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私は性悪ミストレス番外編  作者: 銀ねも
半端者の章
5/7

半端者は赤ん坊に戸惑う

 ***


 おれは良く働いた。悪霊はおれの働きに満足していたと思う。だとすれば、おれの毎日は、悪霊が奥方に買い与える煌びやかな宝石なんかより、もっとずっと輝かしく価値があるものだ。


 役に立つおれを、悪霊は気に入ってくれている。おれは、この幸福がおれの人生の絶頂だと確信していた。悪霊が唯一無二の、おれの強い主人だ。悪霊がおれを支配してくれていたら、おれは完璧だ。

 悪霊の他に、おれの重く鈍い心を突き動かすひとなんて、この世界にいやしない。おれはバカだから、深く考えることもせず、そう思いこんでいた。


 おれは悪霊に心酔している。だが、みんながみんな、悪霊を好きってわけじゃない。悪霊には敵が多いのだ。しかし、悪霊は怖い。怖いので、その奥方や愛娘を狙う輩が出てくる。


 悪霊は「名誉ある男の風上におけない奴が、少なからずいるもんだ」と嘆く。そうは言うものの、悪霊には「女子供に手を出さない」というポリシーはない。ほどほどにフェミニストだが、必要に迫られ、女子供に手をかけることになっても、悪霊は躊躇わない。


 だからおれは、悪霊の留守中には、奥方と愛娘を守ることを最優先する。奥方はおれを毛嫌いしている様子で、おれが部屋に入ると凄まじい目つきで睨んでくるが、おれは気にしない。


 奥方よりも、おれが苦手なのは、二か月前に一歳の誕生日を迎えた、悪霊いわく「可愛い盛り」の彼の愛娘だ。


 子供部屋を見て回るとき、悪霊の愛娘の様子をチェックすることも、おれにまかされた、重要な仕事だ。悪霊は愛娘の為に有能なナニーを雇っている。だが、ナニーの仕事ぶりを評価することと、信頼することは、悪霊にとってまったく別なのだ。

 悪霊はおれを呼びつけ、こういった。


「しっかり見張っていてくれよ、ブルース。もしも娘が酷い仕打ちを受けたなら、その分を百倍にしてやりかえしてやってもまだ、収まりがつかねぇ」


 悪霊は冗談めかして笑ったが、冗談じゃなくて、本気だった。もしも、ナニーが悪霊の愛娘を虐待していたら、未然に防ぐことが出来なかったおれも、ナニー共々地下室送りだろう。


 悪霊の為なら、おれは全身全霊を賭ける。悪霊の娘には関わりたくないと、内心では切に願っているが。


 悪霊の屋敷につれてこられて、初めの日。おれは悪霊の娘とそのナニーに引き合わされた。枯れ木のように歳をとったナニーは実年齢よりはるかに上に見えた。デスマスクのような無表情のナニーの腕のなかで、悪霊の愛娘はすやすやと眠っていた。


 ナニーは住み込みで悪霊の愛娘の世話をしている。仕事ぶりは優秀だそうだ。やるべきことはきちんとやっている。

 おれも横目で見ているが、ナニーは手際が良く、そつなく淡々と仕事をこなしているように見える。


 見えるのだが、おれは時々、釈然としない気持ちになる。ナニーは優秀だが、ナニーはナニーでしかない。ナニーは世話係で、母親ではないのだ。


 おれは、こどもには親の愛情が必要だと思っている。悪霊は愛娘を溺愛しているが、忙しい身なので、いつでもどこでも一緒ってわけにはいかない。

 奥方にはたっぷり時間があるが、彼女はその時間の殆どを、我が身の不幸を嘆く為に浪費している。愛娘の顔を一目も見ない日すらある始末だ。まったくあてにならない。


 悪霊の愛娘は、母親から十分な愛情を与えられていない。母親というのは、世界で一番愛情深いものの筈だ。その愛情を知らないなんて、可哀そうだと思う。


 おれも親の愛情を知らない。知らないが、憧れる。おれだって出来ることなら、愛情深い親の許で、愛されて育ちたかった。おれはこんなんだが、実の親がこどもの頃だけでも、おれを愛してくれたって、罰は当たらなかっただろう。


