鳥も通わぬ
西暦2015年、日本国政府は、戻る道のない未来へ舵を切った。──切ったのだと、伝えられている。
その当時、国内は有体に言って、閉塞感に苛まれていた。政を司る与党が変わろうが、その打ち出した政策が優れて経済に奏功しようが、泡沫景気華やかなりしころの熱を覚えている国民は、微笑みの後に決まって必ず暗い顔をした。将来の不安を口にした。
国内の治安の悪化も、そうした空気に触発されてのことだったかもしれない。目を覆いたくなるような凶悪犯罪は、月を跨げばまるで当たり前のように、次から次へと起こった。そんな中で、お偉方を定年まで見守り、恙無く“第二の人生”へ天下らせるために汲々とする警察組織が往時の力を失っていたとして、果たして何の不思議があるだろう。
ロシアン。グルジアン。幇。リウマン。メキシカン。そんな、出身国ごとの区別をするのも、昔の話だ。珍しかった“ガイジンサン”は今や堂々と街を歩く。警察組織と癒着し、そうすることで命脈を保っていた“暴力団”たちは、よってたかって居を定めようとするかれらに対して、為す術があったのかどうか。砂上の楼閣の、裾野からさらさらと毀ちていく音を、誰もが知っていながら無視をした。どこでも、危ういその現状を、対岸の火事だと思い込もうとして必死になった。声を上げたが最後、何もかもが瓦解する、その程度の均衡を守ろうとして躍起になっていた。ニュースの俎上に取り上げられなければ、事件など身の回りに起きなかったも同然になる。インターネット上でwwwの草を食む、有象無象の名無しの羊たちとてそうだ。好奇心で様々に話題を切り刻もうとも、その起こる瞬間までは、誰もが傍観者でいられるがゆえに。
しかし、窮していたのは、事件事故のたぐいを仔細なデータによって、純粋な件数として報告されるほうの、例のお偉方であった。
不気味な上昇の稜線を描くデータを前にして、彼らは嫌な味のする唾を飲む。今、日本という国の屋台骨に耳を当てたなら、白蟻の食い進むがごとき不気味な音が聞こえてくるであろうことが、彼らにははっきりと感じ取れてしまったのだ。
罪を目明しするための警察官を増やすか。
罪を贖うための刑務所を増やすか。
どちらに転ぼうとも解決の難しい問題を突きつけられた彼らは、そのプロブレムを“投げ出す”ことで解決してしまおうとした。次世代へどころではない、それはつまり究極の丸投げ。最初は愕然と共に迎えられたアイデアも、誰もが目を通すうち、頭ごなしの否定を舌先から喉へと飲み込んでいく。
“それ”は──単純に噛み砕くならば、とある都市において、構造改革特区を設置するという提言だった。
経済の振興や教育機関の集約、物流の調整。農業。国際交流。福祉、医療。構造改革特区は、本来の法が定めるところにより事業化が困難なプロジェクトを、“特例により”で行うことが可能になる地域を指す。
治安の悪化という、日本が誇るべき骨子が失われつつある事態に窮した官僚たちは、定められたロジックに活路を見出し、“それ”を法案として提出した。
その名を、『政府指定特別区域』という。
選ばれたのは、都心からJRでおよそ1時間ほどの閑静な都市。
南を相模湾、西を河川に区切られ、都内に仕事を持つ人間とその家族たちが住まう、いわゆるベッドタウンだ。学校、病院、公園、それにちょっとしたショッピングモール。年に一度の大きな祭。その気になれば、生まれてから死ぬまでずっと過ごすことも出来よう、そんな都市だ。当時大都市を騒がせていた不安定な情勢も、まだこの街には届かない。テレビ画面の中のニュース報道を、対岸の火事と見つめて、怖い怖いと身を揉むくらいだ。
──海禁時代の長崎の出島に同じだよ、と、誰かが言う。まとめられた法案は、正にそれだったから。およそ20万人の人口を持つひとつの街を、丸ごと政府が買い上げるというのである。買い上げたその後、街と街との区画線上には強化鉄筋製の囲壁を築き上げ、完全に外界と断絶するというのである。
そうして出来上がる器の中に、何が注ぎ込まれるかといえば、“半値六掛け”のひとでなし共──刑務所にすら行き場を無くした犯罪者たちだ。そこに自由な商売の利益と旨みを見た、外国由来の犯罪組織も一緒になってついてくる。警察機構にある程度管理されて生きながらえている暴力団はこのまま国内で押さえ込み、その法なき律にさえも従えぬ人間は、やはり同じように壁の内側へ放擲する。もって、日本国における治安の悪化要因が取り除かれ、かつての“治安大国”は稜威を快復する。
