第三十一話
話がひと段落してしまえば、気まずい空気が漂う。
「アルゲディ、その、朝のことは申し訳ありませんでした。さっさと退くべきだったよ。
メサルティムの言う通りだったよ。この通りだ。」
誠心誠意の謝罪をする。勝ち気で生意気で、上から目線で腹に据えかねる存在ではあるが、今回ばかりはレオが悪いという自認もある。
アルゲディは少し驚いた表情をし、その後少し間を置いてから、
「ふん、私は最初から怒ってないわよ。貴方みたいな低俗な存在に心身が揺らぐような生命体に見えるかしら?
それなら心外だわ。私のことを低く見ないでよね。貴方如きが私の心を動かそうだなんて100年早いんだからね。思い上がり、思い上がりもいいところよ。
だから、その、なに──。謝らなくていいわよ。」
口では怒っていないと言っていたが、レオは彼女の行動を思い起こす。
効いてアンティリエ殺そうとしてたよね。流石に心身が揺らいでないなんてのは無理があると言うかなんと言うか。
ただ、アルゲディがそう言って許してくれたならそれ以上のことを追求するのも野暮だ。
ポラリスはレオの方を見て、レオもそれに気がついて視線を合わせる。
「昨日のことだけどさ、ポラリスにはちょっと悪いことしたって思ってるよ。謝りたかったんだけど、タイミング悪くって。
それで今朝のこともあって、余計嫌な思いさせたよな。本当にごめんなさい。」
客観的に見て、ポラリスを1人の女の子と見るならば、レオがアルゲディを抱きしめていた場面に遭遇させてしまったのは配慮に欠けるし男としても最低だ。
二股をかけようとしているようにも見えかねない行為だ。そんなことをしてしまったことを、こにらも心を込めて謝罪する。
少なからず、彼女の気持ちを傷つけたならば。
レオの謝罪に対して、ポラリスよりも早く反応した人がいた。
「お兄さ───」
「ちょちょちょい、ちょいちょい、ちょちょ、ちょまて、ちょまちょま、ちょっとまってよ。
あの、ああ、あのあの貴方、貴方たち。昨日のことって何? 何よ、何のこと? ねえ、貴方ちょっと今何の謝罪をしているのかしら?」
慌てた様子でこちらに伺うアルゲディの様子にすかさずメサルティムがアルゲディの肩を揺さぶる。
「師匠様、どうされたんですかそんな動揺しちゃって。ほっとけばいいですよあんな人たちなんて。」
「いや、え、ああ、うーん、でも、でもね!」
メサルティムの言葉に納得しかける。
それでもレオとポラリスの間に割って入るための理由を探しながら、こじつけるように食らいつくのだ。
「そうよそうそう、そうだわ。」
「──そう、とは?」
メサルティムの言葉にアルゲディは続ける。
「私たちだって知る権利があるのよ。だってほら、どうせ『ヴァンデミアトリックス幽域』から出るための情報かもしれないでしょ。
きっとそうよ。そうに決まっているわ。それ以外ありえないわ。
こんな状況で色恋にうつつを抜かすなんてことありえないから絶対に、私たちも知るべきよ!!」
そこまで言い切ると小声で、「そうよそうに違いないわ」とまるで自分を説得させるように呟くのだった。
レオは心の中で、あたってはいるが仮に違う可能性だってあるだろうに、もしこれで本当にプライベートな会話だったり、それこそ恋愛絡みだったならば、アルゲディはどうするつもりなんだろうと思った。
ただ、レオも話をポラリスから聞けたわけではない。
彼女に急かすあまり、逆に話から遠ざけてしまった。
だから、ポラリスの反応は当然のものである。
「───すみません、こればっかりはお兄さん以外には。───話たくないかも・・・です、ネ。」
少し申し訳なさそうに、最後の方は尻すぼみしてそうやって言うのがやっとであった。
メラクは「仕方ありませんよ。無理やり聞き出すのも忍びない」と、メサルティムだって「本人がそう言うなら仕方ないですね」と言っている。
だが、アルゲディには気に食わなかったようだ。
「どうしてよ、おかしいわよそれは。話してくれなきゃ困るわよ。」
「うわーめんどくさ、アルゲディさん。」
「アンカスは黙ってなさい!!」
「へいへーい。」
途中でヤジを入れたアンティリエに一際鋭い声でメサルティムが怒りをぶつけたら。
当のアンティリエはというと、そんなことお構いなし。
耳に両の小指を突っ込みながら、目線すら合わせずに返事をする。
その様子に、ずっと溜まっていたものが爆発したのだ。
「あーもう! なんなんですかあの人は、こんな状況じゃなかったら、あなたなんかと同じ空気も吸いたくないってのに!!」
特別な状況だから、仕方なく同じ空間にいるのだと主張するメサルティム。
そんなことを言われて、黙っていられるほどお人好しではないのがアンティリエだ。
いや、アンティリエは意外とタフで、割と何でも許してくれるタイプである。
それこそみんなにいじられても、それを嫌がるでもなく、悪意をぶつけられても自分にも非があると受け入れるタイプなのだ。
しかし、今は違った。
「なんですか、その言い方。本当のことじゃないですか。メサルティムさんだって、言わなくていい仕方ないって言ってたくせに。
師匠様だか、なんだか、知らないですけど。アルゲディさんが文句や不満があるならそっちにつくんですか?
