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第三十話



 頭部を壁に強打して、無理やり時を遡ってきた。

 『蚊王』に殺された時とは違い、今度はちゃんと記憶がしっかりしている。

 レオは同行していた3人の顔を見ると、意を決したように──


 「走るぞ!!」


 と、それだけ言うと全速力で回廊を、霧が立ち込めて進めばどんどん濃くなる、お互いの顔すら確認できないほど濃くなる霧の中を、めいいっぱいの力で地を蹴る。


 駆け出したレオをみて、弾かれたようにマルカブとメラクも走り出す。

 アンティリエも「ひ、ひえ〜」と情けない声を上げながら走り出す。

 どれだけの距離があるかもわからない。

 一キロ程度なのか、十キロ程度なのか、マラソンのペースではない、明らかに短距離走を走るようなペースで足を回す。

 レオの判断は間違っているのかもしれないが、ここで何もせずに殺されるなんてたまったもんじゃない。


 「──はぁ、はぁ。」


 進むに連れて、霧が濃くなっていく。わかっていたことだと脳に言い聞かせる。

 後ろにマルカブやメラク、アンティリエはついてきているのだろうか。

 彼らを信じて、レオはひたすら、走る、走る、走る。

 襲われることなく、ちゃんと着いてきていると信じて、走る、走る、走る。


 「──はぁはぁはぁはぁはぁ。」


 口を大きく開けて、肺にめいいっぱい空気を取り込む。湿度の高さも相まって、肌に張り付く汗を吸収した服が重い。

 水分を吸収した布が、レオの呼吸を阻害しているが、それでも走る、走る、走る。


 その場に座り込んで、体力の回復を図りたいと言う衝動に駆られるが、今ここで止まったって後で苦しむだけだ。

 鉛のように重い足を、動かせば動かすだけ悲鳴を上げる筋繊維を酷使して、走る、走る、走る。

 ふくらはぎが熱を帯びて、膝が壊れそうでも、肺が締め付けられても、胃が握られるようにいたんでも、横腹に束縛感を感じても、脳に血が上らなくとも、心臓が人生史上、最も激しく動いても、走る、走る、走る。


 レオは知っているんだ。

 もう何度も経験しているから知っている。

 この程度で人は死なない。

 苦しめると言うこと、それは死から最も遠い状態を指す。

 死ぬ瞬間は、いつも無感覚で、痛みも苦しみも恐怖も怒りも悲しみも絶望も希望も、全て等しく消し去る。

 その存在を隠すのではない。

 こぼれ落ちて、届かないところに行ってしまうのだ。


 だから、この痛みも苦しみも恐怖も悲しみも絶望も希望も全部、全部がレオのものだ。

 生者、八神玲央が独占したいのだ。


 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、」


 頭から思考が奪われても走る、走る、走る。

 レオは理性で動いてない。理性なんてかなぐり捨てて走る、走る、走る。

 理性なんて持ち合わせていたら、きっと足を止めてしまう。

 足を止めないために、走る、走る、走る。

 足を止めないため? そうだ、レオは走るために走っているから、走る、走る、走る?

 走る、走る、走る。


 走るために、走るから、走って、走りながら、走って走って、走り回って、走り切って、走りたいから、走っているのだ。

 

 頭をには何もない。

 あるならそれは走らなければならないという強い使命感。

 使命感? そんな取ってつけた衝動じゃない。

 これは、本能だ。使命感なんて半端なものじゃない。

 八神玲央は走るために生まれたのだ。

 だから、走って、走って、走って、走って───


 走るから、走って。走っているから、走れて。走らなくなったら、走れなくなるから。

 

 視界は暗転していた。意識はなかった。呼吸も惰性で、足も勢いのままに動かしていた。

 ただ、やけっぱちな感情がレオの体を無理やり動かしていた。

 デッドラインなんて優に超えているんだ。


 だから、理性なんてものが存在していたらわかっていたことが───


 「───あ、っ、!!」


 足が上がらなくなり、膝から前方に崩れ落ちる。

 疲労の溜まった足に、膝を伝ってふくらはぎに新鮮な衝撃が走る。

 その衝撃は、本来大したものではない。

 若いレオの体は頑強で、筋肉も柔らかいからだ。

 ならば、全速力で何キロも走り続ければどうなる?