そこに絶滅収容所の面影を見た人間は、新たな解決策を交ぜっ返された時、決まって口をつぐんだ。この国は、量刑による死を忌む。罪を犯す人間が増え、刑務所が溢れ返っている。溢れ返っていようとも、人道的見地から、そいつらの口を養わねばならない。養わねばならないがゆえに、その口にざらざらと金が注ぎ込まれていく。注ぎ込まれていくがために、各所の予算が割を食い、本来行われるべき事業に穴が空いている。
この法案に対して、異形だと眉を顰めるのなら、これに代わる解決策を提示してみせれば良い。そう迫ると、誰もが反駁を押し隠して黙り込んだ。
そして同時に──政府指定特別区域を構想した人間でさえ、本当のところは、抱えた大いなる矛盾に気づいている。どだい、日本という国において、“地層処分”は問題の解決方法ではないのだ。先送りに適したものでしかない。
2015年。国会において、賽が投げられる。
法案を提出した側も、反対派も、そこで集約されているべき民意を問うた。
*-*-*-*-*-*-*-*-*
──その結果が、現在だ。
たとえば日本のどこの街の駅前へ行っても、焼き鳥屋だの焼き肉屋だのがない限り、明らかな何かの匂いがする、ということはない。田舎の澄んだ空気、都会の人いきれを飲み込んだ空気、そういった街独特の気配が鼻腔に伝わることはあれど、“これ”というべき臭気の元が漂うことはない。
腐れた何かを冷蔵庫から取り出し、常温に戻した時のような、燃えるごみと燃えにくいごみの混合気。あるいは、祭が終わった後、取りこぼされた食材の放つ翌日の嫌な臭い。詩心と見識のある人間なら、裏路地の臭いとでも表現しただろうか。ともかくそういったものだ。
端的に言おう。
神奈川県下の小さな都市。都内に比べれば悲しくなるような規模の都市は、犯罪者共を流し込む棺墓として饗された。
航空写真を覗いてみれば、強化鉄筋の壁に扼された街が、まざまざと映る。夢の島、隔離区域、鳥も通わぬ──『政府指定特別区域』。
日本に淀んだ罪をまとめて流し込み、沸き立つ毒気がからからに乾いてしまうまで、永劫にそれを放棄する場所。
(……とんでもないところに来てしまった)
神原聡太の明るい茶色の目の中に、午後の光が差し込む。眩しい。
*-*-*-*-*-*-*-*-*
神原聡太の出身地は神戸で、そこで彼は高校を卒業し自衛官のタマゴになった。彼は自衛官のヒヨコ時代を、滋賀県は大津の地で過ごした。地獄の三七中隊との呼び名高い信太へ配属される同期が、泣きの涙で引っ張られていくのを慰めていたら、彼の配属先はもっととんでもないところになっていた。
いち組織のいち歯車である彼に、どうしてそういう決定が下されたのかは知る由もない。
もう二十数年も前から、日本の自衛隊という組織は、陸海空の三部組織ではなくなっていた。防衛省は公式に“そうである”と発表はしなかったが、いつだって実存は先立つものだ。アメリカの軍隊が大雑把に言い表してアーミー・ネイビー・エアフォース・ウィズマリンコーならば、日本のそれはアーミー・ネイビー・エアフォース・ウィズボーダーコントロールだ。The Border-control、『境界警備隊』。正式名称は、『政府指定特別区域とそれに隣接する他市区町村との境界線地域における警備任務、ならびに区内への立ち入りを希望する者の検問を管掌する部隊』。
この部隊の立ち位置の微妙なことといったら特筆もので、統括する部署は何と、防衛省ではない。政府指定特別区域の全般を管掌する安全保障庁が、その身柄を借り受けているという状態なのだ。しかし使用するのはあくまでも自衛隊が抱えている装備だし、装備を身につける人間は当然自衛隊から供出されているし、当然そこに流れる規則規律はやはり自衛隊のそれなのだ。平和と独立を守る使命を帯びて、彼らはこの薄汚れた壁を守る。演習をし、訓練をし、練度を保つ。自分の正気を保たせるために、そうする。
自衛隊は創設以来、その隊員の10割が、自ら戦う戦争を知らずに退官していくという。だが、境界警備隊が生まれて以降、その手の神話は未だ確かなのだろうか。人事異動でここにやってくる自衛官が、境界警備隊隊員として勤務し、元の部隊へ戻されていく時──果たして、去っていく彼らの人数は、ここに来た時の人数とぴったり同じなのだろうか。我らが“バディ”たる八九式は、訓練を他にしてはクリーンでコールドなバレルを守る、全きヴァージンなのだろうか。
良くない噂はいくらでもある。
