表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

飾り窓

 ピアニッシモ・スリムに火を点けて、思い切り吸い込んだ。──ら、やっぱり、むせた。

 指先で摘んで唇から離して、ひとしきりゴホゴホとやる。息が落ち着いてから、指に挟んだ煙草を見ると、ない──慌てて床に敷き詰められたラグを見る。あった。転がっていた。濃いグレイの、毛足がぎゅっと密集した、四角い形をいくつも敷き詰めてあるラグは汚れが目立たないけれど、焦げて穴が開けばみっともないし、煙草がベッドの下にでも転がり込んだら大変なことになる。火の始末は大事だ。大人に被害を及ぼさない限り、よっぽどのことをしても怒られた試しはないけれど、火の扱いだけは別。

 ベッドを軋ませて、床に降りる。だがとてもじゃないけれど猫のようにはいかない。マットレスが大きくたわんで“ぎっし”、足の裏が床について“どたん”、そんな感じ。拾い上げた煙草は健気にちりちりとオレンジ色を点し、小さな陽炎を宿し、細い煙を揺らしていた。

 やっぱり煙草は上手に吸うことが出来ない。

 とはいえ、吸えるのに何かメリットがあるかというと──それもまた、説明のつけづらいところではある。店のもろもろ全てを司るマダムに言わすと、オンナノコはいついかなる時もキヨラカで、ヒミツに満ちていて、イイニオイがしていなくてはいけないらしい。売り出し方によっては煙草の残り香もパルファンになるが、それもあんまりくど過ぎては興醒めで、寂しさを紛らわすくらいの匂いに留めておくのがいい具合、なのだそうだ。

 しわくちゃの林檎、としか見えない顔容の、昔は凄かったと自称するマダムの年は、当年とって九十だそうで──当然ながらさすがに第一線からは退いてはいるものの、つい5年くらい前まではばりばりの現役で、一夜にひとつファンデーションを使い潰すようなことも、していたらしい。

 らしい、とか、だそうだ、が多いのは、他でもない。私がその時は、お店に出るような年齢ではなかったからだ。

 アキノと、私は呼ばれている。

 間違っていなければ、生まれたのは2025年。壁の外側を知らない──つまり、壁の中にやってきた大人どうしがくっついて産まれた、純粋培養の第二世代。もちろん小さいころは、壁の外側が無人の荒野だとか、宇宙空間にこの隔離区域がぽっかり浮かんでいるだとか、そういう噂を信じてはいたけれど、今はそんなことはない。壁を越えた向こう側には、ちゃんと、日本という国があるのだと知っている。お店にある、どかんとしたダンボールみたいな大きさのテレビ画面には、何とか国営放送が映る。朝とお昼と夕方、夜9時のニュースオンリーだけど──いつでもアナウンサーの顔は、虹色のノイズで名状しがたい感じに歪んで、見えなくなってしまっているけれど。

 めったに全開にしないブラインドの板を、ぱきりと手で曲げて、外を見た。窓に面した公園のケヤキの高い梢が、雨に打たれて揺れている。雨は風にそよいだカーテンみたいに分厚い幕になって、揺れている。金魚鉢の中へジョウロで水を注ぎ込むその風景を、その鉢の中で観測しているようだ。

 頭の中に浮かんだ、もの寂しい絵面を誤魔化すため、ベッドのすぐ近くのテーブルの上へ置いてある灰皿へ、煙草をギュッと押し付けた。もうすぐ、豪太にいちゃんが迎えにやってくる。あまり、もたもたはしていられない。

 とはいっても、それはメイクに手を抜くということとイコールにはならない。お店に来るような男の人は、あくまでも女の子と話したい、あわよくばどうにかなりたいという考えでやってくる。けれども、子供の女とそういうことは出来ない、という人がほとんどだ。きっと、子供というキーワードに対して、何かしらの心残りみたいなものが、彼らにはあるのだと思う。そういう心残りは妄想のうちに留めておいて、楽しくて面白おかしい方向へ発散したいのだと思う。

 丸い座卓の上に、プラスチックボックスと、折りたためるタイプの三面鏡を据え付けて、せっせとブラシや手を動かす間、私はそんなふうに結論付けた。ついでに仕上げも終わらせる。リップクリームを塗って、グロスをつけてから、口紅を載せる。そのほうが馴染みがいいのと、唇が荒れにくいからだ。

 表は、少し肌寒いかもしれない。クローゼットの中の棚を開けて、七分袖のカットソー風のワンピを選んだ。スクエアネックで、襟ぐりに幅広のレースが使ってある。地は白、縞模様は紺のボーダー柄。ウエストマークに細いベルトを締める。外がこんな陽気なら、足元は黒と灰色のアーガイル模様のレインシューズで決まりだ──というより、それしかない。雨で足元が濡れないようにというコンセプトで作られているはずなのにも関わらず、オープントゥな、あの靴。ウィッグを付けやすいよう、うんと軽くした髪に手櫛を軽く入れて立ち上がる。インターホンがちょうど鳴った。