 曲がった右膝に、左足も絡まって倒れる。

 腕を突こうにも、全身に巡る酸素濃度の異常なまでの低下が引き起こす脱力感が思うように体の自由を与えてくれない。

 膝より上に上がらない腕は、レオの体の前に現れるだけで、上半身を支えるまでには至らない。

 それはまるで老人のヒヤリハット現場のようであった。

 顎に広がる激痛が脳を揺らして一瞬頭が白くなる。

 直後に腕が捻じ曲がる感覚がなければ間違いなく意識を手放していただろう。


 「あああああああ!!!」


 うつ伏せの状態から仰向けになるように身を捩る。

 背中から押されるように肺が働き、肋骨は広がるのに背筋はぴくりともしない。

 呼吸はさらに早まる。それにもかかわらず、取り込む空気は薄まっていく。

 過呼吸症状が出ていることに気づいたが、対処のしようもない。

 ひーひー、ひゅーひゅー、と掠れた息が真っ白な濃霧の世界に波及する。


 頭が痛い。耳が痛い。口内が痛い。顎が痛い。肩が痛い。胸が痛い。腕が痛い。内臓全てが痛い。足が痛い。

 

 痛い、痛い。


 だから、


 「ひー、か、、ひゅー」


 苦痛があるうちは大丈夫だ。

 きっと傷は治る。呼吸は戻る。でなきゃ困る。治らなきゃそれは『死亡』したということだ。

 

 痛みとは対照的に、身体はまるで反応を返してくれない。少しでも身体に優しさがあるなら指の一本でも返事をしてほしい。

 そんなレオの願望も儚く相手にされていない。

 

 「───い、───ふけっ」


 無理やり口を閉じて、鼻だけで呼吸する。苦しくても過呼吸を無理やり解消しようとする。

 震える膝を床に押し付けて、背筋と首の筋肉だけで、幼虫のように地を這い回る。

 充血した目から水分が干上がり、松明でも眼球の裏に入れたみたいに熱い。

 

 「──おおおおおお!!!」

 「──?」


 足の裏を見せている方角、レオが走ってきた方から叫び声が聞こえる。

 誰かが、おそらくレオの名前を呼んでいるのだと思う。

 

 「あああああ、あああ! 

 ごふぉ。───うえぶ、ああああ!!」


 めいいっぱいの声で叫ぶ。

 赤子が村から離れて母親を探すかのように、自身の存在を必死にアピールする。

 その思いが伝わったのか、息を切らしながら、足を引きづりながら前に倒れるマルカブと、膝に両手を置いて、ぜー、はーと呼吸するメラクの姿があった。

 

 「──、あー、ったくよ。少年、人が悪いぞ。

 いったいなんだってこんなことに。ぐおほ。」


 レオのすぐ横に座り込むマルカブ。

 腰に携えた木剣を黄緑色に発光させて、それをレオの背中の上に翳す。

 その光がレオの体を癒していき、虚脱感や疲れ、痛みや怪我が治っていく。

 ただ、酸素欠乏状態は維持されたままで、まだ呼吸が浅い。

 ただ、それも次第に収まる。

 

 マルカブは木剣を自分に向けて、自身の体力の回復を行なっている。

 ヒーラーはどこにいても活躍できる。マルカブはこの4人の中で唯一と言っていた治癒能力保持者だ。

 すぐに自分の治療から切り上げてメラクの方へと向かう。

 その様子を見ていて、驚いたことがあった。


 「──あー、たすかりまふ。まふ。よ〜。」


 メラクの背中からずり落ちる一つの影。

 