例えば、ここが、政府指定特別区域が成立した直後。境界警備隊も、それと期を同じくして発足した。経歴を聞くのも恐ろしくなるような犯罪者が集団で壁の内側へ雪崩れ込んでくる時期だった。版図を定める争いが、あらぬ方へ飛び火した。車両に乗り込み、巡邏していた人員が規定時刻を過ぎても帰投せず、いくつかのドッグタグだけが──ひとり帰ってきた血まみれの隊員の手の中に、握られていた。ぞっとしない話だ。
物資の横流しに手を染めている隊員がいるであるとか、米軍がお払い箱にした制式銃がガラクタ同然に投棄され、壁の中では立派に運用されているであるとか、恨みを飲んで首を吊った隊員が夜な夜な徘徊しているであるとか。形のない噂や幽霊譚くらいなら、全国どこの駐屯地にでも流布している。だがこの境界線に流れる噂は、背後に血の気が臭いすぎるのだ。心霊現象など話半分に聞くくらいの聡太が、あるかもしれない、と胸を冷たくするくらいの濃度で。
「──原、神原」
「……──あ、はいっ」
思った以上に呆けた顔を晒していたらしい。肩を叩かれて、意識が現実に戻ってくる。
ひとつしかない馬蹄型のゲートを越え、その向こう側の白い閉ざされた部屋へと踏み入り、しかじかの手続きに則って通過すれば、その向こうは政府指定特別区域。故郷や大津とも変わらない、明るい午後の日差しが差している。そして同じく、行き交っているのは、ごく普通の人間にしか見えない“隔離区域の人々”。にわかには信じがたいことである。ゲートを挟んだ向こう側には、ありとあらゆる──日本国の刑法で羅列してなお余りあるほどの罪と悪徳が、たっぷりと注がれているのだ。
「割と凄いだろう、ここ」
聡太を案内してくれているのは、もうここに5年はいるという、それでも若手の部類に入る三曹だ。鮎川と名乗っていた。
どんなに歪んだ世界を相手取っていても、自分が身を置く日常のかけらを持ち込めば、正気を保てるのだと──人間は、そう信じてどこにでも日常を築こうとする。
防衛省を離れた段階で、何やら珍奇な、階級に応じた呼び名が生まれようものだが、ここ境界警備隊では、古式に則って──創設以来百年も経ってはないのに、それは何とも懐かしい響きだ──三、二、一からなる呼称を用いる。サージェントはサージェント、ルーテナントはルーテナント。コマンダーはコマンダーだ。ここは、表立っては何のつながりもないと否定され続けながら、規模と人員はさながら陸における十六番めの師団。束ねる者は皆して班長と呼ばれるし、古参は先任の名を負う。そして全員のトップに立つ長もまた。
「……は、はい。凄いというか、なんというか」
「あー……神原の言いたいことは分かる。“思っていたより普通”あたりかな」
鮎川は、もうそうすることに慣れきった、さりげない視線の運びで、境界線と呼ばれる建造物の中を見渡した。聡太もそれに倣う。
聡太が今、鮎川に連れられて巡っている場所は、空港のロビーかあるいは駅のコンコースに似ている。だが、そこかしこに屈強な男が佇立し、そのいずれも銃を携えてぴりぴりと警戒を行っているというのは、何か悪い冗談のようだ。聡太は見たことがないが、大使館関係者が退去するほど情勢が悪化した国の空港というものは、こんな雰囲気なのだろうかと思わせる。入り口──神奈川県側の、ことさらがっちりと固められた自動ドアはきっと銃弾を食らっても崩れ落ちないガラスで出来ているのだろうし、そちこちに無意味そうな装飾のついた柱、やたら分厚いプランターの植栽があるのは、これは有事の際には即席の掩蔽装置になるのであろうと思われた。しかしながらそういう中にも、幾人かは人がいるのだ。空港のロビーや駅のコンコースで、めいめいの行き先を目指して進むように、人が。
ありふれており、そして異様でもある。誰もが、見た目に反して途方もなく、ヒトとしての螺子を飛ばしているようには見えない。
だからこそここに漂っている空気は、何といったら良いのだろう。何と形容するべきなのだろう。
考えをひと巡りさせて、事務的な物々しさが、と呟くと、鮎川は肩をわずかに窄めて笑った。それは正しいとも言わず、新鮮な切り口をただ面白がるふうで。
「そういえば……なんで鮎川三曹は、ここへ?」
軽く促されて、気詰まりな現場見学は終わった。“コンコース”や“空港”などと、いつまでも仮の名前で呼ばれているロビーから、やたらに重たい通用口を通り、廊下へ出る。境界警備隊が人の出入りを管理するゲートと、強化鉄筋の壁を表側から眺めた様を、今さらながら聡太は思い出した。優雅さや壮麗さはかけらもないが、ヨーロッパの城塞都市に少し似ているな、という感想も含めて。
