第二十二話
レオたち4人が『蚊王』と遭遇した同刻、ポラリスが暮らしていた部屋に残っていたアルゲディ、メサルティム、龍怜天音は彼ら4人に告げた通り探索を、そしてメラクは今なお気を失っていた。
アルゲディは龍怜の見つけた文字の解読に勤しんでいた。
文字は人間が使っているものではなかった。
もう何年も使われていない、
「『ホップコード』だったかしら。」
記憶の隅にある知識を引っ張り出してくる。
持ち物の中には世界各国の主要な言語から、少数民族の扱う言語まで取り揃えた辞書がある。
そこからどんどん翻訳作業を進めていく。
「あの魔物がこれを認識していたとはお思えないわよね。いえ、認識していても理解できなかったと見るべきかしら。」
ポラリスがここに数十年以上暮らしていて気づかないわけない。
状態の良いその石版からは調査の跡などは見つからない。
あるいはポラリスが凄腕の探検家という線もないわけではないが、だとしたら別の疑問が湧くだけだ。
石版に刻まれた文字にそっと指をなぞらせて、形を確認して辞書を引いていく。
見たかった石版に刻まれた文字はそれほど多くはない。無論、ここからさらに増加する可能性はあるが、多く見積もっても数日で間に合うであろう作業量だ。
単語の意味を書き出し、意味が通るように文字を並び替えていく。
こんなことなら文法書も持参するのだったと後悔する。
「あの、アルゲディ。今いいかしら?」
「どうかしたのかしら。」
作業に没頭するアルゲディに龍怜が訊ねる。
彼女の鼻には埃が少し被っており、それを龍怜が指で取ると、
「食事や排泄した形跡は見つからなかったわ。
睡眠形跡も召喚されたという線も薄いと思う。
彼女? も少し記憶に問題があるようだったし、得られる情報としては悲しいくらいに乏しいわ。」
アルゲディの要請でポラリスの生態について調べようと、あれこれと物色したのだが、
「せめて糞尿でもあれば魔物の生態の謎に一方近づけるというのにね。」
「うわぁ、」
アルゲディの発言にドン引きしたのは龍怜。
その態度に文句ありげに、
「どうかしたかしら?」
と問いかけるアルゲディに対して、
「なにがそこまであなたを突き動かすのかわからないだけよ。私は別に生き物の排泄物になんて興味ないし。」
龍怜の物言いに、流石のアルゲディも心外とばかりに、
「やめなさいよ、まるで私が排泄物大好きな女の子みたいじゃない。」
と、唇を尖らせて抗議する。
その抗議には耳を貸さずに、
「これは何の本かしら?
見たところ辞書っぽいのだけれど。」
「私の師匠の書庫から取ってきたやつよ。あの人、専門は魔工学なのに、全く関係ない専門書なんてあるから、私がありがたく頂いているのよ。」
そう嘯くアルゲディに龍怜は、「待って」と言葉を遮り、
「それって盗るってことかしら?」
「拝借よ」
「許可は」
「そんなもの、私と私の師匠との間柄には関係ないわよ。」
「嘘ね、あなたからは嘘をついている声がする。」
そう言う龍怜の言葉に、バツの悪い表情を浮かべたアルゲディが視線を逸らして、
「ほら、あっち行ったあっち行った!!!」
と龍怜を追い返すのだった。
龍怜が翻訳作業に没頭しているアルゲディのいる部屋を去ってから、
「龍怜のスキルも謎が多いのよね〜。
気になることばかりが降り積もって、研究が先に進まないと言うのは、研究者として贅沢な悩みを持ったものね。」
と1人呟くのであった。
*
「アマネさん、お疲れ様です!」
「メサルティムちゃんもお疲れ様。」
「いえいえ、私はメラクを見張っているだけですので。」
龍怜がメサルティムにあった理由は単純で、メラクの見張りの交代時間になったからだ。
まだメラクは眠りについている、そう思っていたのだが、彼に被せられていた毛布が捲られる。
そこから、彼の巨躯が片膝を上げ、左手で地面を押して立ち上がり、眠気まなこをこすりながら、2人を見やる。
そして、首を触りながら、「いつつ」と声を漏らすと、
「2人とも、えっと、」
と、声をかけたがかける言葉が出てこない。
しばらくの沈黙ののち、静寂を突き破るように力強い声が透き通る。
「起きたのかしら。単細胞狭信徒」
いつのまにか部屋に入ってきていたアルゲディの声であった。
あまりにも思いやりに欠けるその言葉に、弟子であるメサルティムの表情が凍る。
龍怜はため息をひとつつくと、
「単細胞って、確かに彼は話が通じないこともありますが、基本的に臨機応変に対応できますよ。」
と、フォローになっていないフォローいれる。
その2人の言葉がメラクの心臓に深く突き刺さったのか、「ぐえっ」とうめき声を上げるとその場にへたり込む。
アルゲディは一冊の本をメラクに手渡すと、
「聖典だったかしら、これ。私もざっくりだけど目を通したわ。」
「ほ、本当ですか!」
「ええ、貴方が言っていることが本当なのか気になってね。勝手だけれど許しなさいよ。」
「も、もちろんです。今はこんなボロボロのものしかありませんが、新品であればその神聖さに心打たれること間違いないで」
「ああ、いらないから。押し売りとかはやめてね。」
メラクの言葉を最後まで聞くことなく、言葉を遮って、切って捨てる。
その容赦のない物言いに、メラクは巨躯を小さく縮こませる。
「単細胞狭信徒、貴方が魔物や魔人族を心から憎々しく思っているのもわかった。
でもね、今この場を仕切っているのは私なの。最終的な決定権は私にある。私が言いたいことはわかるわね?」
居丈高に宣うアルゲディの物言いに、歯軋りをしながらも目を合わせると、手を振って説得する。
「もちろん、ただ、理由もなく、私の考えを切り捨てるのは早計だと思いますよ!
