだって胸が痛いのだ、カラスはもっともっと、痛むだろう。
おれはなるべく穏便にカラスを追い返そうとした。だが、カラスはしつこく粘る。おれの頭皮も顔も、手指も傷だらけだ。カラスの猛攻は衰えを知らない。
おれの堅い胸に抱かれた悪霊の愛娘は、どうも居心地が悪いらしく、ぎゃんぎゃん泣き喚いている。カラスの鳴き声もうるさい。耳が痛い。頭まで痛くなってきた。
もう、いい加減に我慢の限界である。おれは棍棒のような右腕で、したたかにカラスを殴りつける。風に舞う綿毛のように軽い体を鷲掴みにした。
おれの五指は楔のように、羽毛に覆われた温かくて柔らかい肉に食い込む。肉の奥で、軽い骨が砕ける手ごたえがあった。
カラスがぴくりとも動かなくなって、清々したと思ったのは一瞬だけ。その直後、すごく後悔した。
おれはやおら立ち上がる。右手で動かなくなったカラスを提げもち、左腕でのたうつ悪霊の娘を抱えて、ゆっくりと窓辺へ移動する。窓のずっと下には、華麗に着地を決めたらしいさっきの猫がまだいて、おれを見上げていた。
おれは少し考えてから窓を閉めた。施錠をしてから、部屋を横切る。ダストボックスに、カラスの死骸を投げ入れた。小さな雛鳥の死骸に、大きな親鳥の死骸が覆いかぶさる。
おれはそっと目を瞑り、可哀そうな親子の為に祈った。
祈ったけれど、そもそも祈りってものには、意味があるのだろうか。祈りを聞き届ける神様なんて、いやしない。そもそも、死んでしまったらお終りじゃないか。おれは、何のために祈ったのだろう。
おれは項垂れた。反りかえって暴れる悪霊の愛娘を、落っことさないように抱えなおす。悪霊の愛娘は、おれの下手な抱っこにうんざりしている。おれだって、出来ることならさっさと手放したい。だが、ベビーベッドはぺしゃんこだ。誰かに変わって欲しいのだが、生憎、そうもいかない。
おれは見よう見まねで悪霊の愛娘をあやそうとする。しかし、うまくいかない。ナニーのようには出来ない。おれは途方に暮れながら、ゆっくりと振り返った。ナニーの気配がしたからだ。案の定、ナニーは扉の前でひっそりと佇んでいる。
「やっと戻ったね」
おれはナニーに声をかけた。今直ぐ、子守を押し付けたいところだが……。
ナニーはぼうっとしている。血管が浮き出る、痩せた手には無数の引っ掻き傷が刻まれている。思った通りだ。ナニーに悪霊の愛娘を託すことは、諦めなければならない。
おれは溜息をついた。ナニーがわからない。
なぜ、カラスの雛を殺した? ナニーは住み込みで働いているが、彼女の部屋はカラスの巣から遠く離れている。ナニーの行動範囲に、カラスの巣はない。おれが知らせなければ、ナニーはカラスの巣の存在すら知らなかった。ナニーがカラスに困らされていた、という可能性はうすい。カラスの雛を殺す必要なんてなかった筈だ。
なぜ、雛の死骸を悪霊の愛娘の部屋のダストボックスに放り込んだ? なぜ、窓を開けっ放しにしたんだ? これじゃあまるで、ナニーが怒ったカラスを、悪霊の愛娘の部屋に誘い込んだみたいじゃないか。悪霊の愛娘を、わざと危険に晒したみたいじゃないか。
なぜだ。なぜナニーが、そんなバカな真似をする必要がある?
