迎冬
某SNSサイト内、小説サークルにて投稿
テーマ『冬支度』
暗くなり始めた窓の外を眺めて、美奈は小さく口ずさむ。
「何? 歌?」
年の離れたパートナー、遺伝子研究者の結が美奈の肩を抱き寄せて聞いた。
「大学で教えてもらったの。昔の歌ですって」
振り返りもせず淡々と答えられて、結は眉間に皺を寄せた。
「最近の大学はそんな事も教えるの」
不機嫌そうな声色にやっと美奈は振り向いた。
「三枝さんが教えてくれたの。講義じゃないわ」
同じサークルの人だと聞かされていた女性の名前を出されて、結が眉間の皺を深くする。
「彼女の趣味ってこと?」
「さぁ? 三枝さんが歌っていたから、なんて歌なのか聞いたら教えてくれたの」
「暗い曲ね」
美奈は困ったように微笑みながら「そうね」と答えてまた視線を窓の外に移した。
結は抱きしめる腕に力を込めながら少しだけ溜息を吐いて、「もういいわ」と呟きながら首を振る。
「そんな事より、あの件は本当に受けなくていいの?」
ぴくりと肩を震わせて、美奈が瞳を閉じる。
「ごめんなさい」
「いいわ」
重くなりかけた空気を振り払うように、結は努めて明るい声を上げた。
「美奈に無理はさせたくないもの。
種を受けるのは私一人にしましょう。
私達結婚しているのだもの、何も問題はないでしょう」
「ごめんなさい……」
繰り返し謝る美奈の唇を、結は自分の唇で塞いだ。
直接の原因が何だったのかは未だ究明されていない。
ともあれ、ある時期を境にこの世界から《男》という種は消えた。
残された女達は急ぎ、今まで男に預けていた政を自ら立ち上げ直し、事の究明に急いだが結果は芳しくなかった。
かろうじて残されていた冷凍種子を、受け取るに相応しい健康な女達を厳選し処置を施したが、生きて産声をあげたのは女児ばかり。事態は悪化の一路を転がり続けた。
その中で、更に追い打ちをかけるが如く世界は激変した。
「とうとう政府が氷河期宣言を出したわね」
大学のカフェでランチを食べていたさなか、三枝から声をかけられて美奈は「どうぞ」と隣の椅子を引いた。
「計画も早まるのかしら」
「移住計画? 来月の予定だったけれど、一週間ほど早まる可能性はあるそうね」
男達がまだ健在だった時代に進められていた、宇宙コロニー移住計画。
男女間に圧倒的な差があった技術力の差は長い年月のうちに縮まり、既に同等となっていたこの時代。世界の温暖化から始まり異常気象が続けて繰り返されるうちに懸念されていた氷河期再来への対策は、男が消えた世の中でも着々と進められていた。
「私達、とうとう宇宙に出るのね」
ぼんやりと呟いた美奈に
「怖いの?」
三枝がからかうように聞く。
「少し。三枝さんは怖くないの?」
「私には移住の権利がないもの。怖い怖くない以前の問題だわ」
「え?」
三枝が、くすりと笑った。
「全人類がシャトルに乗れるとでも思っていたの?」
「だって」
「まぁいいわ。
そんな事より、コロニーでは染色体操作で男児を造る研究も始まるらしいから、貴女もいつか男児に恵まれる事を祈っててあげる」
そう言い残して、美奈の胸内に疑問だけを残して三枝はカフェを後にした。
―― 移住権利って?
その疑問に答えをくれたのは結だった。
「美奈には必要ない問題だから黙っていたのに」
要らない事を教えて、と、顔も知らない三枝に腹をたてる。
種を受け入れるには完全な健康体でなければならない。
氷河期を迎えた世界を棄てて、繁殖と続く繁栄を求めて実行される移住計画だ。
三枝は染色体異常の診断を下され、移住はおろか種の受け入れ権利すらない、最下層の存在なのだと教えられた。
「だったら私にも権利はないはずよ」
度重なる診断で健康体である証明をもらいながらも、種を体に植えられ子を生す現実を受け入れられない、精神的問題にひっかかるはずだと訴える。が、結がにっこりと微笑んだ。
「権利ならあるわ。美奈は私のパートナーだもの。
女が独りで子供を産んで育てる事の精神的負担が問題になっている事は知っているでしょう?
だから移住計画には、結婚している事が条件でもあるのよ」
「……でも」
曖昧なままに疑問を打ち切られる事を避けようと言葉を探す美奈を、きつく抱き寄せ結は彼女の白いうなじに唇を這わせた。
「もうこの話は終わりよ。
あと一回、最後の検査を受ければ私達、宙に行くのよ」
しかしそれは叶わなかった。
最後の検査で美奈の異常が発見されてしまった。
何故?
今まで何十回と検査を受けてきたのに?