これは、一メンバーとして」
「最後まで話を聞きなさい」
その言葉に、龍怜はどの口が言っているのだろうと思ったが、ここでわざわざ話の腰を折るようなことはしない。
できる女(自称)は一味違うのだ。
「私も何も貴方に黙って泣き寝入りしろとは言わないわ。
だから、あのポラリスを殺処分するだけの説得をしてみなさい。
納得させられたら、煮るなり焼くなり研究対象にするなり好きになさい。」
最後の方は私情が絡んでいたのではないか?
なぞという野暮なことをいうメンバーはここにはいない。
アルゲディの提案に、わざわざ噛み付く要素もない。
それは、メラクとしても望むところであるからだ。
「ただ、」と指を前に出してアルゲディは、
「それは、あの魔物を殺さないと選択する人間にも平等に与えられるべき権利よね。」
「ふーむ、」
アルゲディの提案は至極単純。
殺処分、賛成派と反対派で、私を説得させられた方が勝利。
「いいでしょう。私から言えることはないですね。
それで、その討論会はいつになるんですか?」
「そうね、彼ら4人が帰ってきて、夕食を終えてからにしましょう。」
「決まりですね。そうと決まれば、私は今から準備に取り掛かるとしましょうか。」
***
回廊を全速力で駆け抜け、階段を下り、一度ポラリスが暮らしていた安地へと戻ることにした。
安地に戻ると入り口前には目を覚ましたメラクの姿があった。
メラクがいることに、レオたち4人の間に緊張が生まれる。
しかし、そんな4人の様子などどこ吹く風といった様子で、ニコニコした穏やかな表情をしながら近づいてくる。
咄嗟にレオはポラリス。庇うように前に出る。
それをみていたアンティリエやマルカブもレオの前に自身の体を前に出して、
「それ以上近づくな!!」
「そうだ、それ以上近づくならアンテが串刺しにしてやる!」
と、番犬のように2人を守る。
その様子にメラクは歩みを止めると、
「先ほどは気を取り乱してしまい申し訳ありませんでしたね。魔物。」
謝罪までは穏やかな声音であったが、最後、ぼそっと発した言葉には憎悪の色が隠せていなかった。
頭を見せて、腰を折る姿からは今もなおその狂気性に無理やり蓋をしているのか。
「魔物じゃない。ポラリスだ!」
と、抗議したのはレオだ。
レオとしても、ポラリスは既に心を許した仲間である。
そんな仲間を雑多な魔物扱いされたことに憤りを覚えていた。
「はは、まだ、そうでしたね。」
「なに?」
「今夜、夕食の後、そこの魔物の処遇を決めるための裁判が行われます。
処分するのか? 処分しないのか?