「おーい。アキノー、起きてッかぁー?」


 続いてドアを叩く鈍い音は、どう考えても指の甲側の関節ではなく、膝のあたりの音だった。アキノお仕事だよ、と声をかけてくる豪太にいちゃんは、インターホンだけで済ます。


「正臣さん。分かったからドア蹴飛ばさないでください」

「ヒザくれてるだけだッつーの」

「それは立派に蹴ってるって言うんです。頭いいフリするのやめてください」

「うるせー馬鹿」


 心が温まってカビそうなやりとりをしながら、私はドアを開けた。アッシュグレイの髪と三白眼、それから──中に収める腕のない、空っぽの左袖が揺れるのを見れば、もう安心だ。そこにいるのは、間違いなく久瀬くぜ正臣まさおみさんだ。彼の背後の廊下の外で、雨は未だに降り続いている。


*-*-*-*-*-*-*-*-*


 私が住んでいる、独り暮らし用の部屋が二十戸ばかり集まったアパートは、コーポ・ミモザ。そこからお店──『アップルバンブリン』へ行くまでの間には、いくつか、大きな、かろうじて壊れていないショーウィンドウがある。ただし中はからっぽで、埃と泥と、たまにいわく言いがたい色合いの赤茶けた染みを被っていたりする。それは昔、まだここがただの街だったころ、商店街ショーテンガイとして買い物客を集めていたストリートだそうだ。

 ミモザの1Fには、言う人に言わせれば絵に描いたような立派なコンビニが、今もしっかり営業している。身の回りの安全と好きなものを買う自由を天秤にかけて、大体の人は自分の命あっての物種と多少の手間賃を取る。そういう隔離区域の人間の心理を差し引いても、あそこがつぶれる気配がないというのは、これもまたきっと──“心残り”の一種なのだろう。

 さて、季節ごとの雨や泥で汚れたガラスは、だがかろうじて、通りを映し出す大きな姿見の役割を果たしていた。

 その中で何よりも目立つのは、正臣さんの左袖が、雨に打たれてあちらへゆらゆら、こちらへひらひらと落ち着きなくさまよう様子だった。

 気が遠くなるくらいの昔の話、と、彼は言う。少年時代の正臣さんが恋したのは、実にとんでもない力を持った魔女だった。彼は決してそのようなつもりはなかったのだけれど、魔女は正臣さんの不実を疑い、その操る極小の雷霆で彼を撃った。撃たれたがために、彼の左腕は、肩の付け根から外れてしまって、今に至る──という、嘘だか本当だか定かでないような話を、彼はいつもしている。魔女なんて存在しないし魔法なんてありえるはずもないのに、正臣さんはいつもその定型句を語る。ちちんぷいぷい、と歌うように。私は正臣さんのそんな湿度を理解できずに、聞くたびいつでも、そのたとえ話の真偽のほうや、やり場のないムカツキのほうに頭が行く。

 そんな疑われるほど、手や身体を離さなければ良かったじゃない。どんな飾り窓の向こう側の、どんな“お高い淑女レイディ”だったか知らないけれど、焦がれるほど求めたなら奪ってしまえば良かったじゃない、と。

 モノワカリの良いフリをしていたら、この隔離区域では、何も手に入れるなんて出来っこない。私よりも、間違っていなければ10歳も年上の正臣さんなら、そのくらい分かっているはずだ。

 でも彼は。


「ねぇ正臣さん、その左腕──ホントに、どうして無くしちゃったんですか」

「……アキノ、オマエその話本ッ当ーに好きだよなァ。もー何回も言ってるだろ、正臣さんの腕は魔女のイカズチに撃たれたもんで、消し炭になって無くなっちまったの」

「また魔女、魔女って! 私、こどもじゃあるまいし、もう信じませんからね。知ってるんですよ──とんでもないヘマをすると、指を切ってお詫びのしるしにする類の人間がいるんだってこと」

「アホか! ンなもん、化石かそうでなけりゃ骨董品クラスの古式ゆかしさだろ。まさかオマエ、正臣さんがそんな──」

「アラサーですもんねぇ、正臣さんは?」

「黙れバカアキノ」


 瞬間、正臣さんが咥えている煙草の先端が、わずかに上方を向いた。私とのいつものやり取りで、七対三くらいで起こる現象だ。つまり、正臣さんが反駁を諦めた合図。フィルターを前歯で噛んでしまったことに他ならない。風が、笑うように強くなって、二人のそれぞれの傘に、雨粒がよりいっそう激しく弾けた。