女に尻尾振って楽しいですか?」
「もおおおお、なんでアンカスはそう言うこと貼ったから言うのよ!! 最低、信じられない。」
「いやいやいやいや、アンテ悪くないでしょ絶対。ねぇポラリスさん、アンテなにかおかしいこと言いましたか?」
「うぇ!?」
アルゲディに詰められている横から、さらに新しいボールを投げられてよろめく。
「現場の八神さーん、そちら今どう言う状況でしょうか〜?」「はーい、現場の八神で〜す。こちら今ですね、なんと知りたがりがすぎる女アルゲディさんが、レオさんとポラリスさんの秘密の関係に記者顔負けの根気強さを見せながらまるでメンヘラを拗らせた元カノのような醜態を晒しています。さらにさらに、その横ではカップル喧嘩中とも見えかねない、アンティリエさんとメサルティムさんの言い争いをしているんですよ〜。これがなかなかどうして、面白くない。身の危険を感じますね〜。現場はなかなかにカオスなことになっております。では、現場からは以上でした〜。」みたいな脳内茶番劇は置いといて。
この状態を作り出した元凶のレオは困惑していた。
一旦は、脳内劇場で頭をクリーンにした。
冷静になろうなるなるなれるよ。
「アルゲディ、頼むよ時が来たらポラリスの方から話してくれるって。だから頼むよ。」
「貴方、貴方がいけないのよ。はぁ、ポラリスさんとの隠し事なんていつからそんなに偉くなったのかしら。
食べて行けてるのは誰のおかげよ。私が水と食事を、貴重なのに分けてあげているからでしょう?
だったら私にも何か提供するべきよそうだわそうに決まってるもの。
なにがあったのよ教えなさいよ。」
まるで話が通じない。ポラリスもアンティリエとメサルティムの大喧嘩に巻き込まれて、狭い結界ないは地獄のようだ。
大怪獣バトルを見せられているメラクはアンティリエを横から説得しようとしている。
マルカブはポラリスの横に立っていつでも守れるようにしている。
龍怜はメサルティムの一挙手一投足に注視している。
オーケイ、俺がアルゲディの相手しろと、そりゃあ悪い夢でも見てるみたいだぜ本当。
「ねぇ、貴方聞いてるの!?」
「聞いてる聞いてるって。本当に感謝しているよ、食べさせてもらってるのも。許してくれたのも。
だけど、こればっかりは俺じゃなくてポラリスが話してくれるのを待とう、な?」
「なにが待つよ。私は待たないわよ?
それを待って死ぬかもしれないのよ?
はやく喋らせるべきだわ。」
あまりに理性を欠いている様子に訳がわからないといった表情を龍怜に向ける。
向こうも同じなのか、レオと目が合うと口パクで『ご愁傷様、ファイト』と応援メッセージをくれたが。
「───くせに。」
「あー?なんですか?
聞こえないですよー?」
ボソリとなにかつぶやいたメサルティムへ、アンティリエが挑発するように訊ねる。
「こうやって、守られてる分際のくせに。弱くてどうしようもなくてただ守られたるだけのくせに。
男のくせに弱くて腰抜けでそのくせ性欲だけは一丁前で強い男みたいなことが、あなたみたいな弱い男ができる訳ないでしょう。
本当気持ち悪い、今だってそうよ。だいたい、あなたたちが変な虫連れてきたのが問題じゃないの!!