その是非をアルゲディ殿が決断なさる。
私たちは、アルゲディ殿がどのような結論を出すのかの討論を行うんですよ。」
訝しむような目を向けるマルカブ。
アンティリエは、
「そんなこと、アルゲディさんは許可をしたのか!」
と、強い言葉で聞き返す。
「当然、この提案は彼女の方からしてきたものですよ。
今更反故にされたなら私は彼女も、裁きますよ。」
その言葉を聞いて、レオは面倒なことになったなと感じた。
後ろで怯えているポラリスを安心させるように手を握る。
「待てよ、俺たちはそんな話聞いてない。
今さっきまで『蚊王』とか変な奴らに襲われたところで、報告することが沢山あるのに。」
「はは、それは終わってからでも大丈夫でしょうね。
決まりは決まりです。大人しく従ってもらいますよ。お互い、ルールのもとに戦いましょうか。」
「っち、どうしますか、パンパン先輩。」
「クソ、俺たちに選択権なんてないに等しいぞ。
参加しなきゃ、アルゲディ嬢は奴の意見だけを元に結論を出すことになる。」
「よくわかっておられますねマルカブ殿。これは、認識を改めておいた方がよいですかな?」
マルカブの指摘は真っ当で、レオたちに選択はないに等しい。
黙ってポラリスを見殺しにするか、戦ってポラリスを守るか、だ。
「いいぜ、その勝負。どの道、お前とはキッチリと話し合わなきゃならないと思っていたところだ。
お互い恨みっこなしで、討論しようぜ!」
「ええ、楽しみにしていますよ。」
そう言うメラクの目は怒気を孕みつつ、声音は神父のような優しさに満ち満ちていて君が悪かった。
ボロボロの聖典に似つかわしくないゴツゴツとした大きな手が力を入れてギュッと握りしめると、裾を翻して安地へと入っていった。
「お兄さん、あの人。」
瞳が震えているポラリスの頭を優しく撫でる。
アンティリエはポラリスの肩を叩き、マルカブは背中をさする。
「大丈夫、あんな奴に、俺たちの妹分を殺させっか。夕食まで論を練りになって、ぶっ飛ばしてやろうぜ。」
「そうだぜ、俺たちの絆は鉄よりも硬く、鉄よりも硬い!
鉄の契りだから鉄なんだ!」
「パンパン先輩、なにいってるかわからんて。
まあ、アンテたちは4人、あっちは1人。4人の知能を結集してボコボコにしてやろうぜ!」
「みんな、そうだね。うん。ありがとう。
ボク、少し怖気付いてたよ。あんなの、『蚊王』に比べたら屁でもないよね。慰めてくれてありがと。
まだちょっと怖いけど、それでも戦うよ!」
4人肩を組んで円陣を作る。
マルカブが、
「勝つぞおおおおおおおおお!」
「おおおおおおおおお!!!」
***
一度安地に戻ると、レオたちよ何は声の守らない個室へと向かった。
来る討論の場にてどうやってアルゲディを丸め込むかの話し合いをしにきたのだ。
「つっても、こりゃあ突然決まったことだし、テーマはポラリスを存続させるか否か。」
「ポラリスを殺さないための理由をしますこと、ですよね。」
レオの言葉にアンティリエが返す。
「ポラリスはこの『ヴァンデミアトリックス幽域』の数少ない有識者だ。
その『ヴァンデミアトリックス幽域』の調査に来ているアルゲディとしても使える人材だと認めさせることができれば。」
「確かに、ポラリスの有用性を示すことができる。と。」
「そうだな、ポラリスの有用性を示すことを主軸に論を展開する。その方針で行こう。」
4人の中で討論会の場での主張は定まった。
意見を出していく中でもっとも相手に伝えなければならない主張が決まったのなら、
「ポラリスが知っている情報は具体的にはどんなものがある?」
「ボクがさっき話した鳥さんと蛇さんがいる部屋があることと、他には頭くらいの大きさの虫さんが大量にいるのと、みなさんがいうここ、『ヴァンデミアトリックス幽域』にはみなさんみたいにたくさんの人が訪れていて、その度に死人が出るんですけど、その死体を、どうやら『蚊王』が1箇所にまとめているという情報。あとは構造くらいで、これは探索していけば誰でも時期にわかることなので有用性には乏しいですよね。」
「ふむ」
ポラリスの知る情報は、
①『不死鳥』とまだ見ぬ『蛇』の情報
②インセクターズと思われる魔物の情報
③『過去の訪問者』たちの亡骸のありか
④『ヴァンデミアトリックス幽域』の構造
この四つとなるか。
「頭の中で考えてみたが、少し探索したら誰でも分かるような情報ばかりですね。」
「ちょっと、もう少しオブラートに包もうとかしないのかな!」
「うう、役立たずで申し訳ありません!」
アンティリエの配慮の欠ける発言にレオが注意する。
その言葉に自信を失ったのかポラリスは俯く。
「ポラリス、ここから脱出する方法とかないのか?」
「わからないです。ボクの知ってる範囲では外へ出られたことがないので。」
外へ出る手立てが知れればアルゲディも有用と見るだろう。ただ、情報を吐かせてあとは殺処分コースも用意されているだろうことは留意しなければならない。
「取り敢えず、もう一度探索に出てみよう。考え方も浮かんでくるかもしれないし。」
「俺は少年の意向に賛成だぜ!