「……そーか。オマエももう十五、になんのか」

「教えてくれる気になった、正臣さん?」

「いんや。俺もまあまあ年食うワケだわ、と思っただけ」

「何ですか、それ。まだアラサーでしょ、正臣さんは」

「長生きはするモンだな、ッつーこったよ。思い出話が出来るなんて、そうそう無ぇ機会だからよ」


 そう言って、正臣さんは、ひょいと眉を両方とも持ち上げた。気取って両肩を竦めるように。物語の本が、栞の挟まれた部分からそっと開かれる気配を感じて、私は出勤前のやや憂鬱な気分にもかかわらず、ちょっとドキドキした。

 ただ、現実的に、そう長い時間を割けるわけではない。商店街ショーテンガイは、はや道のりを尽きさせようとしていた。そぞろ歩きの人の姿が、前方の路地に見えてくる──道幅こそそうでもないけれど、そこはメイン・ストリートと呼ぶべき通りだ。明かりの入ったネオンは、残らずそのサインと実際の店名が一致していないけれど、夕方も早い時刻だというのに、店内に人を飲み込んで賑わっている。朝早くや、昼日中の時間帯は、いつも動物性の生臭さが漂うような場所なのに、今はそれがよりいっそうの猥雑さに拍車をかけている。今日はそれに加えて華やかだ。私と同じ、それぞれの店への出勤前なのだろう男女が、手に手に傘を持っている。

 駅前銀座通エキマエギンザドオり。ここ、隔離区域で一番強化鉄筋の壁に近く、今の時間帯は一番人口密度が高い場所。そして、裏路地に引っ張り込まれない限りは、少なくとも安全の度合いが高い場所。ここを行きかう大体の人間は、まだきちんとした服と、それなりに人間としての皮を被っている。


「……教訓的な意味で言えばだなァ」


 そろそろざわつきが、会話のボリュームを上げようとするあたりで、正臣さんは再び口を開いた。


「話すんなら、絶対起承転結キショーテンケツでお願いしますね。起結キケツだけ聞いても“?”だし」

承転やまばは濃い目で──ッてアキノ、それじゃオマエ、まんまウワサ好きな年増じゃねーか」

「貴重なハイティーンになんてこと言うんですか!!」

「若さをアイデンティティにすッと後々つらいって誰か言ってたぜぇ? ……教訓的な意味で言うならな、アキノ。俺の昔話から言える事ァたったひとつだ」


 通りが近づく。雑談が出来るのは、おおよそここまでくらいだ。

 賑わっているだけに、ここを通る人間たちは、気が大きくなっていることが多い。薬とアルコールを一緒に摂って、衣服の下に銃を飲んでいるヤツが、こちらのひそひそ話を自分の悪口だなどと聞き取ったら? ──正臣さんは多少その方面の伝手があるとはいえ、私はただの酌婦みたいなものだ。妄想にとり憑かれた中毒者ジャンキーにとって、撃つのをためらわせる理由は何もない。

 そういうヤツらが嫌うのは、内緒話から高歌放吟まで多岐に渡る。とりあえず控えたほうがいいし、何事か話すにしても、“正臣さんの昔の恋の話”なんていうタイトルのつく話題は、大声で交わしたら情感がなさ過ぎる。


「“死んでもいいくらいの恋”なんてのはな、アキノ。──正直ショージキ、するモンじゃねえよ」


 正臣さんの、生きてきた年数だけを嵩にきて私をからかうような言葉を、いつものように茶化したり反論したりすることも出来たと思う。

 けれども彼の声音には、それをためらわせるだけの、苦味に満ちた重たさがあった。ついでに言うと、まるで予期せずして知人のセックスを盗み見てしまったような、バツの悪さも同時に感じた。

 結局それを最後に、私は彼と言葉を重ねることもないまま、『アップルバンブリン』の入り口をくぐり、仕事の準備に入ることになった。迎えにはきっと、豪太にいちゃんが来てくれるだろう。そうしたら、何かまたくだらないことを言って笑わせてもらおう。

 マダムの姿は今日はなく、幾人かのボーイと、気の早い着替えを終えた女の子が、気だるげにカウンターやテーブル席に散らばっている。オレンジ色の暗い照明、低い天井と絨毯敷きの床は濃いブルー。テーブル席のソファは、昔の真珠色を失ってしまったらしいけれど、まだ見られる程度のミルクティ色。背もたれやレストに貝殻の意匠。もっとあちこちのインテリアが徹底していたら、人魚の住処みたいな雰囲気がよりいっそう強まっただろう。

 香水と煙草に混じるかすかなアルコールの気配は、昔の貴婦人たちの袖の香りより確かに、店の売り物をアピールする。その中を、更衣室に向かって歩くうち、私はアキノという名前のオンナノコから、この店で商われる品物へ、綺麗に羽化していく。

 いらっしゃいませ、ようこそ『アップルバンブリン』へ、だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