あれから(後半)
少し遅れてしまった……
ともあれ、人見知りする碧、
完結で御座います
今度こそまっすぐと帰路につく。
何を迷っているのだろうか、そんな事はとっくに明白なのに、
口にだすと終わってしまう、そんな勘違いにもよく似た思い込み。
見栄なのか、痩せ我慢なのか。やるせなさと軽い自己嫌悪を抱えながら、
僕は帰路を歩いていた。
秋中旬、日が暮れるのが早くなっていて、すでに景色が紅い。
「あ、アルバイトは終わったんですね
「…………ただいま」
僕の悩みの元であるハルカは、夕日を背にしてニッコリと笑った。
「……一瞬誰か分からなかったよ」
「はは、誰<たれそあれ>ってやつですか」
「何? それ」
「タソガレっていうのは暗くてあそこにいるのが誰か分からない、
誰ぞ彼?、たそかれ、タソガレ、っていうのが語源なんです。
ちょうど今みたいな感じ」
「以外に博識だね」
「はい、伊達に貴方に読み書きを教えた訳じゃないですよ」
何一つ覚えていない。
どんな事を教わったのか、教わった内容から、
教わっていた情景まで、何もかも。
冗談めかして胸を張る彼女を見やりながら、
後ろめたくて俯いてしまいそうになるのを堪え、
曖昧な笑みを顔に貼り付ける。
一瞬の間の後に、彼女も静かに微笑んだ。
お世辞にも、上手な作り笑いとは言えなかった。
会話もなく、少し暗い空気のまま、
僕達は肩を並べて歩いていく。
本当は言いたいことがいっぱいあるのに、
伝えたいことが沢山あるのに、何一つ言葉にならない。
今彼女がここにいるのでさえ、
きっと僕の帰りを待ってくれていたからで、
こんなにも大切にされているのにと、
情けなさで胸が痛くなる。
隣を見ると、彼女は今まで見たこともないような、
切なさを帯びた、諦めたような笑みを浮かべていた。
その顔を見た瞬間、頭の中で警報が鳴り響く。
その表情を、僕はよく知っている。
僕の元を去るといったイブキの目も、
村に残ると言っていたアキラくんの顔も、
今の彼女が浮かべるこの顔と同じ。
自分を罰して、去って行こうとする者の眼だった。
「本当は!」
気づけば、叫んでいた。無理矢理に口に出そうとした声が
思っているより大きくなってしまう。
色々な意味での、悲鳴にも似た絶叫だった。
一旦深呼吸して落ち着けると、今度はあまりに苦々しい声になった。
「本当は、僕はずっと、思い出せていたんだ」
驚いて足を止めた彼女に、僕は淡々と吐露を重ねる。
懺悔なのか告白なのか、その両方なのか、
話したい事をまとめられず、頭の中にあるものを
浮かんだ順番に口から出していく。そうでもしないと、
破裂してしまいそうだった。
「騙していた……つもりはなかったんだ、
けど、どうしても言い出せなくて、
……君がどう思うか分からなくて、僕の記憶が無いことを、
もう戻らないかもしれないって事を」
出来るだけ伝わるように話そうとするのに、
そうするたびに言いたい事からどんどんと遠ざかっていく。
まるで喉から昇った言葉が口の中で死んでいくみたいに。
もどかしくて情けなくて、僕は必死に言葉を探して、
彼女に語りかけた。
「あの村で君を初めて見た時、なんて真摯な人だろうって思った。
おかしいかもしれないけど……僕には君の必死さが分からなかった。
自分のことなのに、僕は何処か他人事で、
どうでもいいって事じゃないんだけど、
でも、どうしても自分の事と思えなくて、
だから、君がなぜあんなに必死なのか分からなかった」
違う。
こんなことを言いたいんじゃない。
もっと別の何かが言いたいのに、その何かが分からない。
とても大切なことなのに、こんなに胸に溢れるのに、
どうしても、言葉にならない。
苛立ちと焦りで余計に口は動かなくなって、
思考は同じ所で堂々巡りを繰り返す。
喉が無性に渇いて、日が暮れて空気は冷たくなっているのに、
冷たい汗が背中を伝っている。
どうしようもないこの想いを、ただ、伝えたかった。
どうしても言葉が続かず、僕が黙ってしまうと、