少年のいくところにマルカブありだ!」
両手でグッドマークをつくり、腕を上下にブンブンと振りながら、黄色い歯を見せてくる。
ピアスをいじっていながら話を聞いていた少年、アンティリエが手を挙げて、
「外に出るのはいいんですけど。危険じゃないですかね。さっきのこともありますし。迂闊に外に出て『蚊王』に襲い掛かられる可能性だってありますよ。
アンテもレオくんの意見に賛成なんですけど、リスクヘッジはしておきたい的なね?」
そう言いながら手のひらに乗せたピアスを左右に交互に投げる。
投げ合われているピアスを猫のように食い入って見るポラリス。
いまだにグッドマークを作っているマルカブ。
レオは思案する。
アンティリエの指摘は至極真っ当なものであった。
レオのやることなすことに全肯定なマルカブや、謎にレオに懐いているポラリスとは違う。
この4人の中のブレーキとアクセルはレオとアンティリエが交互に行っている。
レオが暴走すればアンティリエが、アンティリエが暴走すればレオがという具合に。
今の判断は、アンティリエからみてレオの暴走状態に近いともとれる決断であったのだ。
「ポラリスの話が本当なら『蛇』のいる部屋と過去に探索に来た人の空間が存在する。
もちろんそれを疑っているわけではないし、参考にはなると思うが自分の目で確かめておきたいとも思うだろう。」
「それだと答えになってませんよ。アンテが訊きたいのはレオくんの決断が危険じゃないという根拠です。」
真剣なアンティリエの瞳に全身が強張る。
その瞳はレオに強く訴えかけるようなものではなかった。
その瞳は怯えを宿していたのだ。
大きく開かれた瞳孔にレオの視線も吸い込まれる。
アンティリエは自身の心臓、胸部を服の上からギュッと握ると、胸部には皺ができる。
妙にその皺に意識が向く。
「まだ鼓動が止まないんですよ。バックン、バックンっていってるんです。おかしいですよね。みんなもうなんとも思ってないのに。危険は回避したはずなのに。なのに、なのにアンテは、」
そう言いながら、頬に水滴を這わせる。
地面を睨みつけ、否、涙を堪えようと表情をくしゃくしゃにして、瞼を狭めた。
アンティリエが『恐怖』に胸中を支配されていたことにレオは気づかなかった。
あるいは気づかなくなっていたのかもしれない。
何度も、何度も殺されたレオとは違い、きっとアンティリエにとっての命に迫る『恐怖』というのは新鮮で、残酷であったに違いない。
また、何度も死んで時間が巻き戻ることを半ば悟って失敗すればやり直そうというレオのメンタルとはわけが違うのだ。
そのことに、レオはアンティリエの言葉と表情で、気付かされた。
ポラリスはアンティリエの頭を撫でていた。
マルカブは、背中を向けて、天井を眺めており、その表情は窺い知れない。
ただ、その背中からは、
「俺も、怖いわけじゃないんだぜ。ただ、俺は考えるのが苦手だ。だから、少年に託す。そう決めたんだ。
俺の知らない地獄を見ている、見てきたって目をしていたから。少年、時間が巻き戻った時の表情を俺は覚えているぞ。なにがあったか、正確にわからない。
でも、そこでも俺たちを助けてくれようとしたんだろう?
俺は、助けてくれると、信じているから任せるんだ。」
「わからない。どうして?
そんな確証なんてないですよ。助けられるにしても、どこかでアンテは痛い目にあう。それは嫌だ。
アンテが『蚊王』に殺された回数、レオくんが言うには覚えていないくらい殺されてるそうじゃないですか。またアンテは殺されるんですか?
どうしてマルカブさんは、そうやってレオくんに任せられるんですか?