それの尻拭いをしてくれてるのは師匠様でしょ!?
それなのに、それなのにそれなのにそれなのに!!
あーもう、なんなのよ!」
「大きな声出さないでよ! そのキンキンする声も!」
「出させてるのはあなたでしょ!!」
隣でガチ喧嘩されてもう心臓が保たない。
ちょっといい感じだったと感じたのは俺だけかな?
今の2人の様子に少し怯える。
2人とも嫌悪を隠さずに言いたいことを言い合っていて、はっきり言って見るに堪えない。
アンティリエの苛立ちも、メサルティムの癇癪も。
それに加えてアルゲディの女王様ムーブと、ここの集団でまともなのが龍玲とマルカブだったという衝撃の結果に、人は見かけによらないとかそんな次元じゃないなと感じる。
「ほらまた話を聞いてなかった!!」
「いや聞いてるよ本当。アルゲディの気持ちもわかるってば。」
「ぜんっぜんわかってないわ。わかってない。
そうやってわかってるって他の女にも言って適当に相手してきたんでしょう!!」
「本当に聞いてるから・・・」
すいません聞いてません。だって隣で、今にも殺し合いが起きそうになってるんだぜ?
アンティリエが重箱の隅をつつく様なことばかりいって、メサルティムは目を迸らせながら、荒い息づかいで今にも飛びかかりそうなんだもの。
「男のくせにって、なんですかそれ。下らない。だったら女のくせに偉そうなことばっかり言ってんじゃないですよ。」
「そうやって本当は女の子のことなんて下にみてるんでしょう。さいってい。」
「はぁ!? 先に男のくせにとか言い出したのはメサルティムさんでしょうが!?
なにをすり替えてるんですか!? 頭おかしいんじゃないですか?」
「あなたに言われたくないですよ。性欲しかない中身のないペラペラ人間なんかに頭おかしいなんて!!
中身がなくて、そんな弱っちいから──」
「がああああああああああああああ!!!」
突然、アンティリエが自身の髪を掻きむしりながら発狂し始める。
髪は乱れ、地面に金属の簪が音を立てて落下する。
両手の間からは血の混じった毛が何本も引き抜かれている。
「アンテは、弱くない!!」
そう言いながら地面に頭を叩きつける。
嫌な音と共に、周囲には血が飛び散る。
そんな様子をはなから見ていなかったメサルティムはさらに言葉を続ける。
もし、彼女がここで目を瞑って彼を直視していたら言葉は続かなかっただろう。
「いや弱いわよ。無理だって。弱くて惨めで、どーしようもないクズで。だからアンカスなんて呼ばれ方するのよ。
男のくせに弱いくせに。」
「弱くない!弱くない!弱くない!弱くない!」
「弱くない!」と言う否定の言葉を紡ぐと共に、アンティリエは地面に頭を打ちつける。
それを急いでために入ろうとレオが駆け寄るが、服の首の裏を掴まれて、「うが」という苦鳴と喉に苦しみをもよおす。
すぐに服を掴んだ当人を見て後悔。
ただ、それは遅いようだ。
「ほらやっぱり、どうせ貴方は、私の話なんてどうでもいいって思ってたんでしょ。
だから今だって私を無視してアンカスの方に行こうとした。違う?」
「違う。確かにアンティリエは心配だけど、アルゲディを無視したとかじゃないって。」
そういって見るが効果はなさそう。
泣きそうな目でこちらを睨みつけてくる鴇色の視線の奥には、こっちは任せてくれと、アンティリエを押さえつけながらメラクが言ってくれている様な気がした。
彼はアンティリエをはがいじめにしながら、なんとか押し留めている。
ポラリスはすぐにアンティリエの隣に行き、自身の手を額に添える。
マルカブも木剣を黄緑色に輝かせながら優しく添える。
龍怜はメサルティムに「もうやめてよ」と言いながら口を手のひらで抑えていた。
いったいどうしようか。
「ねぇ!」
「話せないってば。こればっかりは。」
「なんで、2人だけの秘密にしておく理由は何よ。
私たちが知っちゃいけない理由は何?」
「別に知っちゃいけない訳じゃないよ。そう言う訳じゃなくて、ポラリスの気持ちを尊重したいんだよ。」
「それはポラリスさんが好きだから?」
そう言われると返事に困る。
沈黙が良くなかったのだろう。