 「まさかメラク、アンティリエ担いでここまで走ってきたのかよ。まったくとんでもない体力してやがるな。」

 「力なら、レオ殿、だって十分ことたり、る。でしょう。」


 その言葉を聞いて自分の頭の回らなさに嫌になる。

 確かにそれはそうなのだ。だから、メラクにその役目を押し付ける結果になったことが嫌だった。

 もちろん、メラクがレオに嫌味を言ったわけでもないし、純粋に返事をしただけなのだが、自分のできることを他の誰かに押し付けてしまったのが、それも助けると誓ったアンティリエを、メラクに助けさせてしまったのが歯痒かった。


 「ありがとうメラク。俺はそこまで頭が回らなかった。」

 「いえいえ、にしてもよく気がつきましたね。レオ殿。」

 「ん?」

  

 素直に謝ると、メラクから意外な賞賛が帰ってきて会話の食い違いを感じる。

 すれ違いコントみたいなことにはならず、その謎はすぐに解消される。


 「皆まで言わせるな少年、霧が移動していることに気がついて、すぐに走るって選択をしたんだろう?

 おかげで──」


 一呼吸おいて、マルカブが木剣で風を生む。

 突風が重苦しくのしかかっていた霧を吹き飛ばす。


 「なんとか脱出できたみたいだぞ。」

 「お、おお。」


 そうだったのか池上、、、ではなくそうだったのかマルカブメラクだ。

 解法は間違っても答案で正解した気分に陥る。

 ただ、出たとこ勝負なのが人生だ。過ぎたことをくよくよしていても仕方ないかと開き直ることにした。


 「き、霧が晴れた。」


 ぼーっと様子を伺っていたアンティリエがつぶやく。

 さらに続けて、


 「どれだけ長い間いたんですかね。体感だと20分とかなんですけど。」

 「それはアンティリエ殿が気を失う前までの時間なので実際はもう少し長いと思いますよ。」


 アンティリエとメラクの会話を聞きながら困惑する。

 この世界に来て、自分の能力が向上したりありえない力を生み出せたりするのは受け入れていたが、まさか20分以上も全力疾走できる肉体になってしまったのかと驚愕する。

 

 「つーか、どんだけ長いんだよ直線距離。」


 これだけ歩いてまだ先があるのかと、参考方向へと目を向けると、荘厳な扉があった。

 あれと似た作りの扉をレオは知っている。否、レオだけでなくアンティリエやマルカブもだ。

 だから、レオの視線の先に、沈黙の意味に気づいた2人は飛び上がってステップを踏みながら走り出す。


 「目的地、到着!!!!!!」


 ***


 緑青色の金具に触れて中に入る。

 

 「お、おう。」


 中にはアルゲディたち4人がいた。驚くようなことではない。予想できたことだ。

 彼女たちだってここから逃げるために探索を試みていた。


 「なんであなたたちがここに。」


 だから、レオたちにそれほどの驚きはなかった。ただ、彼女たちは違った。いや、メサルティムには違った。

 彼女は、レオたちがここにきたことに驚愕していた。彼らが降りてくるなど梅雨にも思っていなかったのだろう。


 「どうして来たんですか。」

 

 メサルティムの問いかけに答えたのはレオ。


 「ただみんなの帰りを待つのも──わかるだろう? 俺たちも、俺たちなりに脱出するための術を探していたんだ。

 だから、ポラリスがいってた『蛇の部屋』を探索しに来た。」

 「──なるほど。そうでしたか。」


 それだけ言うと、メサルティムは、アルゲディや龍怜、ポラリスに対して、片づけるように促した。

 そして、レオたちに向けて、


 「それでは、お先に失礼します。」


 と、ひと足先に外に出ようとした。


 それを、レオは名前を呼んで制止させる。


 「待ってくれ、メサルティム。」

 「───、なんですか。」


 裏葉色の瞳を細めてレオを見据える。

 鴇色の瞳はまだ探索したかったのか、レオの制止を受けて、目線を部屋の方へ向けて、探索に戻った。

 

