半端者は悪霊の虜になった
暴力描写、グロテスクな表現が含まれます。
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大人たちは影に隠れて彼のことを『悪霊』と呼んでいた。人を輪切りにするのが大好きな、血に飢えた悪霊だと、彼を恐れていた。
彼は遠いアメリカからはるばる、おれに会う為にやって来たんだとか。彼の言葉を真に受けて、有頂天になるおれ。いや、リップサービスだったとしても、おれは有頂天にならずにはいられない。
悪霊はおれを、生れ育った国から連れ出した。俺は空を飛んで、海を越えた。飛行機の丸い窓から見下ろした大陸は、極彩色に輝いていた。タラップで立ち尽くすおれの肩を軽く叩いて、悪霊はにこやかに言った。
「いい国だぜ。陽気で、野蛮で、あけっぴろげで。ここじゃ、誰でも夢を見られる。お前も良い夢を見ろ」
この国は、おれの故郷とは違った。まるで異世界に誘われてきたようだ。どこもかしこも騒々しく、みんなちっともじっとしていない。膨大なエネルギーを帯びた光の玉が、目まぐるしく動き回り、ぶつかり合っている。おれは目を回した。
そこから先は車で移動した。おれはふかふかのリクライニングシートの上で、かちんこちんに固まっている。悪霊は背もたれに深くもたれ、象のような足を、無理をして組んでいる。おれは彼を直視できない。
不格好で、だらしない。脂の滴るような醜い笑顔。それなのに、美しいと想わせるこのひとは、規格外だ。いつどの瞬間をきりとっても、完璧に美しい。
悪霊は仄かな笑みを湛えておれを見つめている。目が合うと、不思議な双眸を細めてにっこりする。おれの心臓はいまにも破裂しそうだ。
「犬を買ったつもりだったが……お前はまるでバカデカイ蝙蝠野郎だな」
悪霊は俺を繁々と眺めていたかと思うと、突然、ぽんと手を打った。
「決めた、お前の名前はブルースにしよう! お似合いだぜ、色男。気に入ったろ? なぁ、バッツィ?」
何がおかしいのかは分からなかったが、悪霊がとても愉快そうに大笑いしている。けたたましい笑声が遠かった。俺はぼんやりとしていた。感動の奔流があまりに激しくて、おれの意識はぽつねんと、更地に取り残されていた。
ブルース。俺の名前。シリアルナンバーじゃない。俺の名前。でも、バッツィってなんだ?
悪霊の傍には黒服を着た厳つい男が大勢いて、悪霊をぐるりと取り囲んでいる。物々しく物騒で、空気がぴんと張り詰めている。これから殺し合いでも始まるのだろうかと、おれが思ったくらいだ。
結局は、何事もなく目的地に到着した。そこには、たくさんの黒服たちが待ち構えていた。
その中で、最も偉そうで、最も馴れ馴れしい髭面の男が、前に進み出る。
悪霊は両腕を広げて、朗らかに笑った。
「トニー! 留守番、御苦労さん。土産はどっさり買ってきたぜ。サンタ・マリア・ノヴェッラの石鹸やらハンドクリームやらの詰め合わせだ。奥さんにやれ。アーモンドの良い香りがして、思わずキスしたくなるぞ。坊主が弟か妹を欲しがってんだろ?」
「妻を寄り道の口実にしないで欲しいもんだ」
トニーとかいう髭面はあからさまに眉を潜めると、悪霊の懐に踏み込み、ぼこぼこと泡立つ頬に軽くキスをした。それが儀礼的な所作だと知らなかったから、おれはつい、目の色を変える。
刺すようなおれの視線に気が付いたトニーは、気味が悪いと言わんばかりに俺をちらりと見た。
「この可愛げのねぇクソガキが、お前さんがご執心の『神童』か。東欧のどこだかにわざわざ出向いて行って、買い付けたとか言う」
「ちょっとしたモンだろ?」
「まぁな。このふてぶてしさ。とてもじゃないが、乳臭ぇティーンには思えんよ」
悪霊は少し仰け反り、からからと豪快に笑った。
「無愛想ですまんな。なんせ、ブリーダーから引き取ってきたばかりだ。挨拶は愚か、トイレの躾もこれからさ」
「邸に置くつもりだとか?」
トニーが訊く。悪霊は右手の甲で軽く哄笑の残滓を拭ってから、応えた。
「ゆくゆくは。番犬を繋ぎ飼いにしたって、しょうがなかろう」
「正気か? 邸には奥方と、生れたばかりのお嬢ちゃんがいるんだぞ」
「そりゃあ、いるだろうさ。俺の居ぬ間に余所に逃げてたら、驚天動地の大騒ぎだ。それこそ、正気じゃいられんよ。なぁ、トニー。娘はいいぞ。すごく可愛い。娘が生まれりゃ、お前にもわかるさ」
悪霊は冗談めかして笑い飛ばす。物言いたげなトニーが口を開く隙を与えずに、悪霊は明朗な声調で言った。