「好きなの・・・」
「いや、別にそう言う訳じゃないけどさ。」
「別に貴方が誰を好きになってもいいけど、それこそ貴方の自由よ。でもそうじゃないなら話してもいいじゃないの。」
「だからそれを決めるのは俺じゃないって」
「だったら答えてよ。ポラリスが好きなの? 好きじゃないの?」
もはや、ポラリスの秘密が気になるとかより、レオがポラリスを好きなのか好きじゃないのかの方が気になる人みたいになってるけど、そこのところ問題ないのかな。
そんなレオとアルゲディのやりとりを見ていたポラリスが、全てを諦めてしまった様だった。
だから、彼女のそんな大声を聞くのは初めてだった。
「話します。話しますから。というか、よくよく考えれば隠す様なことでもなかったです!!」
大きな声で、部屋に響き渡る声でそう言う。
その言葉に耳を傾けなかった人はいない。
龍怜と口論中のメサルティムも、メラクの腕の中で暴れていたアンティリエも、レオに詰め寄っていたアルゲディも例外ではない。
全員の視線を浴びながら、ポラリスが言いたくなかったことを話始める。
それはこの場を諌めるためとかそんな気遣いだはない気がする。
もっと利己的で、自分のために秘密を話す、そんな風にレオは受け取った。
「ボクの1番古い記憶の話です。ここだったんですよ。この部屋で意識が始まったんです。」
***
「ボクが初めてあったのが『蛇さん』です。とっても怖い怖いでした。
地面が光りました。それで、光から蛇さんが出てきました。
それで、蛇さんはボクのことを襲いました。攻撃しました。とっても、痛い痛いでした。」
「ボクはここに来るのはいやでした。嫌だったので、昨日の夜に、お兄さんに相談するか迷ったけど。
でも、ボクがそんな話をしたら、きっとお兄さんはボクのために、気を遣ってくれるから。
だから、話せませんでした。本当は、今もここにはいたくないです。
話したくなかったのは、みんなに迷惑がかかると、思ったからです。」
「でも、違いました。全部ボクが間違ってました。
ボクが昨日話さなかったせいで、こんなことになってしまいました。
ボクは、迷惑をかけてしまいました。」
「それだけなんです。だから、もう喧嘩しないで。」
ポラリスは腰を曲げて謝罪した。
彼女は今の状況をすべて自分が悪いと、そう言って終わらせようとした。
と同時に、筒が横に倒れる。
それは事前に聞いていた、結界の効果が切れる合図であった。
幸か不幸か、物理的に啀み合うものたちを同じ空間に同居させる理由がなくなったのだ。
バツの悪そうな態度で、「先に戻ります。」と言ってメサルティムは部屋を飛び出した。
それを見ていた龍怜は、レオからアルゲディを引っ剥がして、「私たちもお先に」と言って部屋を出た。
「いたい」
と、自身の額に触れながらつぶやいたアンティリエ。
「アンテたちも、戻りましょう。あんまりここに居続けるのもよくないですし。」
「そうだな」と続けて、部屋を出るのだった。
***
龍怜に連れ出されて、回廊を走っていたアルゲディは、自分の行動に不審なものを感じていた。
それは、ポラリスの秘密の開示が原因というものでもないと感じた。
「───らしくなかったわよね。」
龍怜に訊ねるが彼女はいたって冷静に、「いつものアルゲディさんでしたよ。ちょっとわがままが過ぎるとは思いましたが、わがままなのは今に始まった事ではないので」と期待していた返事とは違った。
アルゲディは我慢強い、忍耐強い人である。という自負があった。
それだけに、今回さらした醜態に、後になって嫌になる。
「だ、だいたい、だいたいねぇ。あの程度のことを秘密しているのが悪かったのよ。彼女の、ポラリスさんのいう通りだわ。
彼女が全部悪いのよ。私たちにも知らせたおくべきだったわよ。ねえ?」
「わがままだなー本当。私は今回ポラリスちゃんに非があるとは思えないですけどね。」
またしても、思う様な返答が返ってこない。
龍怜天音はアルゲディの友達なのに、友達なのに嫌なことばかり言ってくる。
耳に入れたくない聞きたくない言葉ばかりだ。
