ゴリラ
「レイ、あんたもモテモテねえ。またご指名ってわけ?」
カウンターで頬杖をついて笑う美鈴さんに、レイはため息をついた。
「そういうわけじゃないんです」
「分かってるわよ。失くしたとか取りに来いとか言われるのは、こっちだって予想してたもの。だ・か・ら! あんたにこの仕事を任せたのよ」
にやりと意地悪く笑う美鈴さんを見て、レイはまたため息をついた。つまり、面倒な仕事を彼女はレイに丸投げしたということらしい。……予想はしていたが。
「はいはい、気をつけてさっさと行ってらっしゃーい!!」
どん、とレイの背中を押した美鈴さんは、最後までにやついていた。
「……そしてお前は、いつまで私を抱きかかえているつもりだ」
猫なりにむすっとした顔で、私はレイに話しかける。しかし、地図を見ながら歩いているレイは、私の顔など見ていない。大道叶冶の家は海に近いらしく、レイは今朝歩いた堤防沿いを、図書館に背を向ける形で歩いていた。
「だって、ちゃんと抱っこしてあげてないと、お前は逃げちゃうだろ?」
「子供扱いするな。私がお前の何倍の年月を生きてきたと思っている?」
「別に子供扱いしてないよ。猫扱いしてるだけ」
私はただの猫ではないが、猫である。この微妙な矛盾のせいで、私は反論もできずに黙りこんでしまった。
見知らぬ人間のもとへ出向くのが嫌で仕方がない。それならまだ、生ネギを食べる方がマシだ。……いや、五分五分くらいか。
結局レイも、不安なのだろう。彼は人見知りではないが、記憶を保持できない不安定な存在なのだ。
――毎日毎日、自分のことだけを忘れてしまうというのは、人間にとってどれだけ恐ろしいことなのだろうか。
「……お前はふわふわだけど、やっぱりちょっと暑いなあ。冬だったら、あったかくて気持ちいいんだろうけど。そうだ、冬は同じ布団で寝ようか。きっと、あったかいだろうなー。ふわふわだね、ふわふわ」
切ない思考を吹き飛ばす、間抜けでのんきなレイの声に、私は心底落胆した。
小さく古めかしい家を見て、「ここだね」とレイは言った。香坂紗耶歌の家とは正反対の、質素な造り……というのは、まだいい言い方だ。古くて小さくてボロボロで、いまにも崩壊しそうな木造住宅というのが正直な感想だった。戸口に、かまぼこの板で作ったのであろう表札が貼り付けられている。油性マジックで「大道」と書いているだけのそれは、インクが滲んでいてほとんど読みとれなかった。
「こいつ、絶対変わってるぞ……。絶対変な人間だぞ……!」
かまぼこの板を見ながらジタバタする私をレイはギュッと抱きしめて、インターホンを押した。しかし、インターホンが壊れているのか、いくら押しても音が鳴らない。仕方がないなと呟くと、レイは木製の扉を叩いた。
「すみません。潮騒図書館から参りました、レイです。大道さん、いらっしゃいますか?」
レイが扉に向けて声をかけると、くぐもった男の声で、
「ああん!? 何様だって? 俺様はいらっしゃるけど、あんたが何様なのかが分かんねえ。だから、扉を開けてやるわけにはいかねえな!」
という返事が返ってきた。明らかに日本語がおかしい。「絶対変な奴だ……! 帰る! 私は帰る!!」と足をバタバタさせてみたが、レイは放してくれなかった。
レイは大きく息を吸い込むと、扉に向かって怒鳴るように叫んだ。
「先ほどお電話させて頂きました! 潮騒図書館のレイです!!」
「……ああ。なんだ、本当に来たのか。面倒な奴」
面倒なのはお前だろうと思った矢先、扉が勢いよく開いた。
中から出てきたのは、がたいの大きな男だった。年齢は……三十歳ほどだろうか。もう十月だというのに、白いタンクトップにベージュの半ズボンという寒々しい格好をしている。あちこちに向かってはねている硬そうな黒髪は、まるでウニのようだった。しかし、顔はゴリラそのものである。
思いっきり不機嫌なゴリラ顔で出てきたその男は、レイの胸元を見て破顔した。それは間違いなく、……私と目があったせいだ。
「お、おい! お前、かわいい黒ネコちゃんを連れてるな、おい!! ほれほれほーれ、こっちにおいでぇ」
猫なで声とともに、ごつごつした大きな手がこちらに伸びてくる。私は爪をたてて、レイの胸にしがみついた。――なんということだろう。
この恐ろしい大男は、大の猫好きらしい。
「まあ上がれよ。もちろん、黒ネコちゃんもな!!」
どすどすと家の奥に進んでいく男を見ながら、私はレイにしか聞こえぬように「帰る、帰る!」と囁いた。しかしレイは、
「お邪魔します!」
と宣言すると、私を抱えたまま、大道の家へと足を踏み入れたのだった。
5番手、うわの空でした。
これにて1週目は終了、次回から2週目に入ります。
それでは、くぃかそ様! お願いします!!