 今返せば、『蚊王』や『蚊軍』と鉢合わせる可能性がある。レオは、あんなものと人が対等に渡り合えるなんて思わない。

 アルゲディやメサルティムが優秀な魔術士であるとしても、あれは理を外れた力や、それこそスキルがないと太刀打ちできない。

 だから、彼女たちに死んでほしくないから引き留める。


 「今戻っても、殺されるだけだ。」

 「?」

 「『蚊王』が徘徊してるんだよ。なんでかはわからないけど、アイツはここを歩いて回ってる。

 今出たら殺されるだけだ。」


 どう言うわけか、『蚊王』はレオたちを見つければ必ずと言っていいほど殺しにくる。

 もう嫌ってほどに殺されているため、確信している。

 『蚊王』はレオを、あるいはレオたちの誰かを目印にして追いかけてきている。

 初めて会った時も、『不死鳥の部屋』に来た時も、そして今も。

 ずっとタイミングよく現れるなんて、それこそ居場所がわかるのだろうと考えるのが普通だ。

 

 「そ、それは、そ、それ、それは、ほ、ほん、ほ本当なんですか!?」 

 

 扉の柄に伸ばしていた指を、そっと自分の胸の前に戻す。

 そしてすぐにアルゲディに目戦を向ける。両者の双眸が交錯すると、2人だけの会話がなされたらしい。

 レオや、アンティリエたちにはわからないコンタクトのちに、アルゲディはカバンの中から、銀色の筒を取り出すと、それをスナック菓子の蓋みたいにスポッと開けて、地面に立てておく。


 「早く集まって!!!!!!」


 彼女の、アルゲディの必死な形相と声音に導かれてレオたち7人は彼女元へと駆け寄る。

 筒を中心に顔を合わせて集まる。するとアルゲディは集めた理由を話し出す。


 「これは時間制限付きの結界術の施された道具よ。そういう機器だと思って。

 説明しなくてもわかると思うけど、これは隠密様よ。」


 彼女の言葉を遮って尋ねるのはアンティリエだ。


 「それで隠れられるんですか?」

 「より正確に言うと、『ヴァンデミアトリックス幽域』を、この道具を中心に半径8メートルを中和したってのが正しいかしら。」


 今の彼女の説明でよりわけがわからなくなったとレオとアンティリエは思った。

 一体なんの話をしているのか。結界なのか化学なのか。

 そんな2人の様子を見てとって感じたのか、根本的な説明から入る。


 「貴方たち、いや、まあ、そうよね。学なしのお馬鹿さんたちだったわ。忘れてた。」

 「むう!」

 「学がなくて悪かったな。こちら学生様にすらなれてない生徒様なんで。」

 「『ヴァンデミアトリックス幽域』は『蚊王』の使った結界よ。なぜ幽域って呼ばれてるかわかる?

 それはね、結界にしては規模も精度も規格外だからよ。人が作ってたら神域とか呼ばれてたんじゃないかしら?

 まあ、魔物が作ったから幽域なんて呼ばれ方しているけれど、『ヴァンデミアトリックス幽域』は世界最高の結界術士、いや違うわね。『歴史上最強の結界術士である蚊王』の結界。

 そんな蚊王の結界ないに入るのよ。こっちだって何があるかわからない。だから、その結界を結界で中和するための準備くらいはしてある。

 正式名称は『高濃度張結界』っていうけど、筒でいいわ。

 ここまでお分かり?」


 挑発する様な顔の彼女であるが、まあ話したいことはわからなくもない。

 酸性の風呂に入るようなものだから、アルカリ性の液体を準備しました!!