逃げるかもしれない。もちろん、あのとき命を拾ったのはレオくんのおかげだし、また同じような状況になれば、都合がいいけど、アンテはレオくんに従います。
でも、でも、それでも、自分から身を危険に晒すなんて嫌ですよ。例え助けてくれるとしても、アンテは怖い。死ぬのなんて、時が戻るとしても嫌だ!!!」
目を合わせずに、地面に涙を数滴垂らしながら、あるいは中には涙以外のものもあったかもしれないが、それはレオにはわからないこと。
嗚咽や、ときどき大きく咳き込みながらも、アンティリエは自身のうちに潜む『恐怖』を吐露した。
レオはアンティリエが変なやつだと思うし、どうしようもないクズだとも思う。
ただ、レオとは違い、死の絶望を知らず、またその死の先を知らない。
死なないことが、死ぬことよりも恐ろしいと、レオは胸を張って言える立場ではないことを理解していた。
だから、レオは何もいえない。言えるわけがないのだ。
「ーーっく、っく、ふー。えぐ。ぐすん。
でも、アンテは、理解したんですよ。自分でゲロって少し気持ちを整理できたのかもしれない。」
そう言って顔を上げる。
その相貌は泣き腫らした後らしく、目元を赤く、鼻水も垂れている。
そして瞳は、一つ暗がりに落ちていた。
レオはそれを知っている。
「大丈夫ですよ、3人とも。アンテも立派な大人です。自分の気持ちくらい自分で整理できますから。」
「っちが」
手を伸ばしかけ、声でアンティリエの言葉を制止しかけて押し黙る。
アンティリエが心に整理をつけただなんてレオは思わなかった。
彼の顔は泣き腫らした後であるから、顔色が良くないことは自然である。
ただ、すっきりしたと言う人間が宿していい目をしていない。
その目は、絶望に蓋をして、他人を信用していない奴の目で。
「ポラリスさん、そんなにアンテに優しくするならえっちなことしてもいいですよね。アンテは女の子なら魔物でもいけますよ!」
その姿があまりに痛々しくて、違う、そうじゃないと言いたいのにいえない。
彼はきっとレオに「俺に任せてついて来い、不安なんて、障害なんて全部ぶっ飛ばしてやる。だから信じてついて来い」と、そう言って欲しいなんてことは、レオは最初からわかっていた。
だって、全部自分のようじゃないか。
救われたいと願っていた自分を見ているようだったから。
だれかを信じる確信が欲しかったから。
信じる恐怖に打ち勝つ『勇気』の第一歩を一緒に踏み出して欲しいと心から欲していたから。
だから、彼がかけて欲しい言葉を一番理解できていたはずなのに。
「ちが、、、」
「そーだポラリスさん。もしアンテがこの問題を片付けたら、一晩アンテの相手をしてくださいよ!!」
期待されることが怖くて、信頼が重荷に感じて。
自分なんてと言いたいのを堪えて、何か言葉を探して、何も出てこなくて、アンティリエのことを見ていないのに気づいていながら無視を決め込んで。
彼を1人にしてしまったのだとレオは思った。
今何を言ってももう遅い、レオの判断ミス、いや、むしろレオが臆病風に吹かれたと言うべきか。
「さーて、そうと決まれば探検だ。少年、ここは世界随一の冒険家であるこの俺が、」
「いや、普通にこの『ヴァンデミアトリックス幽域』に詳しいポラリスさんに案内してもらうのが普通でしょう。」
「そうですよ!
ボクの仕事取らないでくださいよ!
このままだとボクは本当に殺処分待ったなしの魔物ちゃんになってしまいます。パンパン先輩がすごーいということはわかりますが、ボクがすごーいことも知ってください!」
「てことですよ。だからパンパン先輩には、ここら一つ後ろで見守ってて」
アンティリエはいつもの調子を取り戻したとマルカブやポラリスは思っているだろう。
あるいはアンティリエ自身もそう感じているかもしれない。
ただ、レオだけは違うと言い切れる。
本当はいじめられた時、クラスのみんなには庇って欲しかったし。
父には死なずに生きてレオと一緒に暮らして欲しかったし、それを母にも打ち明けたかったし、打ち明けられないのを察して母から受け入れて欲しかったのだ。
だから、今のアンティリエがやっているのが、自身の気持ちを守るための防衛本能で、それはすり減るだけで回復することのない歪な領域であると言えるのは、経験者であるレオだけなのに。
(ーーくそ、なんで俺は、拳なんか作ってつま先睨みつけてんだよ。)
わかっている。アンティリエはもうレオのことなんて信じていないと。
きっとあの時助けられて言った言葉も無かったことになったのだと。
アンティリエが悪いと言う話ではない。
救えなかったレオが悪いと言う話でもない。
これはただ、人間が、恐怖に打ち勝てない生き物だから、起きて当然のことだった。
***
安地を出て、ポラリスの案内で、過去の訪問者たちが眠ると言われる部屋、言い換えるなら安置所へと向かった。
部屋は螺旋階段のある方とは逆向きに向かうとあった。
螺旋階段が安地の出口から見て右側、安置所へは左側に向かうとつく。
『不死鳥』がいた時のような黄金の装飾などはなく、あるのは緑と紫の染料で海の渦を描いたような壁と、一体間隔で結ばれたしめ縄。
レオは西洋風の不気味さの中に、日本っぽい不気味さや神聖さのようなものも感じていた。
和洋折衷された通りを抜けると、先ほどのような重たい扉が現れる。
「じゃあ、開けるか。」
黙っているアンティリエやマルカブに変わり、レオが扉に手を重ねて力一杯押し開ける。
