墨染と欝金
所謂JSDFには、陸海空の三部隊の所属に応じて、制服に各々の色が定められている。
言われてすぐに思い当たるところであれば、海の“白い詰襟”や“黒のダブル”。それにいくらかの遅れを取って、陸のオリーブドラブと、空の紺青。そして戦闘服としてならば、“いわゆる迷彩”、“パイロットスーツ”に一日の長がある。
JSDFから切り離され、また包摂された関係でもあるここ境界警備隊にも、その色は存在する。
それは──濃い灰鼠と言おうか、鉄紺色と言おうか。暗い灰色の中に、何故か潜めた赤色を感じさせる。
伝統色において、その名は墨染。
制服という衣服につきものの重々しさや威圧はもはや充分すぎるほどで、重ねて色合いに込められた意味を知れば、誰もが眉間に皺のひとつも寄せうるであろう。これが何かの拍子に居並ぶ眺めといったら、色自体は決して真っ黒ではないのに、まるで葬式のようなのだ。この世の果ての千定岩を守る──自分たちは果たして、彼岸と此岸のどちらの生きものに分類されるのだろうか。
せっせと、その制服と戦闘服、カッターやスラックスのアイロンに励みながら、聡太は晴れがましさとは無縁の身の上について、溜め息を吐き出したくなる気持ちと懸命に戦っていた。
走って、草を刈って、書類と戦って、装備品の整備に明け暮れて、そしてまた走って、というような日々を送っているらしい同期の現状を聞くにつけ、ますますその思いは募る。お偉方がこの隔離区域の存在意義をいかにきらびやかにぶち上げたところで、結局のところ、自分たちのお役目というのは、突き詰めていけば──肥溜めを引っくり返さず保ち続ける、というものに他ならない。
せめてもの遣り甲斐を求めてしまうのは、こういった保安系の職務に携わる者として、不謹慎だろうか。自負など持たず、いつか元の基地や駐屯地に返り咲ける日を夢見て鬱々と過ごすことこそ──自分を守るための手段なのだろうか。
自分でも、そう考えている己の眦が険しくなっている自覚はあった。しゅう、とアイロンがスチームを吐く。
「……なんでもいいけど神原、考えながらやってるとコゲるぞ」
伸びなかった皺があるでもなしに、もう一度、やるかたない憤懣を散らすようにスチームを浴びせていると、後ろのベッドから声がかかった。『週刊少年ジャンプ』に目から下を隠して、寝転がった姿のまま視線を寄越してくる一人。近藤勝利士長、聡太が宛がわれた隊舎の部屋の、室長という立場にある。
「神原、自分な、どこから来たんだっけか」
「……大津からです」
「そっか、滋賀か。オレ、守山。愛知な。──後で知ったよ、陸は大体、自分の地元へ配属されるんだって」
近藤がここへ遣らされたのは、ちょうど2年前。聡太と、ほぼ同じ時期。1年前は、陸士がやってくることはなかったから、階級的にも年齢的にも“2コ上”になる。そもそも政府指定特別区域に、境界警備隊という曖昧な呼び名でもって勤めさせられる人間は、曹待遇より上の人間が多い。年齢の具体例を挙げれば、20代なかばから後半といったあたりだ。
そして境界警備隊には、元の部隊を離れ、辞令を受け、陸海空の称号を取り上げられた人間以外も、所属している。それはいわゆる更迭措置というやつだ。何らかの不始末が生じた結果、その職を免じて野に放つことも出来ず、さりとて部隊で身柄を預かり続けるにも問題のある人間が、最後の手段で隔離区域の防備に放り込まれてくる。
その経歴たるや、物凄く、そして華々しいものだ。勿論聡太が知っているのは噂レベルの話だから、一概に全てが真実と断じきることは出来ないにせよ、下世話な想像を逞しくするだけの魅力あるキーワードに溢れていた。
いわく。“隼級”のミサイル艇に乗り込んでいた人間がいた。彼らは日本の背の側の海で、船籍不明の“いわゆる不審船”に出くわした。停止を求めたが船は止まらず、よりにもよって大事な大事な“隼級”の横腹に舳先をぶつけられ、正規の手段も理性もぶっ飛んだ彼らは、ブローニング社謹製の12.7mm機関銃でもって一矢を報い、そして撃沈せしめた──これはおそらく、噂に尾鰭のついた結果であろう。仮にも領海を侵犯できるほどの大きさの船ひとつを、12.7mmだけで完膚なきまでに屠り切れるとは残念ながら思えなかった。
いわく。とある航空基地に、パイロットを志す女性自衛官がいた。噂によれば彼女の容貌は超ニミッツ級の麗しさで──“色々とでかかったんですか”という疑問は“美しさの度合いだバカ”と封殺された──、勿論基地内の全員の女神も同然だった。紆余曲折の末、彼女はある整備員を生涯の伴侶に選んだ。そこまでは良かったが、当時の上官は理由ない逆恨みをしたのだそうだ。上官はとんでもない無理を新妻の彼女に迫り、そして結果としてつれなく肘を食らわされた。この場合“肘”というのは断り文句に留まらず、物理的な暴力というレベルへ収斂され、そして彼女は悠々と、夫とともにここへやってきた。