「なによ、私が悪いっていうわけ?」
「三分の一くらいわ。」
「そ、そうかも、知れないわね。」
アルゲディは残りの三分のニがポラリスにあると受け取った。
龍怜は残りの三分のニの配分は別の誰かに振り分けたと思うが、そこはすれ違いということだ。
「で、でも。それでもおかしいわ。普段の私ならあんなことにはならない。あんなことは言わない。
なにかあるに違いないわ。」
「それは同感だね。アルゲディはわがままなくせに素直じゃないからね。
今回はちょっと様子がおかしいというか、アルゲディのくせに素直だったし。
そういう、人を素直にさせる作用でも働いたのかな。」
同感だと述べて、少し気分が良くなったのも束の間。
またしてもアルゲディの心をチクチクと突いてくる。
我慢強いのだから素直じゃないに決まってる。
そんな言葉を使うなんて、龍怜も人が悪いと思う。
ただ、ほんの少しだけ隠し事をされているのが悔しく感じただけだ。
ただそれだけ。
「で、そこのところはどうなんですか。結界術士さん。」
「結界魔術じゃないと思うわ。もっと性質の悪いものよ。」
もしアルゲディが『空気感染』という言葉を知っていれば使ったであろうその現象。
部屋に入った時から重たい空気が漂っており、長時間いるとストレスが溜まりそうだなあと思ったものだ。
魔術というよりも、空間自体に細工があるとアルゲディは感じた。
ただそれを表す表現がなかった。
「なぞが多いですね。」
「そうね、私はあの部屋には極力近づきたくないと感じたわ。」
「ポラリスちゃんと同意見ってことですね。」
「むう。」
龍怜の言葉はさっきからアルゲディにとって引っかかるものばかりだ。
意図的にやっているとしか思えない。
そんなアルゲディの思考も先読みしていたとすぐ後に続く言葉でわかる。
「私だって、あなたたちの横暴ぶりに辟易しているんですよ。あなたが大学で優秀な研究者だって聞いて、最初はどうしてそんな優秀な人が弟子1人しかいなくて周りから厄介者扱いされているのか分かりませんでしたけど。今はよく分かりますよ。」
「別に、1人しかいないんじゃなくて、作らないだけよ。私に見合うほど優秀な人がいないの。
それに、私は厄介者扱いされてないわよ。」
「どうですかね。」
その後も龍怜の口撃を受けながら部屋へと帰るのだった。
***
「んん、ふぁぁぁ〜。」
眠気まなこを擦りながら周囲を見渡す。
昼間は往復走り回って、往復の間に喧嘩を仲裁して、部屋に戻ってからは険悪な空気にならない様気を回して。
そんな疲れた日だったからこそ、ぐっすりと眠れると思ったのだが。
疲れはあまり取れていない。
むしろ寝る前より少し体が痛いというか。
気がつくと、レオがいたのは『安地』ではなかった。
そこは『ヴァンデミアトリックス幽域』の数ある廊下の中のどこか。
一気に全身に冷や汗が流れる。
「どこだよここは。」
十字路の真ん中で、上半身裸で横になっていた。
寝る前に、隣にいたはずのアンティリエやマルカブ、メラクはいない。
「アンティリエ? マルカブ? メラク? みんなどこだよ。どこいったんだよ。」
レオの心臓がうるさく拍動している。バクン、バクンとその音が耳の奥に直接揺れる。
息も荒くなる。その場から動けなくなる。
恐怖心から視界が歪み、指の先が冷たくなっていく。
レオの心に芽生えた恐怖心は、迫り来るであろう死に対してではない。
もちろん、死ぬのは怖いし、経験したくない。それこそ、生き返るのだとしても二度とごめんだ。
ただ、そんなことがどうでもよくなるくらい気持ち悪くて夜に食べたものを全て吐き出す。
胃液と消化中の食べ物が床に滴り、鼻腔に酸っぱい匂いが広がる。
「───、うおえ。
誰だよ。だれがこんなこと。」
こんなところに1人寝転がっているなんて、そんなおかしな話ある訳ない。
寝相が悪いでは説明できない。
だから、これは誰かがレオが寝ている間に外に連れ出して置いてきたと見る以外に考えられない。
あの7人の中に、レオを殺そうとしている人間がいる。その事実に恐怖していた。
「うっごえ」