こちらは純金でできていないのか少し軽い。
ただ、金属の扉で、長い間放置されていたせいか、少し錆びていて開く時に嫌な音が鼓膜を叩き、鉄錆の匂いが鼻腔をくすぐった。
痰を出したいのを我慢して、片扉だけ開け、中を覗く。
「っ!」
中を覗き込み、一歩だけ後ずさる。
レオも事前には聞いていた。ポラリスが言っていた通り、そこは白骨化した人の遺体が無数に転がっていた。
これだけの人の無念が積もった部屋に、一瞬たじろぐ。
ただ、後ろに3人もいるため、自分が足を窄ませていては先に進まないため、錆びついた足を引き摺りながら中に入る。
中に入ると、マルカブはそっと目を閉じて、両掌を合わせた。
アンティリエは扉の近くで悲惨な光景から目を背けようとしていた。
「あいた、」
扉の前に突っ立っていたアンティリエがうめき声を上げながら部屋の中に転がり入ってくる。
そのまま何度か前転を繰り返しながら、やがて骸に衝突して止まる。
レオたち3人はアンティリエが転んだ先に目をやる。
そこには、長身の男が立っていた。
そして、その男は4人を睥睨しながら、
「いやー3人と魔物一匹はよくしゃべりますね。」
「メラク、何しに来たんだよ。」
「そうだ。俺や少年たちについてきて、一体何のつもりなんだ!」
「そんなの決まっているじゃないですか。魔物を庇うあなた方と、庇われているその魔物の排除ですよ。
そんなこと、訊かなくてもわかるでしょうに!」
手の持った聖典を掲げながらそう言い張る。
レオや他の3人の中には疑念があり、彼の言葉をうまく消化できなかった。
「まて、まってくれよ。約束は?
討論で決着をつけるって話はどこに行ったんだよ」
「討論で決着をつけるのは最終手段です。私は最初から討論だけで決まるだなんてことは言ってません。討論は討論、それ以外はそれ以外です。おわかり?」
レオたちの中には、討論で決着をつけるということしか頭になかった。
その時点で、メラクとレオたちとで、甘さや頭の回らなさに大きな差があることは明白である。
「ここは『サムムカーティル』の『暴食』、『蚊王』の作り出した『ヴァンデミアトリックス幽域』。
何が起きても不思議じゃない。故意の処分であってもあってもあってもあってもあっても!!
何も、問題、ナイ!!! ナイ!!! ナアアアアアアアイ!!!!」
狂気じみた様子にレオの背筋には冷や汗が流れる。
額の血管が強く脳を締め付ける。
指の血管が今すぐにアイツの首を絞めるべきだと言っている。
「仲良しですよね3人とも。少しぎこちなかったですが、魔物とよくおしゃべりします。だから、ここの『白骨化兵』たちのことは私も理解してますよ。」
「まさか」
レオたちがポラリスから聞かされた話、
「いいですか! これから行くところには白いゴツゴツしたものがたくさんある部屋になります。刺激を与えると、なぜかは知らないですけど襲ってくるんですよ。だから接触厳禁、数も多いですし、即退散です!!」
このことが脳に新しい。
レオが気づいて背後を振り返ると、アンティリエに錆びた鉄の剣を振りかぶった、錆びて赤くなった鎧をきた骸骨が、今にも彼の脳天を割ろうと襲いかかっていた。
すぐに近くにいたマルカブが、腰に携えていた木剣を使って鎧骸骨の剣を防ぐ。
「くそ、お前えええええ!!!」
「じゃあ、それでは。」
レオの怒りが爆発して、急いで入り口、否、出口へ向かうが、巨人族たるメラクの剛腕がとんでもない勢いで扉を閉める。
その勢いで、レオの顔面に錆びた鉄の扉が衝突する。
「ぐぼえ、」
癖で『剛体化』を起動しようとするが、ここは『ヴァンデミアトリックス幽域』内である。
当然発動することもなく、顔面にモロに受け、今度はレオが後転する形で後方へと倒れる。
顔、特に鼻と額には強い衝撃を受け、一瞬意識を手放しそうになったが、直後に襲った体への衝撃がそれを防いだ。
鼻骨は折れ、視界がいつもより狭く感じる。
鼻先には嫌な熱さと、骨が砕けてぐちゃぐちゃになった感覚があり、その痛みに絶叫して悶える。
「あああああああああああ」
「し、少年!」
「お兄さん!!!」
三体の鎧骸骨と木剣で戦う小太りの低身長男が、レオの苦鳴に視線を向ける。
アンティリエは転がっていた錆びた斧を手に取ると、勢いよくレオへ、レオを襲いかけていた骸骨へと投げる。
「レオくん、大丈夫ですか!」
レオの方へと駆け寄って、すぐに腕を肩へ回して立ち上がらせる。
そのまま投げた斧を拾い直すと、その斧をレオへと渡す。
「ああ、なんとか。ありがとう、たふかったよ。」
「無理に声出しちゃダメですよ。」
「2人とも! 前を!」
目の前には、穴だらけのローブを見に纏った骸骨が火球を放つ。
それをすぐに魔術だと理解したが、レオは動かないでいた。
『不死鳥』のあの、豪火と重ね合わせて動かないでいたのだ。
棒立ちのレオとアンティリエの目の前に迫る火球から2人を護る様に、青い粘性のある物体が伸びてくる。
やがて2人の前に訪れると、その粘性の物体は広がり2人のことを上から下までまるで壁のように守る。
火球がその粘性の物体、ポラリスの体の一部にぶつかると衝突部位は燃え始める。
「ポラリス!!!」
やっとのことで声を振り絞り、2人を守ってくれたポラリスに声をかかるが、彼女の表情は苦しみを訴えていた。
当然のことで、彼女にぶつかった衝突部位が熱を帯びて溶けていたのだ。
その苦しみをレオは知っている。
「大丈夫ですよお兄さん!