ナニーはあまり感情を表に出さない。でも、悪霊の愛娘を可愛がっていたと思う。そうにきまっている。
だって、そうだろう? どうしたら、この赤ん坊を嫌うことが出来るんだ? この子は、意味不明で理解不可能な存在だ。おれは苦手だ。だが、そんなおれだって、この子のことを可愛いと思う。赤ん坊は弱くて、可愛い。愛さずにはいられない存在だ。
ナニーは息子をもつ母親だ。ずっと悪霊の娘の世話をしてきた。そんなナニーが、赤ん坊を傷つけようとするなんて、あり得ない。
ところが、あり得ないことが、現実に起こってしまった。おれは混乱していた。
おれなんかの浅知恵じゃあ、いくら絞ったところで拉致があかない。おれはナニーに訊ねた。
「どうして?」
ナニーはぼんやりしている。すぐに答えてくれなかったので、おれはそわそわした。もう一度同じ問いかけをしようと、口を開きかけたところで、ナニーはやっと答えた。うわ言のようだった。
「どうして、なのでしょう。どうして、幸せそうな親子の光景を、微笑ましいと感じられないのでしょう? どうしてこんなに、憎らしく、妬ましいのでしょう」
おれはナニーの言葉をよく噛み砕いて、呑みこもうとした。苦労して、ナニーがカラスの親子か悪霊親子、或いはその両方に嫉妬していたらしいことを理解する。
なぜだろう。考えてみると、わりとすぐにぴんときた。ナニーには息子がいた。でも、死んでしまった。
死について考えると、おれは真っ先に悪霊のことを思い出す。おれが知る限り、悪霊は誰よりも多くの人を死に追いやってきた男だ。
息子を亡くしたナニー。幸せそうな親子に嫉妬するナニー。大勢の人を殺した悪霊の娘の世話をするナニー。
これらの材料を頭の中で撹拌する。そこから抽出した答えが正しいのか、間違っているのか、ナニーに訊いてみないことにはわからない。
「ボスを恨んでるんだね。ナニーの息子さんは、ボスに殺されたのかい?」
「息子は火事で亡くなったのです」
おれの質問に、ナニーは間髪いれずに頭を振った。
「あの方は、良くしてくださいました。夫はヘマをして、散々ご迷惑をおかけして死んだのに……夫と息子をいっぺんに亡くした私を憐れんで、お屋敷に招き入れ、仕事と居場所を与えてくださいました。大切なお嬢様を預けてくださいました。本当に、良くしてくださいました」
「……なら、どうして」
困惑するおれに、ナニーは微笑みかける。今にも消えてしまいそうな微笑みで。
「逆恨みですよ、逆恨みなのです。私は心の弱い人間ですから。けれど私は、私の恨みが理不尽なものだと、わかっています。だから……神様に委ねたのです。私の悪意が、お嬢様に届くか否か」
そうだろうな、とあたりをつけていたにも関わらず、おれは酷く落胆していた。
悪意をもって悪霊の愛娘を害そうとした。可哀そうなカラスの親子を犠牲にして。ナニーのやったことは、酷いことだ。悪霊は絶対に許さないだろう。おれだって、腹がたっている。ナニーはあまりにも身勝手だ。息子を亡くしたナニーは可哀そうだが、悪霊の愛娘もカラスの親子も、なにも悪くないじゃないか。
だが、それはナニー自身もわかっているのだ。わかっていてもどうしようもなかったと言っていた。
やりきれない、胸がもやもやする。カラスの親子が死んでしまったことを考えると、腹の底がかっと熱くなったが、その憤りをナニーにぶつけたくはなかった。
おれは弱り果てて、項垂れた。
「神様なんていないよ。いるわけない」
「いいえ。神様はいらっしゃいます。あなたを遣わせてくださったもの」
おれは言葉に詰まる。ナニーはおかしくなってしまったようだ。このおれを、強くて怖い、誰にも愛されない、悪魔みたいな怪物を、まるで天使かなにかみたいに言うなんて、まともじゃない。
あたりはしんと静まり返っている。ナニーはおれを見詰める。優しい眼差しに戦慄がはしる。この目は知っている。ブラウン管テレビが映し出す、愛情深い母親の目だ。末端から感覚が薄れてくる。現実感がなくなる。
ナニーの視線が、おれから、おれが腕に抱いた悪霊の愛娘にうつる。暴れ疲れたのか、悪霊の娘はおれの腕に抱かれて、おおきなあくびをしていた。ナニーはかさついた唇を柔らかく綻ばせた。
「こんなに可愛らしい、愛おしいお嬢様を、傷つけずに済んで良かった。ありがとうございます、ブルース。私から、お嬢様を守ってくださって」
ナニーは、輝く聖母画のように微笑んでいる。おれは魂を掴まれたように、彼女に魅入っていた。そして、おれはすとんと腑に落ちた。
ナニーはやっぱり、いい母親だ。息子を心から愛していたから、その死によって、心が引き裂かれてしまったのだ。
カラスの親子は可哀そうだった。だが、ナニーだって可哀そうだ。
やがて、静謐は破られる。先輩たちの話声と足音が近づいてくる。おれがどったんばったん大立ち回りを演じたから、不審に思って様子を見に来たのだ。
おれは綺麗に微笑むナニーを見る。すやすやと安らかな寝息を立てる、悪霊の愛娘を見る。そして考える。先輩達が部屋に入って来るまで、ぎりぎりまで考える。
