半端者は仕事にせいをだす
悪霊とその家族が住まう屋敷は、悪霊の巣と呼ぶに相応しい威容を誇っていた。暗い影が浮き上がったかのようだ。
「お前をファミリーに迎えるにあたって、伝えておかなきゃならんことがある」
屋敷の影に飲み込まれ、ぽかんと口を開けるおれの間抜け面を覗き込み、悪霊は言った。
「俺は、それほど怒りっぽくはない。ただ、どうしても我慢ならんものが、三つある。一つ目はバカ。二つ目は身勝手。三つ目は嘘だ。それらはファミリーを脅かす。裏切りにもつながる。俺は、裏切り者には一切の情けをかけない。いいな?」
それはそうだ。おれがこっくりと頷くと、悪霊は鋭い瞳を隠すように目を細めた。俺に肩に、親しげに腕を回す。耳元でこっそりと囁きかけた。
「実を言うと、お前に限っては、ちっとも心配しちゃいねぇ。皆の手前、言っておかにゃならんのだ。気を悪くするなよ? 頼りにしてるぜ、ブルース」
その言葉の真偽を確かめる術は、おれにはない。嘘でもいい。おれはその嘘の為に、命をかけられる。彼の頭がいかれていても、傲慢で傍若無人でも、息をするように嘘をついても、おれは彼に従う。
おれは、悪霊の身辺警護を任された。重要視されるのは、警戒と危険予知だ。
これまでにおれに課せられてきた仕事はどれも、単調な繰り返し作業だった。苦痛を紡ぎだし、恐怖を糾い、命を絶つ。殺しを魅せる。それにかけては、ちょっとしたものだと自負している。
ところが、培ってきた経験は、たいして活かせそうにない。
悪霊はおれの映画を観て、おれを見込んでくれたと言うから、おいおい、必要になってくるかもしれないが。
とにもかくにも、悪霊は番犬にする為におれを買ったのだ。一日も早く、一人前にならなければならない。ここで護衛の任につく黒服の誰よりも、悪霊の役に立って見せる。
おれは悪霊と行動を共にする。悪霊と共に屋敷に戻れば、屋敷中を哨戒する。悪霊に関わる全ての人間の挙動に目を光らせた。
おれが警戒するのは、見知らぬ侵入者だけではない。顔見知りが、悪霊とその家族に危害を加える可能性がある。むしろ悪霊は、後者に危機感をもっているようだ。
実際のところ、悪霊の懐に飛び込み、彼の根首をかこうとする不届き者は後を絶たない。おれは、そんな連中をいち早く見つけ出し、生け捕りにして、悪霊に差し出す。その都度、悪霊は、大袈裟におれを誉め称える。彼の言葉の半分以上は、虚飾なのだろう。おれをおだてて、良い気分にさせようとしているのだ。悪霊は本心から「お前だけが頼りだ」とは思っていない。先輩たちが、常時おれを監視している。
それで良い。彼はおれの支配者だ。おれを好きなようにすればいい。利用すればいい。少なくとも、彼がおれのことを「特別に役に立つ犬」だと認識してくれていることは、間違いないのだから。
おれは現実を知っている。身の程を弁えている。悪霊に愛されるなんて、夢のまた夢だ。
悪霊は、彼を頂点に戴くおれたちのことを家族と呼ぶが、それはただのリップサービス。彼にとって、本当に大切な家族は、たった二人きり。美人の奥方と、天使のように愛らしい娘だけだ。
奥方は、さながら捕らわれの美姫のようだ。いつ見ても、びくびくと身を竦ませている。ヘーゼルの瞳は潤んでおり、引き攣った頬には涙のあとがある。
奥方の悲壮感が、おれには不思議だった。奥方が悪霊に怯える理由が見当たらない。悪霊は敵対者には容赦しない。だが、決して粗暴ではない。悪霊が声を荒げたり、当たり散らしたりするところを、おれは見たことがない。彼は超然とした体を崩さない。いつも機嫌良く、陽気に微笑んでいる。女主人である奥方から、下っ端の女中に至るまで、彼は柔らかな物腰で接する。下品な冗句を好むところにさえ目を瞑れば、紳士的と言えるだろう。
それでも、奥方は悪霊が恐ろしくて堪らないようだった。
奥方は、敵対者を無慈悲に断罪する悪霊が怖いのだろうか。いつか、自分もああなるのではないかと、怯えているのだろうか。
だとしたら、見当違いも甚だしい。悪霊は奥方にぞっこんだ。彼女を見る目が、違う。全面に押し出された嘲りに覆われて、見えにくいかもしれないが、注意深く覗きこめば、隠された熱情に気が付ける筈なのだ。
「あれの涙は罪だ。見れば子羊でも、あれを甚振らずにはおられん」
悪霊の言うとおり。奥方は、綺麗でか弱い女だ。愛される女だ。おれが逆立ちしたって、ああはなれない。
***
おれは先輩たちとの折り合いが悪い。たぶん、おれが先輩たちを軽蔑していることを、隠さないからだろう。先輩たちから、学べることはそう多くはなかった。おれに言わせれば、先輩たちは消極的過ぎる。彼らは悪霊を恐れていた。だから、積極的に踏み込めない。決められたコースを哨戒するだけだ。まるで、秒針に追われレールの上を規則正しく走る列車のように。