 おれは悪霊の愛娘に同情していた。父親の、それもあの悪霊の愛情をたっぷり注がれているのだから、羨ましくもあるのだが、母親があれだ。可哀そうだ。


 可哀そうだが、おれは悪霊の愛娘が苦手だ。彼女はおれが生まれて初めて出会った赤ん坊だった。赤ん坊は不思議だ。まったくもって、出鱈目で規格外だ。


 悪霊の愛娘は可愛い。おれが知る限り、一番可愛い。


 黒々とした髪は天使のような巻き毛で、瞳は黒真珠のように神秘的。熟し始めた桃のように、ほんのり染まったほっぺたはマシュマロの柔らかさだろう。

 可愛い子だ。可愛いのだが、彼女は意味不明だ。行動が突飛で、ついていけない。


 まず、言葉が喋れない。あー、だのうー、だの、言っている。おむつをつけて膨らんだお尻でぺたんと座り、独り言のように呟いている時は良い。放っておけば良いのだ。


 困るのは、ベビーベッドの柵に、小さな手で捕まって、ゆらゆらと浮草のように立ち上がった彼女が、大きな目をまんまるのどんぐりみたいにして、おれを見上げたときだ。彼女は体全体でおれを仰ぎ見て、何か話しかけてくる。あー、とかうー、とか言って。おれが戸惑っていると、大きな声で、がおー! と叫ぶ。


 彼女はおれを混乱させる。


 がおーってなんだ。おれを威嚇しているのか? 出ていけってことか? それにしては、面白がって、にやにやしているように見えるぞ。おれを弄んでいるのか? そうかと思いきや、おれが近寄ると、火がついたみたいに泣きだすことがある。なんなんだ。わからん。


 訳が分からない。わからないが、ペースを乱されることは確かだ。彼女がいると、どうしても、彼女に注意を奪われる。仕事の妨げになる。出来れば、あまり関わり合いになりたくない。


 だが、相手は悪霊が目にいれても痛くないくらい溺愛している、彼の愛娘だ。機嫌を損ねたら、悪霊の機嫌まで損ねかねない。ちょっとしたお喋りには付き合うべきだ。だが、何が言いたいのか、さっぱりわからない。


 おれが途方に暮れて立ち尽くすと、悪霊の娘は腹を立てる。動物園の猿みたいに、柵を掴んで、体を揺さぶりながら、きぃきぃ喚き散らす。何を言っているのか不明だが、不興を買ってしまったことは間違いないので、おれは謝るしかない。


 深深と腰を折り、謝罪を重ねるおれの姿を見るに見かねて、無口なナニーが教えてくれた。悪霊の娘がああ、だぁ、うう、ぶうと言っているのは、赤ん坊の言葉で、喃語というらしい。


 おれはナニーに喃語を習おうとした。だが、ナニーは教えてくれなかった。ケチを言っているのかと勘繰ったが、ナニーは頭を振った。喃語は赤ん坊にしかわからない言葉だから、教えるのは無理だと言う。


 おれは納得できなかった。おれはナニーが悪霊の愛娘の要求にこたえて、オモチャをとってやったり、取り換えてやったりするのを見たことがある。悪霊も、愛娘の求めに応じて、まるでよく躾けられた馬のように、彼女を何処へでも運んでいた。


 それを指摘すると、ナニーは厳めしい無表情を、ほんの少し綻ばせた。


「わかっているのではなくて、なんとなく伝わってくるんです。あなたにも、わかるようになります。毎日、お嬢様のお喋りにお付き合いしているんですもの」


 おれは黙り込んだ。おれは毎日、真剣だ。悪霊の愛娘の言葉を理解しようと、真剣につとめている。それでもいまだにわからない。


 理屈じゃありませんよ、とナニーは苦笑した。


「大丈夫です。そのうち、お嬢様が言葉を覚えられますから。子供はあっという間に成長するものなんですよ」


 そう言って、ナニーはオモチャがぎっしり詰まった箱から、ラッパのオモチャを取り出した。ぶぅぶぅと不機嫌そうに唸る悪霊の愛娘に、手渡す。ほんのりとアーモンドの香りがする痩せた手から玩具を受けとると、悪霊の愛娘はぱっと、花咲くように笑顔になった。ラッパを高らかに吹き鳴らし、大喜びではしゃいでいる。ナニーはその様子を、しずかに見守っている。