「なぁに、危険はない。いつか言ったことがあっただろ? 俺には人の心が読めるんだ。こいつはな、俺に首ったけだぜ!」
そう言って、悪霊が俺の肩にずっしりと重い腕を回す。物思いに耽っていた俺は、虚をつかれてどきまぎした。悪霊はにやりとする。
「これから、もっと夢中にさせてやる予定だ。俺なしの人生が、考えられなくなる程度には」
トニーをはじめとする黒服たちは、なんて軽はずみな真似をするのか、という非難の目を悪霊に向けていた。どうやら、黒服たちはおれが悪霊にいつ噛みつくかわかったものじゃないと、考えているらしい。
どいつもこいつも、わかっちゃいない。おれ自身を含めてな。わかっているのは、悪霊だけだ。
おれが悪霊に噛みつくことはあり得ない。なぜなのだろうか。おれは悪霊に逆らえない。悪霊が言った通り、おれは既に、彼の不思議な魅力の虜にされた。
悪霊は本当に、人の心が読めるのかもしれない。おれは悪霊に娘がいると知って、かなり動揺していたのだが、こうして肩を抱かれると、逆上せあがって何も考えられなくなった。もう、なんでもいい。このひとのもとにいられるのなら、なんだっていい。
トニーは渋面をつくると、頭を振り、屹然と溜息をついた。
「それなら、俺の心もしっかり読んでくれ。あんたが呼吸するように無茶をやらかすから、俺の心には平安が訪れない」
「わかっていてやってるんだ。お前は世話好きだからな」
「……勘弁してくれ」
悪霊は大笑いしている。おれは彼の醜くも眩い笑顔に魅入っていた。
そうして、気が付いたら、地下牢に放り込まれていた。
苦痛に満ちた生活が始まった。俺は彼の手下どもから、あらゆる責め苦を受けた。地下牢には、その為の道具が揃っている。どれもこれも、手入れが行き届き、使いこまれている。狙い通りの苦痛を、対象に与えることが出来るだろう。
悪霊の手下たちの手際は良い。拷問のプロだ。男たちが腕をふるうのは、俺の為だけではなかった。
爪の間に針を差し込まれ、爪を剥がされながら、俺は苦悶していた。苦痛の為ではない。何処からともなく、絶叫が聞こえるからだ。重なり合う、断末魔。それらが、おれを焦らせる。
ここは悪霊の屋敷だ。ここで行われる行為は悪霊の意志によるものだ。
おれだけではない。
悪霊の意志で甚振られているのは、おれだけではない。
エタノールを塗られた無防備な下腹部に点火されて、喉が張裂けるような悲鳴を上げている男は、歯茎をドリルで抉られて血と悲鳴を噴出させている男は、はたして、愚かな敵対者だろうか。もしや、おれと同じように、悪霊に目をかけられ「調教」を受けている「犬候補」ではなかろうか。
手下の男たちが施す「調教」と「拷問」の境界線は非常に曖昧で、おれには判断がつかない。だからこそ、焦るのだ。
競合相手がいるかもしれない。出しぬかれたら、おれはお役御免となるかもしれない。殺されるのか、捨てられるのか。どちらも、絶対に嫌だ。
しかし、どうすればいいのか、わからない。手下の男たちは、おれに何を要求するでもなく、ひたすら、呵責に血道をあげている。
おれは悪霊の真意をつかめぬまま、おれはただひたすら、無抵抗に徹し、耐えるしかなかった。
その判断は、正解だった。
「よう、バッツィ。俺の良い子ちゃん。元気か?」
悪霊が地下に降りて来た。最初は夢かと思った。それほどに、恋しかったのだ。
呆気にとられながらも、首肯で堪える。口腔がずたずたで、話せなかった。
「そうかいそうかい、元気かい。ははっ、流石にタフだな」
悪霊はぷっと吹きだした。可笑しくて堪らないようだった。
「見てたぜ、お前のガッツ。開口具の世話にならず、麻酔無しに親知らずを穿り出される奴が、この世にいるとは思わなかった。やるじゃねぇか」
悪霊は手下に指図をして、おれを地下牢から連れ出した。清潔な寝台に寝かされたおれは、手厚く介抱された。当惑するおれを見下ろして、悪霊はにっこりした。
「グッド・ボーイ。お前こそ、俺の犬にふさわしい」
悪霊は毎日、見舞いに来てくれた。その度に「お前は特別だ」と彼は繰り返し言った。
やはり、悪霊にはおれの心が読めるのだ。彼が口にする「特別」という言葉が、おれの心にどのような効果を、どれ程もたらすのか。彼は正確に把握している。
おれは試練に勝った。おれはまた勝ち取ったのだ。
おれは女の子ではない。おれは強く、怖い。おれは愛される人間ではない。
悪霊はおれより強い男だ。だからと言って、彼に愛されることはないだろう。それはむなしい期待だ。叶わぬ願いだ。
だが、だからこそ、おれは悪霊の犬に抜擢された。おれは選ばれた。おれは特別な人間だ。