 みたいなことを言ってるはず。

 でも、だったらなぜ今まで使わなかったのかという疑問が生まれるが。


 「なぜ使わなかったのかと、凡俗が考えたので教えてあげるわ。このアルゲディ様が。」

 「凡俗て、、、人の思考覗き見るのやめてくれ。」


 「普通の結界はね、半径10メートルくらいなのよ、広くても50メートルとか。そんなところよ。

 でも、『ヴァンデミアトリックス幽域』は世界に結界を張ってるわけじゃない。私も原理は知らないわよ。『蚊王』じゃないから。

 『ヴァンデミアトリックス幽域』は異空間に結界を張ってるの。それが本当に意味がわからない。

 なによそれ、って、結界魔術を学べば思うわ。

 異空間に結界を張ってるから、広さだって無制限なのよ。なぜなのって聞かれても知らないわよ。私は『蚊王』じゃないから。」


 一呼吸起き、指を立てて続ける。


 「まず銀の筒(コレ)は高価なの。だから頻繁に使うものではない。

 それに、今私たちが生活している場所あるでしょう。あれも一種の高度な結界よ。」

 「───、というと?」

 「簡単よ、(コレ)と同じことを、より広い範囲で、永続的に続くように結界を張った誰かがいた。お分かり?」


 お分かり?と訊ねられても、こちとらNOだよ。

 いったい今は筒の話しているのか結界の話しているのかもわからないよ。

 俺だけか? 俺だけじゃないよね? ね、そこの君。そこの君もわからないよね?


 「わかるような、わからないような。」

 「この凄さ、あなたたちにはわかりませんよ。ね、師匠様。そもそも他人の結界ないに自分の結界を作れば普通、どちらかが崩壊するんですよ。

 それを崩壊どころか安定させてるのが怖いんですよ。」

 「レオくん、わかりますか?」

 「アンテ、俺にはさっぱり。」


 そんな2人の様子を見ていたメラクが、「上手く伝わるかは分かりませんが、」と前置きしながら、


 「水の中に油を入れて、浮かび上がらないようにしているんですよ、あの安全な空間は。

 普通の油なら浮かび上がるでしょう?

 この筒も時期に効力を失う。だから、今のその筒を油滴に例えるならば、水面に浮かび上がってきている瞬間ですね。」


 油が浮かないようにするのは確かに普通の人にはできそうにないよな。多分。

 科学の力でなんとでもなりそうだと言うのはやめておく。例え話だし。


 「『ヴァンデミアトリックス幽域』には索敵機能もついてる可能性があるって話よ。」

 「あー、術式の中和か! はいはい。なるほどね。」


 納得がいった。ただ、レオとは違いアンティリエは納得できないようだ。


 「えーと、レオくんはわかったのですか?」

 「本質はわからないけど、言いたいことはね。」


 それが面白くないのかアンティリエは唸り続けている。そんなアンティリエを見ていたマルカブは、「俺も全くわからないぜ!!」といい、ポラリスも、「ボクもわかりません。わかることはボクが、なにも、わから、ない、、、えぐす、。ということ。トホホ」と呟いていた。

 彼らの嘆きの途中で話し始めたアルゲディが、


 「その術式がなにを刺しているのか、私にはわからないけれど。

 『ヴァンデミアトリックス幽域』には私たちや『蚊王』以外の誰かがいたのは確実でしょうし、結界を張った人と石板を残した人は同一人物であることは確定。さらに言えば、ポラリスさんも何かしらの関係のある人物ではあるのよ。」