 ナニーの仕事は悪霊の娘の子守だ。見守ることも仕事のうちだ。だが、おれは遠巻きに傍観していても仕方がない。おれは仕事に戻った。


 春も終わりにさしかかったある日のこと。おれは自室で目を醒ました。夜の哨戒を先輩と交代し、一時間の仮眠をとっていた。

 おれに目覚まし時計は必要ない。起床時間は体が覚えている。時間になると、すっと瞼が持ち上がり、そのまま体が起き上がる。惰眠とは無縁だ。


 ところが、その朝、おれの目覚めは自発的なものではなかった。ガァガァとけたたましいカラスの鳴き声に起こされたのだ。


 おれは唸った。先輩たちが寝起きに不機嫌になるのは、目覚まし時計に頼っているせいだと確信する。


 おれは恨めしい気持ちで、カーテンをひいて開けた。苛々するままに乱暴に引っ張ると、カーテンが外れてしまうので、力加減はする。


 おれの部屋は屋敷から迫り出したところにある。見張り台のようなものだ。屋敷の敷地はぐるりと剣状柵に囲まれており、その内側に、背の高い木々が沿うように生い茂っている。

 おれの部屋の窓の、ちょうど真ん前にも、ひょろりとのっぽな木が生えている。二羽のカラスが、その樹冠と地上を行ったり来たりしていた。


 注意深く観察してみると、カラスは樹上で器用に小枝を組んでいる。

 何をしているのか分からなかった。その日、哨戒中に顔を合わせたナニーに訊ねてみる。ナニーによれば、カラスのつがいが、樹上にせっせと営巣しているのだろう、とのことだった。

 巣が完成したら、そこにチョコミントのアイスクリームみたいな卵をころころ産むらしい。そのうち、卵から元気な雛鳥が孵るのだ。


 それを想像すると、おれはうきうきした。この窓辺は特等席だ。微笑ましいカラスの親子を、おれはここからこっそり見守ることが出来る。とても楽しみだ。

 おれは気分で表情を変えないでいられる。その筈なのだが、ナニーはおれが浮足立っていることを察していた。くすくす笑って、おれに忠告した。


「子育てをしている間、カラスは攻撃的になります。巣に近寄っちゃいけませんよ。もしも、雛が樹の下に落ちてしまっていても、無防備に拾いに行ったら、上から蹴られてしまいます。どうしても助けに行きたかったら、傘をさして行ってください。カラスは背後に回り込んで襲ってきますよ」


 ナニーは詳しかった。なんでも、彼女の子供が小さい頃に、樹の下に落っこちたカラスの雛を助けようとして、カラスに蹴られ、怪我をして泣いて帰ってきたことがあるらしい。


「あの子は父親に似て、体格に恵まれていました。大人になれたら、あなたみたいに、逞しく成長してくれたんじゃないかしら」


 そう語ったナニーは、遠くかすむような眼差しで、ご機嫌でお喋りする、悪霊の娘を見詰めていた。


 ナニーにはこどもがいたらしい。過去形だ。大人にはなれなかったのだろう。


 おれは、ナニーが凍りついたように無表情でいる理由がわかった気がした。あまりに悲しい出来事に見舞われたせいで、そこから進めないでいるのだ。


 おれは出来るだけ、ナニーには親切にすることに決めた。子供を愛する母親は、みんな良い人だ。親切にされるべきだ。


 カラスの親子を見守るという、ちょっとした楽しみを見つけたおれは、けれど浮かれることはなく、いつも通り、精力的に仕事に打ち込んだ。屋敷のすべての部屋に、ずかずかと入って行って、見回る。


 しばらくして、番のカラスは無事に営巣を終えた。もう、卵を産んでいるかもしれない。もしかしたら、もう、孵っているかもしれない。おれはナニーと顔を合わせるたびに、短い話をした。その話題はもっぱらカラスのことだった。おれは楽しかった。ナニーは付き合ってくれた。だが、もしかしたら退屈だったのかもしれない。上の空でいることが多かった。


 その日は、朝からカラスたちが騒がしかった。カーテンを開けたとき、カラスが猫を追い回しているのを見かけた。おれは、勇猛果敢なカラスに、そっと、ご苦労さんと、声をかける。

 カラスも見張りを頑張っている。おれも今日も一日、頑張ろう。


 悪霊の娘と出会って、いくらかの月日が流れていた。ナニーが言った通り、悪霊の娘は言葉を覚え始めている。だが、それにしても、八割以上が未だに喃語なので、相変わらず、意思疎通をはかるのは不可能だ。


 だからおれは、子供部屋に行くのが少しだけ、気が重い。でも、あそこに行けばナニーに会える。ナニーはおれの、気の置けないたったひとりの話し相手だ。それにしても、悪霊の愛娘のことを考えると、やっぱり気が重い。