よく考えて、おれはナニーに歩み寄った。サックコートを脱いで、床に敷く。慎重に、悪霊の愛娘をそこに横たえる。すごく気を使ったのに、悪霊の愛娘はぱっちりと大きな目をあけてしまった。すかさずぐずりだす。それはそうだ。カーペットに転がされたことなんて、産まれてこの方なかっただろう。上着を敷いたことなんて、申し訳にもならない程度、配慮とも呼べない。だが、どうしようもなかった。おれにはやるべきことがある。万が一にもしくじらないように、両腕を使いたい。
「少しだけお待ちください、お嬢様。すぐに済ませます」
おれは短く断りを入れて居上がる。ナニーの背後に回り込み、左腕で痩せた体を押さえつける。右腕をのばし、ナニーの左耳の下から顎にかけて、がっしりと掴む。
ナニーはおれが何をしようとしているのか、分かったみたいだ。それでも、少しも抵抗しなかったし、怖がらなかった。ナニーは首を巡らせておれの顔を見上げる。おれの左腕に触れ、切なそうに微笑んだ。
「あなたの目は、優しい象の目ね。ふふふ、変な例えをしてごめんなさい。トニー……私の夫がね、息子の目を見て、よくそう言ってたの」
ナニーの話には続きがあったのかもしれない。だが、もう時間はなかった。先輩がドアをノックしていた。返答がないことを訝しみ、低い声でぼそぼそと相談している。
ナニーは目を閉じていた。だから、おれは迷わなかった。
先輩たちが入って来たのと、ナニーの首の骨が折れるのはほぼ同時だった。先輩たちは、崩れ落ちたナニーを凝視して固まっている。先輩たちが茫然としているうちに、おれは声を張り上げ過ぎて、ひぃひぃ言っている悪霊の娘を抱え上げた。
ナニーは我が子を愛している、良い母親だ。おれにも優しくしてくれた。ひょっとすると、おれはナニーの息子に、ちょっとだけ、似ていたのかもしれない。
おれはナニーが好きだった。ナニーには、出来るだけ親切にしようと決めていた。
だから、おれはこれ以上ないってくらい、上手にナニーの首を圧し折った。これがおれに出来る、一番、相手を苦しませない殺し方だ。
おれはバカ力があるし、技術もちょっとしたものだと自負している。そんなおれが、上手く折れたのだから、きっとナニーは、苦しまずに死ねただろう。
翌日、屋敷に戻った悪霊に事情を説明して事の顛末を報告した。悪霊は黙っておれの話に耳を傾けていた。
おれは悪霊の敵を生け捕りにしなきゃならない。時と場合によっては、それが難しいこともあるが、それでもやらなきゃならない。弾丸を押し潰していたんじゃキリがない。引き金を引いている奴の息の根をとめなきゃ意味がない。
おれは、ナニーを生け捕りに出来た。でもしなかった。いや、心情的に出来なかったのだ。ナニーが酷い拷問にかけられるのは、絶対に嫌だ。それなら、おれが地下室で仕置きを受けた方がマシだ。
ところが、話が終わると悪霊は、仕事に戻るよう、おれに命じた。
てっきり地下室に連れて行かれるものだとばかり思っていた。面食らうおれを鼻先で笑って、悪霊は言った。
「拷問は無意味だ。彼女には吐く砂がねぇ。だから、今回のうっかりは、大目に見てやるよ」
おれもそう思う。ナニー自身が装填された銃で、引き金に指をかけていたのはナニーだった。だが、悪霊は何を何処まで知っているのだろう。
仕事に戻ろうとしたおれを、悪霊が呼びとめる。振り返って、おれはぞっとした。悪霊が、ひどく冷やかに俺を見据えていた。
「ブルース、お前は特別だ。お前だから、特別に許すんだ。たった一度の過ちだろう、ええ? お前に限って、もう二度と、情にほだされて俺の命令に逆らうなんてことは、しない。絶対に」
石になったように動けないおれに、悪霊は恐ろしい目を細め、茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
「信じてるぜ、俺のバッツィ」
おれは悪霊の迫力に追い立てられるように、部屋を辞した。おれの体は、叩き込まれた仕事を忠実にこなしていたが、おれの心はずっと、引き絞られるように痛んでいた。
俺は悪霊の忠良な犬だ。それが真実で、俺の誇り。俺は悪霊を愛している。彼の為ならなんだってやる。
だから、ショックだった。おれがナニーを楽に殺したことで、悪霊に疑念を持たれてしまった。
やらかした。悪霊の命令に違反してしまった。しかし困ったことに、おれはこの期に及んでも、ナニーに親切にしたことを、少しも後悔していなかった。もし、やり直せたとしても、おれはまた同じことをしてしまうだろう。
見張りを先輩に交代して、仕事を終えた朝方。おれは部屋の主がいない悪霊の愛娘の部屋に忍び込み、こっそりと目当てのものを持ち出した。
買ったばかりの大きな蝙蝠傘をさして、おれはカラスが巣をつくった木の下に行った。おれは生まれて初めて木登りをした。たいしててこずらなかった。
おれはカラスの巣に親子を戻してやりたかった。ところが、カラスの巣は跡形もなく消えてしまっていた。
おれはとぼとぼと部屋に戻った。消えた巣の行方を想像したら、涙が一滴だけ流れた。