こんな異様なたたずまいでも、何か自分が見知っているものとの相似形を見つければ、それなりに受け容れのしようはあるものらしい。人間は地獄にすら適応するというジョークも、ある意味本質を突いてはいる。
リノリウムの床の足音は鈍い。半歩前を行く鮎川は、こちらに耳を向けるように軽く首を傾げ、笑みを浮かべたようだった。鼻翼のやや膨らんだ、息だけの笑い。
「んー。そーれは実にいい質問だ、神原二士」
触れてはならないところを突付いたか、そもそも“なぜ”というのはタブーだったかと危ぶんだ聡太を振り返り、鮎川がにやりとした顔で振り向いた。
「おれと津志田は呉にいたんだよ。──あ、津志田ってのはおれの同期な。今はりっぱな三尉さんやってる」
「はあ」
「神原、お前、アーネスト・ヘミングウェイ知ってるか。老人と海」
「えーと……なんか、爺ちゃんがカジキマグロ釣って……っていうあれですか」
「うん。その認識のもとで聞いてくれ。当時おれと津志田はどっちも士長で艦艇勤めでさ。そりゃあもう折り合いの悪い上司がいたわけでなあ」
「はあ」
「で、当然ながら鬱憤が溜まり、“畜生いつか船尾から縄で吊るして曳航してやる”、“老人と海のカジキマグロばりに鮫に食わせてやる”くらいのことは言うわけだな、うん」
「…………はあ」
「ほお」
先の大戦時、戦死の理由に、ある程度の確率を占めていたものがあったそうだ。銃で撃たれるのでもなく、乗っていた艦が撃沈させられるのでもなく。鮎川が言うのはつまりそれだ。部下いびりの過ぎた上官に対して不満が爆発するところ、陸ならば闇討ちが起こったというし、海ならばそれは当然──艦に、胸の高さの落下防止柵などあるはずもない。
「運悪くそいつを、当の上司に聞かれちまった。人間、怒りすぎると顔が鉛色になるんだなーってのを初めて見たよ。なあ津志田…………津志田?」
笑うべきか。その発言の剣呑さに引いてみるべきか。大体、上官の物言いに対して、はいかイエスで答えていればことが済んだ教育部隊の時代と違い、これからはいろいろと折り合いを付けていかねばならない。冗談のひとつも解しておくべきだろう。18歳なりの小ざかしい処世術で、聡太はそのように結論付けた。
それ冗談ですよね。発言も異動の理由も。
中途半端な笑いは、いきなり立ち止まった鮎川の背にぶつかりそうになって霧散する。
「あ・い・か・わ。お前、何かと忙しい配属されたばっかりの人間相手に、なーに過去の汚点ブチ撒けてる」
背後。つい先ほど、正に自分たちがくぐり抜けてきた鉄扉の側。額やこめかみに井桁のマークを刻んでいるに違いない声。
不本意ながらも鮎川と二人、シンクロした動作で振り向くと、墨染に欝金のラインのある戦闘服姿が、こちらをいたく強烈に睨みつけている。上腕の章は、ラインが一本と桜がひとつ。ならば彼は確かにルーテナント、話の俎上に登っていた人間に違いない。欠礼をしてはならじと、反射で聡太は右手を掲げた。津志田はそれを受けて、ほぼタイムラグもなく答礼してくる。意識は自分よりも鮎川のほうへ向いているようで、多少それがありがたくもあった。
「あーらら。津志田三尉。毎日クソお忙しいのにここまで来られるのはどういう風の──」
「だまれ自称呉のエロ魔人。当直に決まってるだろう。──おい、神原聡太で間違いないな。いつまでそのカッコでいる。とっとと制服受領しに行け。2階、そこの階段上がって左の奥だ」
姿勢を正してハイ失礼いたしますと応じる以外に、聡太に何が出来ただろう。聡太が身に着けているのは、オリーブドラブのジャケットに同色のスラックス。ネクタイ。薄くクリーム色がかったシャツと、制帽だ。カモフラージュ率どころか、馴染めてすらいない。
隊員としての照合は、駐屯地での出入りがそうであるように、身分証明書で行われるだろう。鎖で繋いだパスケースは常にポケットに忍ばされており、用のある時は速やかにその存在を思い出す。回れ右して、聡太は示された階段を目指した。背後で始まる会話はとりあえず意識の外に置き、右手と右足を同時に出さないように注意はして。
*-*-*-*-*-*-*-*-*
時に、西暦2040年。
車は未だ空を飛ばず、個人による宇宙旅行もディスカウントの兆しを見せない。
だが、日本に起こった確実な変質が、多くの運命を巻き込み蠢いていることだけは確かだった。