いわく。空挺かレンジャーか、あるいはその両方の称号を持った習志野の猛者がいた。その容貌正に仁王像のごとき彼は、折り合いのあまり良くなかった当時の上司に、家族人格を否定されるような揶揄を向けられた。居合わせた上司の同輩は、皆してそれに追従した。結果は恐るべきもので、空挺もしくはレンジャーあるいはその両方を持った人間が、数名単位で重傷を負わせられ、上司その人に至っては首から下の不随を抱えさせられた。被害者たちは二度と銃も、ましてやラペリングのためのロープも掴めない身体にされ、加害者側は量刑による懲罰の影響を重く見た上層部によって、隔離区域の防人として放たれた。
いわく。ここにはその昔、“戦争”を経験した人間がいた。
いわく。先の大戦から永遠に放棄されたはずの“問題解決”の手段を執り、一度は全ての徽章を剥奪された人間がいた。
いわく。その人間はあろうことか、ここ境界警備隊で最高位の椅子に付き、君臨し、そして──。
「──地元愛が足りんくてか分かんねぇけど、結局こんなところに来ちまったさ。いただろ神原、お前ンところのにも」
「はあ。──まあ」
聡太が知る限りの同期の中に、目立ってそういった話はなかったが、そのぐらいは人事の裁量の裡というものだろう。聡太や近藤の身の上が、特異すぎる処理をされたというだけで。
考えてみれば、おかしな話だ。“房総のイヌ”の牙口あたりにいる人間離れした連中や、謎に包まれた非実在戦闘員めいた部署。いろいろと、この隔離区域の守護に相応しい部隊はあるではないか。この数ヶ月というもの、こねくり回してきた疑問を、聡太は改めて呈してみることにした。
「……近藤士長。その──何で、ですかね。俺たちがここにいるのって」
「そりゃ決まってる。内憂と戦うためさ」
「……出来たら外患と戦いたいです」
半ば本気でぼそりと呟いた言葉を、近藤はいたく気に入ったらしい。隊舎の中ではやや張りすぎな、闊達に笑うハハハという声が上がった。
「……爆笑しすぎじゃないですか」
「うん、神原、そりゃまあ分からんじゃないけどな。──世の中には、適材適所という言葉があってだな」
「それならよっぽど、俺たちより適切な人間がいるんじゃ」
「まあまあ……うん、分かるわ、神原の言いたいことは。けどお前の想定してるようなやつらが本当にここへ来ちまったら、どうなると思う?」
「どう、って。そりゃ……今よりもうちょっと、内側の人間も大人しくなると思いますけど」
「いや、オレの見たとこ、そうはならねえな」
「……近藤士長はどうなると思うんですか?」
決して上質の紙を使っているわけでも、そもそもさほど重たいものでもないはずなのに、『週刊少年ジャンプ』が閉じる音は、いやに湿って重たく聞こえた。
「戦争が起きる」
──それ、冗談ですよね。
いつだか口走りそうになった言葉を、今度こそ言おうとして、聡太はやはり、今度も口をつぐまざるを得なくなった。
そもそも、この隔離区域というのは、今もなお沸騰し続ける鍋のようなものだという。
鍋はまず、中身を零すことがないように、強固で分厚い底をこしらえてある。注ぎ込まれたものの体積を保つ縦の高さの縁周りも、もちろん充分に強い。となると、中身が逃れようと試みる先は、当然ながら蓋の側だ。
中学、高校と理科でやってきた、試験管を熱する系統の実験を、今更ながら聡太は思い出した。沸騰石を入れていなかったり、適度に試験管を揺らしていないと起こる、熱せられた液体がいきなり飛び出すあの現象。
自分たちを、鍋に宛がわれた蓋だと想定してみる。上に被さって、具材の出入りを管掌している立場だ。この場合、しっかり蓋をしているとは言いがたい。常に、鍋の中身は沸騰を続けている。例えばそこに、鍋の口を、蒸気も漏らさず覆うような蓋を置く──とする。
すぐさま、何ということもなく、実に容易にイメージが湧いた。
「確かに。……戦争が起きますね」
「だろ。──まあ、今はここも制度が色々変わってるしな。あんま将来を悲観しなくてもいいと思うぜ。鮎川三曹とか津志田三尉とか、フツーに教育部隊やら幹部学校行ったりしてるみたいだし」
「マジですか。ここ……その、なんというか懲罰部隊みたいなことばっか言われてるんで、昇進なんてここにいる間は無いものだとばっかり」
「昔はな。実際そうだったんだと。オモテ──元の部隊に戻った時に、ありがたくねえハクが付く程度だって。けど、それを変えるのに尽力した偉いさんがいたとかで、今はそれなりらしい。励めよ若人、ってトコだな」