これくらい、自然治癒と粘膜でなんとでもなりーすから。」
そう言いながら広げていた体の一部を縮めて元の形に戻る。
そうすると、どうやら彼女が広げていた部位は腕であったことはわかった。
「くっ、うわあああああ!」
アンティリエは近くに転がっていた槍を手に取ると鎧骸骨たちと戦い始める。
レオも遅れて握っていた斧に力を込めて戦いに参じる。
斧を振りかぶり骸骨の首を落とす。
しかし、首を切っても骸骨は死なない。
既に死んでいるから死なないというのもおかしな表現であるが、どれだけ傷を与えても、どれだけダメージを負わせても、一度砕いた骨であっても別の鎧骸骨と戦って、少しすればすぐに原型を再生して立ち上がってきた。
「ぬ、このままだと、全滅してしまうぞ!
少年! 何か策はないのか!?」
「くっ、今、考えているところ!」
斧で何体もの鎧骸骨たちを屠っていく。
しかし、どれだけやってもキリが無い。キリが無いのは向こうだけ、こちらは消耗する。
「うわああああああ」
肩から血を流すアンティリエが地面に蹲っている。
すぐにそちらへと駆け出し、アンティリエを襲いかけていた鎧骸骨を仕留める。
が、レオの腹に激痛が走る。
「へ、」
視線を下げると、そこには赤黒い血で染まった、返しのついた錆びた槍が突き刺さっていた。
内臓が捻られる感覚とともに、錆びた槍が引き抜かれ、患部からは止めどない血と患部を中心に全身へと熱が駆け巡る。
「あああああああああああああああああああああああ!!!!!」
その場に握っていた斧を落として、アンティリエがいる方向へと倒れる。
冷たい石畳の床に膝をつき、息が荒々しく肺を突き破るように上下する。
薄暗い地下墓地の空気は腐臭と錆の匂いが鼻腔を刺す。
目の前には、ガタガタと震えるアンティリエの様子がある。
震えるからの瞳と、レオの瞳孔が交錯する。
彼の瞳に反射して映る自分の姿は、それは情けなくも頼りない、救ってくれる男の姿では無い。
「うわああああああああ!!!」
「ポラリス嬢!!!」
遠くで絶叫するポラリスの声が聞こえてそちらにレオとアンティリエは視線をやる。
頭部を切り落とされて、頭部と胴体に何度も武器を振り下ろして、その体をすり潰すように何度も何度も何度も何度も。
「うあ、、」
レオとアンティリエの2人の体に影が刺す。
「アンティリエ、、、」
「レオくん、ごめん」
それだけ言うと、アンティリエは傷の負っていない方の腕でレオを影の主へ突き飛ばす。
その時のアンティリエの表情は、涙と鼻水と唾液と血と汗でぐちゃぐちゃになっていた。
助けを求める顔をしていた。
死にたく無いと、生にしがみついていた。
死ぬことは避けられない。それでも、少しでも生きていたいと言う心の現れるような表情であった。
後方に尻餅をついたレオのことを、影の主、一際大きな鎧を見に纏った骸骨の空洞の眼窩に宿る青白い光が、まるでレオの魂を嘲笑うかのように揺れている。
それぞれが手に持つ武器――錆びついた剣、斧、槍――は、かつての輝きを失い、赤黒い腐食に覆われているが、その刃先は今なおレオの肉を裂くのに十分な鋭さを持っていた。
左肩に振り下ろされた剣の錆びた刃がレオの肉に食い込む瞬間、鋭い痛みが全身を駆け巡った。
「うわあああああああああああああ!!!!」
その瞬間に、この世界で初めて肩に振り下ろされた剣のことを思い出した。
痛みと苦しみと正誤の判定すらもつかなくなる精神状態のことを思い出す。
喉から漏れる呻き声。刃が骨に当たって止まる感触は、まるでレオの存在そのものが砕かれるかのようだった。
血が噴き出し、皮膚の隙間から熱い液体が流れ落ち、冷たい石畳に滴る。
痛みは焼けるように鋭く、肩の筋肉が収縮するたびに新たな波となって全身を襲う。
動かそうとすれば、骨と肉が擦れ合う軋むような感覚が脳に直接響く。
だが、休息は許されない。
次の瞬間、右側から振り上げられた斧がレオの脇腹に命中した。
「ごめん、ごめんなさいごめんなさい!