彼女が一歩、僕に歩み寄った。
よく晴れた空から、昇ったばかりの月が辺りを静かに照らし、
彼女の表情が照らし出される。
彼女の真っ直ぐな瞳は何かを待っているようで、
少しだけ、揺れるように光っていた。
その顔を見た瞬間、僕の中で何かが動いた。
何処かのスイッチが入ったように思考は高速で動き出し、
心臓と連結して、今にも走り出しそうだ。
僕は、
「穂真理」
彼女の顔が一瞬歪み、すぐにまゆを寄せた、弱々しい笑みに変わる。
長春 穂真理、それが彼女の名前だった。
「やっと、呼んでくれましたね」
「ごめん。でも、本当に怖かったんだ。
記憶を失くした僕は、君との思い出も持っていないし、
君が大切に思っていたかもしれないモノも、
失っているかもしれない。
……僕はもう昔の僕には多分戻れなくて、
だから、君に”昔の面影”なんかで縛られてほしくなくて」
違う、またずれてきてる。
ゆっくり息を吐いて、軽くなっている呼吸を落ち着ける。
耳の奥で血の流れが滝の音のようにごうごうと響く。
もう、言いたい事は見つかっていた。
――あとは、口にするだけ。
「こんな僕だけど、記憶喪失で、たぶん昔の僕には戻れないけど、
けど、もし、こんな僕で良かったらっ」
最後なのに、どうしても言葉に詰まる。丁度いい言葉が見つからない。
焦って穂真理を見ると、彼女はとても嬉しそうな顔で笑っていた。
「……最後まで言ってくれないのも、同じなんですね」
「同じ?」
「『こんな僕だけど、名前がなくて、多分人間には戻れないけど、
けど、もしこんな僕で良かったら……』
昔貴方が、こんなふうに冷えた夜に、私に言ってくれた言葉です」
急に、穂真理が僕の胸に体当りするように飛び込んでくる。
「……ずっと、待ってました」
「ごめん」
「ずっと、待ってたんですよ?」
「申し訳ないです」
震える穂真理の声を聞いてやっと思い知る。
彼女がどんな気持ちで僕を待っていたかを。
どれだけ待ち望んでいたかを。
自分をこんなにも望んでくれている人がいる、
こんなにも大切に思ってくれている。
それが分かっただけで、僕の迷いなど即座にかき消えてしまう。
震える彼女の肩にそっと手を回す。
驚いたのか一瞬跳ね、その後、初めはおずおずと、
次第に安心したように僕に預けてきた。
腕の中の少し早い鼓動と、微かに聞こえるしゃくりあげる音、
何より小さな肩と、しっかりした温かさに、
喩えようもない気持ちでいっぱいになる。
大切で、嬉しくて、切なくて、懸命で。
厳かで、恭しい、親しみのこもった、胸いっぱいに広がる感情。
まるでさっきまであった不安や迷いに取って代わったように、
僕の心を満たしていく。
「私たちは」
胸の中で穂真理が少しぐもった声で言う。
「私たちは、どうせ変わっていくんです。
記憶があっても無くても、それこそ十年もすれば、
別人のように変わることもあるんです。
でも、たしかに変わらないモノだってある」
「うん、分かった」
「本当に分かってるんですか?」
耳元で囁かれる恨みがましい声色に苦笑しながら、
僕はふと、夜空を見上げた。
満天というのだろうか、艶やかな黒い空に、
砕けたガラス片のように細やかな光が、敷き詰めるように輝いている。
耳には小さな潮騒が、微かな海の匂いとともに夜風で運ばれてくる。
――あの空もきっと、僕らが生まれるよりずっと前からあのままで、
でも毎日動いていて、場所は定まらず、
いつ何が変わってしまうとも分からない。
きっと、そういうものなのだろう。
これからも、僕らはどんどん変わっていって、
けれどその最中でも、
「そろそろ帰りましょう、斉藤さん達心配してるでしょうし」
穂真理の声に頷きながら、改めて夜空を仰ぐ。
そう、けれどこの気持だけは、変わることの無いものだから――――
長い間ご愛読下さり、誠にありがとうございました。
本編は終わりましたが、
最後に後書きというか、編集後記的なものを
あげようと思いますので、どうか最期までお付き合い下さい。
――霧桐くぃかそ