ハルカ
「名前じゃないんだ」
重苦しい空気の中、口を開いたのは沙耶歌だった。皆が一様に、沙耶歌へと目を向ける。
「名前じゃない? 何言ってんだ」
問い詰める標的を変えた大道が、苛ついた声を沙耶歌に向かって吐き捨てた。沙耶歌はひるまない。大道の顔を見据えたまま、再び口を開く。
「ハルカ、は名前じゃない。彼女の苗字なんだ。ハルカ村長というのは彼女のことではなくて、彼女の父親、つまりは前村長のことだ。彼女は、……裏切り者じゃない」
「――沙耶歌、それは」
「すまんな猫ちゃん。黙ってられなかった。……いや、謝る相手を間違えた。ハルカ、すまない」
ハルカは俯いたままで、何も言わない。
昨日、彼女が言っていた言葉はやはり――。
「……どういうことだ?」
アキラが閉じ込められていた屋敷。そこに忍び込んだ沙耶歌と私を逃がすため走っている彼女に、私は問いかけた。
「なんのこと、ですか」
「アキラはどうして、君のことを名前で呼ばない? あいつは自分でも言っていたが、名前を大切にする奴だ。なのにさっき、君のことを『ハルカ』と呼んでいた。あれはなんだ?」
私のセリフを聞いた沙耶歌が、首をかしげる。
「猫ちゃん、何言ってるんだ。彼女の、……ハルカってのは名前じゃないのか? 偽名なのか? ま、まさかこれが噂のコードネーム!?」
「いえ」
沙耶歌の言葉に苦笑しながら、ハルカは首を振った。私はため息をつき、沙耶歌に向かって言う。
「春長というのは、彼女の名前じゃなくて苗字なんだ。……レイはいつだって、彼女のことを名前で呼んでいた。彼女も、苗字を名乗ることはあまりなかった。『春長』村長の娘、という立場を嫌っていたからな。なのにどうして」
「――名前にこだわるのは、アキラ君だけじゃないんです」
沙耶歌の手をぐっと握りなおし、彼女は寂しげに笑う。その笑顔を、そのまま私へと向けた。そして、
「これからは、私のことを『ハルカ』と呼んでください」
そう言いきった。
「……しかし、君は」
「さっき言いましたよね? 私には、『レイ様』の名前を呼ぶ資格がない。それと同様に、私の名前を呼んでもらう資格も、ないんです」
曲がり角に近づき、ハルカは走る速度を落とした。向こう側に誰もいないかどうかを素早く確認してから、再び沙耶歌の手を引っ張る。沙耶歌は何を考えているのか、この間は無言だった。
少しだけ息を切らしながら、ハルカは続ける。
「父は、……あの人は、レイ様とアキラ君を壊しました。双子、ただそれだけの理由で。そして私も、レイ様を壊した。笑いながら村から追い出して、彼の全てを壊した。……一緒なんですよ。私も、父も。だから私は、父と同じ名前で呼ばれるべきなんです」
彼女の口調は自虐的で、私の知っている声ではなくなっていた。怒りに満ちたその声を、誰に向かって吐きだしているのかなんて、嫌でもわかる。
私の知っている彼女は、こんな表情も、声も持っていなかった。
――変えてしまったのは、変わってしまったのは、誰のせいなんだろう。
私の思考を遮るかのように、彼女は言った。
「レイ様の前でも、ハルカで通してください」
「しかし……」
「お願いします」
彼女がレイの名前を呼んでくれれば、レイは記憶を取り戻すんじゃないか。
あるいは。
彼女の名前を聞けば、レイは彼女のことを思い出すんじゃないか。
そう思っていた私はハルカを説得しようとしたが、彼女の声を聞いた瞬間、説得を諦めた。
一生のお願いという言葉をまれに耳にするが、それくらいの決意がこもっている声だったからだ。
「それで? 君はそれでいいんだな?」
最後の確認。――無駄なあがきだ。分かってはいたが、あえて尋ねた。
「……はい」
彼女は思いつめたように口を引き締め、力強く言い切った。
「いずれも私ですから」
「――……苗字?」
後方でレイが呟く。ハルカは俯いたままだ。
アキラも相変わらず、無言のまま。こいつが『第二のハルカ村長』という言葉を口にした時は、私達を混乱させて、はめるつもりなのかと疑った。しかし今思えば、わざとその単語を口にすることで、レイとハルカに何かを伝えたかったのかもしれない。
「――イブキ」
レイが私の名を呼んだ。私は振り向かない。
……振り向けなかった。
レイは、私の名前を思い出した。
しかし、彼女の名前をまだ思い出せていない。
『私の名前を呼んでもらう資格も、ないんです。私は、父と同じ名前で呼ばれるべきなんです――』
嘘だ。レイに自分の名前を思い出して欲しかったのは、私だけじゃなかったはずだ。
「イブキ……」
私は答えない。
私が彼女の名前を教えてやるのは、きっと違うと思ったから。
大道のゴリラ設定が役立つときが来たんだなあ……。
と、しみじみしていたうわの空です(え?)
いつの間にあんな、男前のゴリラになって……!
しかし今回はハルカをメインに書かせていただきました(爽やかな笑顔で)
それではくぃかそ様、お願いします!