直後だ、つぶやいた直後。レオの横腹に鋼鉄の様な質量の塊が車の様な速度で衝突した鈍痛を受ける。
そして、その勢いのままに『ヴァンデミアトリックス幽域』の壁に叩きつけられる。
肺が潰れて呼吸ができない。
レオはこれから痛みと恐怖に加えて、呼吸すらも許されなくなった。
だから、当然叫べば激痛が、泣けば激痛が走る。
壁に埋もれながら、腕を動かそうとするが。
「ああああああああ。」
全身に広がった衝撃を少しでも緩和してくれたのが、両腕骨折であったのだとこの時になって初めて理解する。
受け身を取れたが、受け身程度で分散できる様なものではなかった。
頭から流れる血がレオの目を真っ赤に染め上げる。
目に血が入った痛みで瞼を閉じる。
次の瞬間少しな浮遊感と共に耳の奥で爆裂音がする。
浮遊したのではなく壁が破壊されてレオだけがその場に慣性で残ったのだ。
しかし、重力に逆らっているわけではない。
そのまま落下して、まともに立っていられるわけもなく、その場に崩れ落ちる。
鼻の骨が折れる。顔面には瓦礫の感触があり、頬に熱を感じるのは皮膚が裂けてそこから肉と血が溢れているからに違いなかった。
「あっ」
レオの皮膚に、鋭い刃物が引っ掛けられて吊し上げられる感覚がした。
体の重さで少しだけ皮膚が剥がれるが、すぐに止まる。
別のものがレオの体を支えた。
頭蓋に穴が空いて、脳みそが啜られるのだ。
予想通りだった。
レオは今、この『ヴァンデミアトリックス幽域』の番人、支配人、創作者の『蚊王』に襲われているのだ。
腹を蹴られた瞬間に死を悟った。
圧倒的で、抵抗心をレオから取り上げたのだ。
もうすでに四度目だ。レオが蚊王に脳みそを食べられるのは。
敵わないのだ。この化け物とだけは会いたくない。
脳みそを吸われるのが、絶対だからだ。
脳には慣れない痛みと熱が駆け抜けて、口吻の刺さった脳天には一際強烈で鮮烈な痛みが駆け抜けていく。
全身の穴という穴から体液が流れる。
血も汗も、涙も鼻水も唾液も胃液も何もかもがだ。
羽音や脳みそが啜られる音と、自分の絶望した絶叫が聞こえてくる。
『蚊王』はレオの頭の中を吸い尽くすと、例の如く、謎の分泌液を脳内に放出する。
その液体が脊髄と混ざりあって、全身に恐怖と痛みを共有する。
レオの筋肉がピクリ、ピクリと反応して、目の裏には自分の悲惨な情景が、見てもないのにはっきり浮かんでくる。
そのまま『蚊王』は自分の鎌をレオの右足に突き刺すと、引きずって歩き出す。
どこへ行ってるかを確認したくもない。
目を開きたくない。
どこにいくのか気にならないのかと聞かれれば、知ってるから見る必要がない。という答え方をする。
子供読み聞かせスペースについたのか、レオの右足から鋭い鎌が引き抜かれる。
レオはその痛みに悶えることもできない。
生きているのに動けず、また痛みだけあるというのはなかなかに苦しい。
動けば痛みは増すばかりであろうに、自分の体が抜け殻みたいになることへの恐怖が勝るため、必死に自分の筋肉を動かそうとするが、動かない。
そこでようやく、自分には考えるだけの意識があっても、考えを実行させるための制御装置である脳みそがないことに気がついた。
ビクン、ビクンと筋肉が痙攣する。
ちがう。そんな動きがしたいんじゃない。
全身に針が刺さったように動かなくなる。
筋肉が硬直していき、血管や内臓を締め付けていく。
潰れているのは肺だけでは済まなくなるという恐怖が押し寄せる。
全身が腫れ上がっていくのを感じる。
筋肉で骨が軋む。
最期は自分に押しつぶされて死ぬなんて、そんな最期は嫌だった。
だから、何度も何度も、自分の身体よ、動いてくださいと願ったが、それを嘲笑う様に、まるで体は動かない。
「・・・」
レオの瞼に、温かい感触がして、開かれる。
誰かが指で瞼を開いたのはわかるが、その肝心な誰かはわからない。
レオをこんな目に合わせたやつの、人間の顔が目の前にあるのに、目の中は血でいっぱいで、誰が目の前にいるかわからない。
知りたくて知りたくて仕方ない人物を、レオは知ることができない。
そのままその誰かはそっとレオの瞼を閉じるのだった。