おれは悪霊の巣において、最も熱心な護衛だ。不審に思えば、何処へでもずかずかと踏み入る。たとえ悪霊夫婦の私室だろうと。一度、奥方の着替え中に闖入してしまったこともあった。奥方はいつも、泣きだしそうに顰めている眉を吊り上げ「この無礼者!」と言わんばかりの形相でシェードを投げつけてきた。おれはキャッチしたシェードを元の位置に戻し、漏れなく部屋中を見て回ってから、一礼して辞した。
奥方は怒っていたが、おれは少しも悪びれなかった。これがおれの仕事だ。おれは屋敷中に目を光らせる。悪霊が大切にしている奥方や愛娘に、万が一のことがあってはならない。
悪霊も、そんな些細なことで、職務に忠実なおれを責めはしない。報告を済ませると、悪霊はからからと笑った。
「驚いただろ? 最近はめそめそ泣いてばかりだが、あれは本来、高飛車なお姫様なのさ。……で? どうだった?」
にやにや笑う悪霊の意図がつかめない。おれが困惑していると、悪霊は唇の両端をぐいっと吊り上げ、作り物の白い歯を見せた。
「あれの裸を見たんだろ? 俺の女房は良い女だぜ。美人でスタイルも抜群だ。とても一児の母親には見えんだろう。興奮したか、ええ?」
おれは素直に頭を振った。奥方は美人で、スタイルも抜群だ。しかし、良い女だとは思えない。一児の母親には見えない、という意見には同意出来るが。おれの知っている母親は、ああじゃない。愛娘にちっとも寄りつかないで、ひとりでしくしく泣いてばかりいる薄情な女は、母親じゃない。
悪霊はおれをまじまじと見つめる。悪霊の熱視線に堪えかねたおれが頬を赤らめると、悪霊は呆れ顔で天井を仰いだ。
「お前の美意識は理解出来ねぇ。俺自身、この醜男が映る鏡を割っちまいたくなるってのによ」
悪霊には謎が多い。一緒に過ごせば過ごすほど、謎めいて行く。目を凝らして見つめていても、いつのまにか容を変えている雲のようだ。彼はいつも上機嫌で、自信に満ち溢れている。だがおれは時々、彼はいつも不機嫌で、コンプレックスの塊なんじゃないかと、思うことがある。
そうして、彼がそのような、彼らしからぬ一面を垣間見せるのは、決まって、奥方に関わっている時だ。
業務報告を終えたおれが自室へ引き取ろうとしているところで、先輩の一人に呼び止められた。先輩は、おれが傷一つない体で戻ってきたことに、びっくり仰天していた。先輩たちは、妻の裸を見られて、怒り狂った悪霊がおれを嬲り殺しにすると、思いこんでいたらしい。
悪霊は奥方に色目を使う男を許さない。奥方の艶美の虜にされた愚物の末路は、ろくなものじゃない。
おれがそうならなかったことで、先輩は目に見えて落胆していた。
先輩たちにとって、おれは目の上のたんこぶだ。ぽっと出の若造が重用されているのは、面白くないのだろう。
そんなことはどうでもいい。悪霊がおれの才能を喜んでくれれば、それで。
悪霊はおれの心が読める。だから、おれが奥方に塵ほどの魅力を感じていないことがわかる。ありもしない嫌疑をかけられない。悪霊の才能はありがたい。
だが、困ったことがある。悪霊は、おれの欲望をも見通してしまう。その上、おれは性的興奮を制御する術をもたなかった。
おれは悪霊に惹かれている。向かい合っているだけで、下半身の欲望が破裂してしまうこともある。
おれが粗相をすると、悪霊は昂然と罰を与えた。悪霊の躾は厳しかった。だが、悪霊の意志で鞭打たれ、殴打され、切り刻まれると、嫌いだった筈の痛みが心地良く、エクスタシーを得ることもある。
なおさらひどく折檻されても、性的な昂揚は冷めない。悪霊がその場に居合わせ無くても、彼の意思が己を嬲っていると考えると、堪らなくなる。
悪霊は、いち早くそれを見抜いた。そうして、おれの目の前で屹然と溜息をついて、ぼやいた。
「弱っちまったな。ブルース、お前はたいした奴だ。だが、今のままじゃあ、うちに上げられねぇ。盛りのついたワン公なんぞ、可愛い娘の目には入れられんのだ。なぁ、おい。おれは判断を誤ったか? お前は良い番犬になると思ったんだが」
悪霊の憂いと失望は、おれの心臓を撃ち抜いた。
悪霊の躾の手腕は確かだ。彼は必ず正解に辿り着く。おれの心が読めるのだ。
おれは叙叙に、性的欲求を制御できるようになった。下半身が暴走することは少なくなった。
悪霊はおれの成長を、手放しで喜んでくれた。
「これでまた、お前をうちに迎えられる」
悪霊は破顔一笑し、おれを拘束衣から解放した。おれは仕事に戻った。おれは悪霊のすぐ傍にいる。