 「らしいぜポラリス。」

 「うー、わからないですよ。」

 「まあ、貴方たちに期待なんてしていないわ。はなっからね。

 でも情報は確かだったわね。」

 「ん? どう言うことだ?」


 「『蛇の部屋(ここ)』も『ヴァンデミアトリックス幽域』じゃない。かと言って安全地帯ほど中和もされてない。

 『ヴァンデミアトリックス幽域』と『安全地帯』を平衡状態に保ってるのよ。たぶん、意図的に。

 これをやったのは天才よ。私が嫉妬するレベルだわ。」

 「え、アルゲディって嫉妬できるのかよ。」

 「失礼ね。今まで私の周りに私を嫉妬させてくれるような天才がいなかっただけで、ちゃんと上には上には上がいるって知れたからいいでしょ。」


 なんとなく、会話が噛み合っていないような。

 ただ、彼女の鴇色の瞳にじっと見つめられると、レオはなにも言い返す気が起きなかった。

 心がざわつき、思わず視線を逸らしたくなる。

 これは今朝のことを引き摺っていて、申し訳なさから来るものなのか、あるいはそれとは関係のない独立した感情なのか、レオにはわからない。


 「さあ、お馬鹿さんたち、なにか言いたいことはあるかしら?」


 真っ先に手を挙げたのは、意外にもポラリスであった。

 馬鹿1号、と指をさしながら促す。


 「『ヴァンデミアトリックス幽域』から出られないのはなんとなくわかってたんですけど。

 ですけどね、さっきの説明で、『ヴァンデミアトリックス幽域』は結界? の一種だと言ってたじゃないですか。

 他の結界なら出入りを自由にできたんですか?」


 おお、感心した。まさかポラリスからそんな疑問が出るなんてと、アルゲディは感じた。

 結界魔術の素養があるのかも知れないとも感じたが、同時にお株が奪われかねないとも思い、ポラリスの質問に真面目に答えるか迷ったが、みんなの前もあるため、ちゃんと答えることにした。


 「普通の結界は半径10メートルくらいって話をしたでしょう?

 だから、中心から10メートルもあるけば、結界の境界線に触れられるのよ。ボーダーって言ったりもするんだけれど。

 普通はボーダーって中心を基準にして決まるものなのよ。移動もしないわ。

 でも、『ヴァンデミアトリックス幽域』はそこも違うは。

 そもそも中心が存在していないくせに、境界線は動き回る。

 結界術士泣かせもいいところよ全く。

 だから、入った時のこと、貴方たち、レオくんとポラリスさんを除く5人は覚えているでしょう。

 普通の面だったのよ。

 だから、すぐ出られると思ったのよ。」


 地面を見つめながらいう彼女に、メサルティムが、「師匠様が悪いわけじゃないですよ。あれは異例すぎました」と励ましている。

 

 「はっきり言って無茶苦茶なのよここは。それは身をもって体験しているからわかると思うけれど。

 『ヴァンデミアトリックス幽域』を結界とは違う独立したものだって主張する可哀想な魔術学者もいるわ。そういうのって、大抵学会で相手にされずに民間で変な教祖的扱いを受けたいがために言う俗説なのだけれど、それを信じたくなるくらいには理屈じゃないのよ。

 もちろん、理屈を突き詰めたから『ヴァンデミアトリックス幽域』なんでしょうけれど、それでも無茶苦茶よ。昔の人はよくもまあ、こんな理不尽な極みみたいな奴と戦おうとしたわね。」


 「はは、『光輝教団』にも理屈じゃない人間がいたんですよ。」

 「でしょうね。じゃないと『サムムカーティル』に襲われた、恨み買われて1番攻撃されて、組織として残ってるわけないわ。

 とんでも組織よ、本当に。」


 「あー!」

 「ど、どうしたんですかアマネさん。」

 「いや、もしかしたらさ。いやでも。」

 「なに? 聞きたいことがあるんじゃないの?」

 

 促すようにアルゲディはいう。

 それに観念したようであった。


 「中和した空間なら、スキルって使えるのではないですか?」


 それはまさに盲点で、青天の霹靂であった。


 <<<ヤガミ レオ 16歳

 体力   D+

 筋力   B-

 防御力  D

 魔力   E

 魔法防御 D

 瞬発力  C


 メインスキル  『剛体化Ⅰ』

 サブスキル   『演算Ⅱ』

 ユニークスキル 『逆転Ⅰ』

 コモンスキル  『加速Ⅲ』

         『無反応性化』



 魔術  『土魔術・初級』>>>


 