ごめんごめんごめんごめん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!」
「ぐぼああああああああ」
鈍い衝撃音とともに、肋骨が砕ける感触が広がる。
息が詰まり、口から血の混じった唾液が飛び散る。
斧の刃は深く食い込み、内臓を抉るように動くたびに、熱くドロリとしたものが腹腔内で溢れ出すのが分かる。
痛みはもはや単なる感覚を超え、意識そのものを飲み込む黒い霧のようだ。
膝が震え、立っていられない。よろめきながら片手をつくが、その指先すら震え、力を失っていく。
鎧骸骨たちは容赦なく襲いかかる。
槍を持った一体が正面から突進し、錆びた槍の先端がレオの太ももを貫いた。
刃が筋肉を裂き、骨に突き刺さる瞬間、まるで雷が体を貫いたような衝撃が走る。
「少年!!!」
「ごめんなさいごめんなさい、たすけて、兄やん。嫌だ、死にたく無い!!!!」
叫び声が漏れるが、声すら途切れ途切れだ。
槍が引き抜かれると、肉が引きちぎれる音とともに、鮮血が噴水のように噴き出す。
太ももの筋肉は収縮し、動くたびに裂傷が広がり、焼けるような痛みが下半身全体を支配する。
立つことすらままならず、膝が折れ、地面に倒れ込む。
骸骨たちの動きは機械的で、無慈悲だ。
感情のない眼窩がレオを見下ろし、次の攻撃を繰り出す。
一体が剣を振り上げ、レオの胸に深く突き刺した。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
刃が肋骨の間を滑り込み、肺を貫く。
息を吸おうとするたびに、胸腔内で血がゴボゴボと泡立つ音が聞こえる。
空気が肺に入らず、代わりに血の味が喉を満たす。
窒息するような感覚が意識を締め付け、視界が揺れる。
心臓が激しく鼓動し、生きようともがくが、その鼓動すら次第に弱っていく。
さらに別の骸骨が斧を振り下ろし、左腕に命中。
骨が砕ける乾いた音が響き、腕が不自然な角度で折れ曲がる。
神経が引きちぎられたような痛みが走り、腕はただの肉の塊と化す。
動かそうとしても、指先すら反応しない。
血が流れ続け、冷たい石畳に赤黒い水たまりを作る。
意識が遠のきかけるが、痛みがそれを許さない。
全身が炎に包まれたかのように熱く、しかし同時に冷や汗が背中を伝う。
「ちがう、ちがうちがうちがう。こんなの、嫌だ。なんで、死にたく無いだけなんだ。アンテにだって、戦えるのに。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
死ぬのは、怖いよ。兄やん、、、」
骸骨たちは止まらない。
槍が再びレオの腹部を貫き、今度は腸を突き破る。
内臓が引きずり出されるような感覚に、胃が締め付けられ、吐き気が襲う。
だが、吐くものすらない。
口からは血と胆汁の混じった液体が垂れ、喉が焼けるように痛む。
体はもはやレオのものではなく、ただの痛みの器と化している。
視界がぼやけ、骸骨たちの姿が歪んで見える。
だが、その歪んだ影が次々と武器を振り上げる様子は、悪夢のように鮮明だ。
最後の瞬間が近づく。
剣を持った鎧骸骨がレオの首元に刃を振り下ろす。
錆びた刃が皮膚を切り裂き、頸動脈を断つ。
血が噴き出し、視界が一瞬にして赤に染まる。
痛みはもはや感じない――あまりにも激しすぎて、脳がそれを拒絶したのかもしれない。
体が冷たくなり、力尽きたレオは石畳に崩れ落ちる。
心臓の鼓動が遠ざかり、意識が闇に沈む。骸骨たちの骨がカタカタと鳴る音が、最後に耳に残る音だった。