気も狂うほど荒れ狂う結とはうらはらに、美奈は穏やかにその結果を受け入れる事ができた。
その穏やかさに
「私を愛していなかったの? だからこんな事になっても平気でいられるのね?」
「私はこんなに美奈を愛して、大学にまで行かせてあげたのに!」
美奈は目を逸らし、「ごめんなさい」と呟いたきり口を噤んだ。
知ってしまったのだ。
最後の検査だから、「全てがうまくいきますように」と祝福の言葉をくれた三枝に異常が発見されて権利を失ってしまった事を報告した時に、返す言葉で知らされた。
移住する女は全員が種を受け入れる規則になっているのだと。
拒否は許されない。繁殖の為に僅かでも可能性漏らす事は許されない。
結がその事実を伏せて美奈を説得してきた真実は、彼女の端末を盗み見する事であっさりと知れた。
> コロニーに入ってしまえば逃げる場所もありません。
> ゆっくりと説得します。
移住計画責任者に充てた、消し忘れであろう一文に美奈は自らの命を棄てる事も考えた。
けれど、愛している。
もしかしたら種を避ける事も可能だったのかもしれない。
結が、自分が彼女を愛しているのと同じ重さで愛してくれているのなら。
そう信じてシャトルに乗り込む覚悟を決めた矢先の検査結果に、結と行けなくなってしまった現実よりも、胸で重たかった石がさくっと砕けたような心地よさを感じてしまってむしろ驚いた。
結果、結は遺伝子研究者として単身の移住権利を手に旅立つ事となった。
かつて愛し合った半身との別れを見送る港で、三枝が美奈に声をかけた。
「残念だったわね」
「ええ。でも本当はほっとしているの。
怖かったから……」
もう生きていない男の種を受け入れて、顔も知らない誰かの血を受け継いだ子供を育てるなんて……
「だからきっと、これで良かったのよ」
「そう? 私はちょっと複雑だけどね」
「なぜ?」
「あのシャトル、私も整備に参加したのよ」
本来なら《万が一》の事故に備えて、移住予定者しか関わる事のできない仕事だが、三枝は成績の優秀さが幸いして、整備に携わる権利を得た。
「貴女が乗ると知って、できれば貴女に幸せな未来を掴んで欲しくて、私に手伝える事があるなら……って思ったの」
ずっと、貴女を慕っていたわ……
けれども三枝が美奈と出会った時、彼女には既にパートナーが居た。
想像すらする事のなかった告白を聞かされて言葉も出ない美奈に、三枝は続けた。
「どうしても貴女を諦める事が出来なかったけど、でもそれは叶わないから……」
せめて貴女が愛しい人と添い遂げられるように……
シャトルが宙を目指して爆音を上げる。
瞬間、二人は言葉を止めて厚いガラス窓にへばりつくようにして、上昇してゆく巨大な船を見守る。
船が、灰色の雲の向こう側を目指して橋桁を棄てる。
「彼女は宙へ。私達は地下へ……
氷河期をやり過ごす為の地下都市へ潜るけれど、もうこの世界に種は残っていないから、私たちは滅びる日をただ待つだけの日々になるわね」
繁殖は失われ、残されるのは快楽だけの関係。
「何も産みだす事の出来ない虚無な関係になってしまうでしょうけど、それでもいいと思えるなら……」
三枝は美奈の髪に指を絡めた。
「それでもいいと思えるなら、私と一緒に残りの人生を過ごして欲しい」
告白に戸惑う美奈に
「答えは急がなくていいわ」
にっこりと、微笑んだ。
その微笑む口の端を少しだけ歪めて
―― でもやっぱり、《万が一》の可能性は消しておかないとね ――
美奈の髪に絡めた指と反対の手をコートのポケットに入れて、小さな機械をまさぐる。
それは美奈がこの世界に残ると知って、使う事はないだろうと思いながらも棄てる事のできなかった小さな小さな機械。
厚い雲に覆われた空へ消えたシャトルを、探すように視線で追いながら
「見えなくなっちゃったわね」
呟く美奈に
「そろそろ熱圏を出た頃かしらね」
応えながらポケットの中で、カチリ、と小さくスイッチの入る音を鳴らした。その音に呼応して雲の向こうで広がった惨状は見る事も知ることもできないだろう。
その僅かな機械音を聞き逃さないで振り返った美奈に、訊ねる隙を与えないよう
「美奈さん、私ね、貴女がこうして傍に居てくれることがこんなにも嬉しいなんて思ってもなかったの」
早口でまくしたてた。
「貴女があの人と一緒に船に乗ってしまうと思ったら、苦しくて狂ってしまいそうだったわ、本当は」
「三枝さん?」
「貴女を失わなくて、本当に良かった。
繁殖も未来も何もかも失ってしまうこの世界だけど、貴女が居る、それだけで救われるの」
犯してしまった大いなる贖罪からも。
長い、終焉へと向かう冬が来る。
不毛となった愛だけが、狂わんばかりの世界に取り残された彼女たちの最後の希望、冬装備となる。
~ 了 ~