 レオには、強敵と渡り合えるだけの力がある。

 しかしそれは、この空間では使えないものだった。

 逆転の発想だ。


 アルゲディの答えも待たずにレオはメインスキルである、『剛体化I』を起動させようとする。


 「──それは無理でしょうね。」


 その言葉と同時に、レオの中に落胆が生まれる。

 なんせ、スキルが発動しなかったのだから。

 

 希望が絶望に変わる瞬間は、今まで、この世界に来てから幾度となく経験してきた。

 それこそ、普通の人が人生で一度味わうか味わわないかのレベルの刺激を、何度も、何度もだ。

 この絶望はそれを勝って、引き離すもの。


 「──あ、ああ。」


 「ごめんね、レオくん。確証がなかったから言うか迷ったの。私のスキルは対象がいないと反応しないし。使うと洒落にならないから、試せなかったの。」

 「──、いや、龍怜さんの、謝ることじゃないよ。俺こそ、みんなの前で、こんな顔をするなんて申し訳ない。

 自分だけ助かろうなんて、ダメだな本当に。」


 そう口では言うものの、本当は今にも逃げ出して1人になりたかった。

 

 「やっぱり、『蚊王』はちゃんと他人の結界にも干渉してきているわ。なにかを犠牲にしてなにかを得ている。それはわかってたのよ。

 おそらく、探索を犠牲にしてスキル封じに専念しているわ。本当にとんでもない奴や。」


 聞けば聞くほど、『蚊王』が主人公の物語みたいになってきて嫌になる。

 なんなんだよ、あいつ。意味がわからない。

 てか、あいつだれだよ。

 ポッと出のくせに最強キャラみたいな顔して、ふざけんな。どっかいけよマジで。

 脳内でそう、悪態をつく。


 「アルゲディさん!」

 「なにかしらアンカス。」


 レオの内心をよそに、外での会話は進む。

 アンティリエとアルゲディの2人の会話がだ。


 「この後はどうするつもりなんですか?」

 「この後はというのな、筒が時間制限付きだってことを含めてよね。」

 「はい。」

 「そんなの、走って逃げるのよ。聞かなくてもわかるでしょう。常識で考えて、貴方たちは馬鹿なのかしら?それとも脳が恐怖で萎縮しているの?」

 「うげ、また走るのですか、、、。」


 その言葉を耳にして、レオはとてつもなく不快感に襲われる。

 足の痛みと全身に血が曲がらなくなっていく感覚と、それと反比例するように心臓が破裂しそうになる記憶が新しい。

 だから、アンティリエと同じような感想を持ったのはレオだけではない。


 マルカブは叫び、メラクは項垂れる。

 そんな4人の様子を見ていたアルゲディたちは、「Huh?」と顔を前に出しながら、猫みたいに呆れていた。


 が、レオは逆だと言いたい。

 ヤギみたいに訳のわからないことをいって、それこそレオたちからすれば、その言葉は「(驴ひ绿evs…!#며ㅔ珍woso」みたいに聞こえて、こちらが、「Huh?」と言いたい。


 「また、走るのかよ。」

 「八神くんたち、走ってきたの?」

 「龍怜さんたちは歩いて?」

 「はい、走る理由はなかったですし。むしろなんで走ったのか聞きたいですよ。」


 色々あってんよ!って言いてえんよ!


 「行きはレオくんに走らされて、帰りはアルゲディさんに走らされて、アンテの人生は、訳のわからん人間に走り回される人生なんかじゃなああああああああああああああああああああああああああいい!」


 という、アンティリエの叫びが木霊するのだった。

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