 今日もまた、悪霊の娘に絡まれるだろうか。頭を下げすぎないように、気をつけなきゃならない。涎でべたべたの手に髪を引っ張られるのは嫌だ。この前、それをやられて、ごっそり髪が抜けた。


 げんなりしながら、子供部屋に見回りに入ったおれは、そこで侵入者と遭遇した。


 まず目に入ったのは、風に翻るレースのカーテンだ。いつもは閉ざされている上げ下げ窓が、ほんの少しだけ開いている。侵入者は、ひとなら頭が引っ掛かってしまう、狭い隙間から入って来たのだ。


 侵入者は、灰色の猫だった。今朝、カラスに追われていた奴だろう。カラスの巣にちょっかいを出すだけでは飽き足らず、悪霊の娘にもちょっかいを出しにきたらしい。


 ベビーベッドの淵の上で、絶妙のバランスをとっている。靭な体を前のめりにして、頭をさげていた。ベビーベッドの柵につかまり、爪先立ちになって手を伸ばす、悪霊の愛娘を見下ろしているのだ。ピンク色の鼻をひくひくさせ、甘い匂いがする小さな手の匂いを嗅いでいた。


 悪霊の娘は、求めてやまない猫の頭が近付いてきたことに歓喜して大声を上げた。猫がびくりと竦む。悪霊の愛娘が考えなしに振り回した手が、猫のひげを掠める。猫は反射的に、鋭い爪をもつ前足をくりだした。


 おれは考えるよりも、素早く動いた。ベビーベッドに突進する。悪霊の愛娘が引っ掻かれる前に、おれは猫を摘み上げた。驚き身を捩って暴れる猫の抵抗を無視して、おれはずんずんと大股でベビーベッドから遠ざかる。背後から、悪霊の愛娘の、不満そうなうめき声が聞こえたが、これも無視させて貰う。

 猫を摘まみだすのが先決だ。


 もしも、悪霊の愛娘を傷つけようとした狼藉者が人だったら、摘まみだして済む問題じゃない。悪霊に差し出さなければならない。だが、この悪戯ものは猫だ。自分で窓を開けることも出来ない。摘まみだせば済む。


 おれは上窓をさらに持ち上げた。ここは二階だが、下はふかふかの芝生だし、猫ならば、ひらりと華麗に着地出来る筈だ。おれはぽいっと猫を落とした。その瞬間に背後で、癇癪玉が破裂した。


「みゃーお! やー、やーあ! みゃーおぅ……うぇぇぇ!」


 おれははっとして振り返った。悪霊の愛娘は、柵の隙間から一部始終を見ていた。おれが猫を捨ててしまったから、お冠なのだ。顔を真っ赤にして、声を張り上げて泣いている。

 みゃーおとは、猫のことだった筈。彼女は猫を遊び相手だと思っていて、それを取り上げたおれを怒っているのだ。


 おれはたじろいだ。窓を閉じるのも忘れて、悪霊の娘に歩み寄る。ベビーベッドの傍らで跪き、無駄だとわかっていながら、弁解をした。


「申し訳ありません。ですが、あの猫……お嬢様と仲良くするつもりはなかったと思います」


 おれは正論を述べたわけだが、悪霊の娘にそんなものは通用しない。おれの言葉には耳をかさず、彼女は罅割れた声で泣き喚き、おれを糾弾する。


 おれは途方に暮れた。収拾がつかない。ナニーを呼んだ方が良い。


 そこで、おれははたと気がついた。ナニーが傍にいないのはおかしい。悪霊の娘の傍を片時もはなれてはいけないのに。窓を開けっ放しにして、何処へ行ってしまったのだろう。


 おれは部屋中を見回した。猫が怖くて、隠れているのかと思ったけれど、見つからない。

 おれは悪霊の娘から目をはなさずに、部屋中を調べ回った。物陰を調べ、タンスの抽斗もすべて引いた。どこにもいない。


 ううむ、と悩んでしまう。ふっと落とした視線の先に、小さなダストボックスが置かれている。おれは目を見開いた。


 ダストボックスの中で、小さなものが息絶えている。腫れぼったい目、小さな嘴。小さな小さな、鳥のヒナのように見える。血まみれで、紙屑に埋もれている。


 おれは愕然とした。思考が完全に停止していた。そんなおれの背後で、大きな羽ばたきの音と、それを上回る、大きなカラスの鳴き声がした。ガァガァと、低くひび割れた、怒りと悲しみの叫びに聞こえた。



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