はじまりの場所
村の入口。そう表現したが、厳密には入口があるわけでも、『ここからが村の敷地です』という線が引かれているわけでもない。
ただ、私には分かる。
空気が、違うから。
「……で、どこに向かえばいいんだい?」
あたりを見渡しながら、美鈴さんが声を出す。しかし、問いかけられたレイは申し訳なさそうな声を出した。
「分かりません……」
「あ、そうか」
レイは記憶を失っているのだ。どちらに行けばいいのかなんて、分かるはずがない。
ここから見えるのはせいぜい、平屋と畑くらいだ。
けれど、私は覚えているから。
君と出会ったあの日のことも。一緒に遊んだ場所も。
ちゃんと覚えているから。
「……にゃあ」
私は小さな声を出すと、レイの半歩前に出た。私の意図に気付いたレイが、「とりあえずこっちに行ってみましょう」と皆に声をかける。私はレイの半歩前を、ゆっくりと歩き出した。
目的地は、決まっていた。
村に着いたら、最初に連れて行こうと思っていた場所。
私とレイが、初めて会った場所。
そこは私の寝床で、大道の家を更に劣化させたような掘立て小屋だった。
村の端にあるボロボロの小屋は、『黒猫』の私がこの村で暮らせる唯一の場所で、
「わあ、猫ちゃんだ!」
――彼が初めて小屋に来た時は、正直困惑した。追い出されると、思ったから。
けれど彼は、私の黒い毛など気にする風でもなく、私が人語を話せることを喜び、
「僕たち、友達になろう?」
こちらをまっすぐ見ながら、そう言った。
彼は毎日のように小屋に遊びに来ては、『その日の自分の名前』を私に報告した。それからよく、難しい本を読んでいた。――彼が自分の名前に凝り始め、読みにくい(かつ分かりにくい)名前をつけるようになったのは、そのせいかもしれない。
「そういえば、君にも名前がないね」
彼はある日、ふと思い出したようにそう言った。
「私には名前など、必要ないからな」
「……ふーん」
名前など、必要ない。
あの時は本当に、そう思っていたんだ。
彼が『あの娘』を連れて来た時もまた、私は困惑した。しかし、素直に喜んだ。彼を受け入れてくれる人間が、この村にもいたのだと。――いや。彼女は、私の存在までもを認めてくれた。
「この猫ちゃんにも、名前をつけよう」
少年に名前を与えた少女は、私の方を見て頬笑んだ。それから二人で、私の名前を考え始めた。クロという名前も候補に挙がったが、却下された覚えがある。そして、
「決めた! 猫ちゃん。君の名前は、×××。……どう?」
彼女に言われた名前。生まれて初めてもらった、名前。
「……いい、と、思う」
「思うって、自分の名前なのにー」
膨れっ面をする彼女を見て、少年は笑った。きっと照れてるんだよ、と彼女に説明をする。彼は私との付き合いが長いだけあって、私のことをよく知っていた。
「じゃあ決定!」
彼は私の方を見て、嬉しそうに笑った。そして、言った。
「君の名前は、×××。僕の名前は、」
それから半年後。村を追い出された少年は、
「僕の名前は……」
自分の名前も、村のことも、少女のことも、
「君の、名前……?」
私の名前も、忘れてしまった。
私は記憶を失った少年に向かって、笑いかけた。
「……私には、名前なんてないんだよ。必要、ないからね」
嘘だ。本当は、嬉しかったんだ。名前を貰えて、呼んで貰えて。
存在を認めて貰えた気がして、嬉しかった。
だから。
村に行くことを提案したのは。小屋に案内しようとしているのは、私のエゴでしかない。
期待してるんだ。
彼がもう一度、私の名前を呼んでくれることを。
「――ひっ!」
後ろから小さな悲鳴が聞こえてきて、私は振り返った。背中の毛が逆立つのを自覚する。
私たちの背後にいたのは、村人だった。早朝なら村人には会わないだろうという、誤算。農作業のために外に出たらしい中年男性は、黒猫……つまり、私を見て腰を抜かしていた。
「む? 私の美貌に、腰が抜けたのか?」
こんな間抜けなことを言うのはもちろん沙耶歌だが、彼女も分かっているはずだ。
村人の反応の、意味を。
「お、お前ら……」
村人は私とレイの顔を交互に見比べ、それから沙耶歌たちに向かって叫んだ。
「お前ら、『それ』から離れろ! 早く! 『それ』は、呪われて――」
村人はそこで言葉を切ると、自分の家へと逃げ帰った。
美鈴さんと大道が、村人からレイへと目をやる。レイは浅い呼吸を繰り返し、小刻みに身体を震わせていた。一瞬訪れる静寂。それを破ったのは、
「すまんな猫ちゃん。しかし、言わせてくれ」
沙耶歌だった。
「少年」
沙耶歌の声に、レイが振り返る。沙耶歌は、――微笑んでいた。
「君がどちらを選んでも、私たちは怒らない。『帰ること』を選んでも無駄足だったとは思わないし、『進むこと』を選んでも不快だとは思わない。絶対に。だから」
彼女は私の方を見て、……私にも、笑いかけた。
「私たちのことは気にせず、自分の進みたい道を行けばいい」
肌寒い風が、彼女の髪をかすかに揺らした。
書きたいものを詰め込みました、うわの空です。
それではくぃかそ様、お願いします!