聡太の頭の中には、未だに“煮えたぎる鍋、その蓋の役割の自分たち”というイメージが明滅してはいたが、近藤の軽口を交えた解説で、少しだけ重い気持ちが払拭されてもいた。アーミー・ネイビー・エアフォース・ウィズボーダーコントロールという建前を支える、この境界警備隊の実存があっても、理屈や法律や感情はまだ追随してきていない。政府指定特別区域が存在する以上、誰かがその守り手を務めなければならないのにも関わらず──そして実際に陸海空から人員を供出して守りに当たっているのにも関わらず、日の丸株式会社に勤める人間たちにはつきものの法の縛りが、見えてこないのだ。
自衛官は必ず、入隊の日に誓いを立てる。看護師が皆して、オールド・バーリントンの小陸軍省の主にするように。JSDFという組織に属し、服務の宣誓を経て、自衛官と呼ばれていれば、種々の規律によって行動が規定され、また守られてもいる。だがその身柄が境界警備隊へ移されたが最後、何もかもが曖昧模糊として、何の規律もなくなるように──聡太には思えてならない。
誰だって、人殺しになどなりたくない。好奇心旺盛な輩だとて、海外旅行のシューティングレンジか、害獣に対する狩猟免許程度で満足する。それを思うと、まるで今のこの自分が置かれている環境は、状況が許せば躊躇なく人間に向けて引き鉄を引けと──無形の圧力を肩に感じるようで。
改めて目を落とした墨染色の制服は、至って取り澄ました雰囲気で、聡太の視線を受け止めた。幸いにしてというべきか、聡太はまだ、身内の葬儀に出席したことがない。彼は、その墨染の色を、厚く堆積した死者の灰の色だと感じた。イメージはまるで、ボンベイのように重たい。
「……ま、なんだ。オシゴトってのは嫌なことの我慢料、らしいからさ。深く考えるのはヒマな時にしといたほうがいいぜ?」
「そんなもんですか」
「あと1年もしたらお前にも分かるよ、神原。──そろそろ演習も予定されてるし、準備だけはしとけよな」
「演習? 演習ったって──どう演るんです、一体」
再び近藤が、『週刊少年ジャンプ』のページを開いた。目的の連載はもうとっくに読み終えてしまったのだろう、捲る手つきは冗漫そのものだ。言い放たれた言葉が中々現実味を帯びては実感できず、聡太はまたも余計に、虚空へスチームを放射してしまった。
JSDFの総人数は、およそ30万人である。これは、書記官や事務官、即応自衛官や予備自補、および生徒、非常勤職員までもを含んだ人数である。
その中の一角である境界警備隊の員数は、純粋に武官である陸の15万人や海の4万5千人、空の4万7千人どころではない。
ただの、たったの、一師団ぶんだ。
師団の定義は二個連隊、およそ1万から3万人、指揮官は少将あるいは中将。境界警備隊においてはその全てが陸上要員にあらず、海も空も各個レーダー要員も、果ては文官まで含まれる。
誰が呼んだか名づけたか、口の端に上ることにいわく『魔界師団』。政府指定特別区域の守りは、軍隊としては非常にこぢんまりとした規模で行われているのである。
大体の陸上部隊は、その駐屯地最寄の演習場というものを抱えている。関東近縁で大きく、そしてメジャーどころといえば、裾野から御殿場にかけて広がる東富士の演習場。こうした演習場が、境界警備隊には存在しない。昭和の御世など既に過ぎ去って久しいが、陸海の二部隊には、反目というほどではないものの、陸と水面のごとくあからさまな壁がある。──ちなみに大戦後に創設された空の部隊はなんともしがらみのないもので、両者の頭上を悠々と飛び越えてすまし顔を貫いている。これを鑑みるに、境界警備隊に胸を貸してくれるような部隊や演習場は、日本のどこを探してもないのではないか。それこそが、聡太の呈した疑問であり、危惧だった。
「ふふん。聞いて驚きタマエ、神原二士。今回相手をしてくださるのはだな、東京の皆様だ」
「……いわゆる市ヶ谷様のあそこらへんですか」
「そのあたりだと文官さんが主体過ぎるな。人質救出訓練ぐらいかねえ、出来るのは」
「…………ということは、まさかと思うんですが」
「ふっふふん。そこらへんで東京の駐屯地の名前が出てこないあたり、神原二士も好奇心旺盛っつーことだな」
「もったいぶらないでくださいよ、近藤士長」
重々しく声を潜め、口元にかざした手で耳を憚りつつ近藤が告げたのは──果たして、聡太の想像通りであった。
その胸の徽章は、翼を擁した空挺傘。それに金剛石と月桂冠。どちらもを誇るでなく“そんなもの持っていて当たり前”と語る──彼らは、“房総のイヌ”の牙口あたりにいる人間離れした連中こと、習志野の猛者。
「大丈夫だ、神原二士」
聡太はもう一度、無意味に虚空へと、アイロンのスチームを放射した。
それを見た近藤の笑顔が──何故か、大津の教育部隊の助教とダブる。
「演習じゃあ人は死なない」