36 風が吹くとき
前)泉
「眠れ良い子よ〜」
懐かしい、調子はずれな子守歌が聞こえていた。
ロルギニスの城下町で、第三王子ラフィの従者ポトシは旅の前に着ていた衣類を引っ張り出していた。
ラフィの乳母をしていた妻マルカが歌う子守歌は、どうも元のしんみりした歌とかけ離れて愉快なものになっている。
「あなた、そろそろお茶でもいれようと思うんですけど上手く片付きそうですか?」
歌を止め顔をのぞかせた妻のマルカに衣類棚の影から手を振り応える。
「ああ行くよ。いやぁ、二年空けたらこう、ズボンが」
「手直しがいるものは出しといてくださいね。あ、そうそう、いただいたお菓子どこにやったかしら」
マルカが背を向け声が遠くなった時だった。
目の前が突然真っ白になり、立ちくらんだかと思った瞬間、激しい揺れと轟音に襲われポトシは天地を見失った。
「イタタタ」
どうも衣類棚の中に突っ込んでいるようだと気がつくのに少しかかった。
戸を押し蹴って這い出ると、家の中はめちゃくちゃになっていた。
窓や戸は全て外れて天井に何やら木片が刺さっている。
「こりゃ危ないな」
咄嗟に衣類の山からマントを引き出しフードをかぶる。
隣のケープもついでに掴みつつ、妻に呼びかける。
「マルカ!大丈夫か?」
「ええ、大丈夫なんですけどちょっと……」
低い位置から声がして、駆け寄るとマルカは棚と机の間に挟まっていた。
「ちょうど下の戸を開けようとかがんだら……」
棚をどけて引き出す。
棚は机に引っかかっていて、マルカに怪我はなさそうだった。
「おまえもこれをかぶっておけ」
ケープをマルカに渡しポトシは外に出た。
「どうもあたしたち運が良かったらしいですよ」
後ろからマルカが言う。
あたりは騒然としており、流血した者なども多くうめき声や悲鳴も聞こえていた。
「反乱軍が何かやったんじゃないのか?」
「いや、城の方が何かやったんじゃ……」
皆口々に何か言うものの、一体何が起きたのか誰にも分かりはしないのだった。
遠くで煙が上がっている。
「ああ!マルカさん大丈夫だったかい?あんたも早く逃げた方がいいよ」
隣の住人はそう言って肩を叩くと広場の方へ走っていった。
焦げた臭いが風に乗って漂う。
「こりゃいかん、風がこっちに吹いとる」
慌てて家に戻り逃げるのに必要な物を探す。
「重いものは持つなよ!」
ポトシは小さなカバンのベルトを体に巻き、金と手紙の束を入れた。
マルカはベッドの下から二人分の背負い袋を取り出した。
「反乱軍が何やら備えをしろってビラ配ってたの、真に受けて良かったわ……」
袋を背負い、食べ物を布で包みポケットへ入れながらマルカは言った。
「いいから急げ!」
ポトシも袋を背負い外へ出る。
マルカはくたびれた毛布を抱きしめて出てきた。
「これだけは置いていくわけにはいきませんからね」
ポトシは頷いた。
昼だというのに空は暗くなっている。
「火が来るぞ!」
という声が聞こえた。
「広場まで走ろう!」
住宅街の向こうには大きな川が流れており、橋を越えると広場が見える。
しかし橋の様子はいつもとは違って欄干がない。
よく見ると反対側の欄干は橋の上に整然と倒れていた。
広場の先の道は城下に続いているが、あたりは逃げ惑うものたちで騒然としていた。
同じように逃げて来たものが、逆に外へ逃げようとするものを押し留めている。
どうも城に近いの建物の方が自分たちのところよりひどく壊れているようだった。
開けた場所を探して川沿いを先に進む。
あちこちに怪我をした者が点々とうずくまっている。
先ほどよりも大きな、別の橋の近くに来たところで外へ向かおうとする貴族の馬車が民衆に止められていた。
川面に輪が広がる。
雨が落ちてきたのだった。
「よかった!雨だ!」
「家も燃えずに済むかもしれませんよ!」
しかし様子がおかしい。
びちゃりびちゃりと落ちてくる大粒の雨は黒く、煤の塊のようだった。
「なんだこれは」
二人はフードをかぶりなおした。
ふいに若い女の悲鳴が聞こえてきた。
「カウフ!しっかりして!」
どうやら若い母親が抱えた赤子に必死に呼びかけているようだった。
何も持たない母子を雨が黒く染めていく。
それをじっと見ているマルカの背にポトシは手をあて、振り向いたマルカに頷いた。
マルカは母親に駆け寄り、手にした毛布を2人にかけた。
ぐったりとした赤子と泣き叫ぶ母親ごとただ抱きしめる。
「頑張ったわねあなた。少し休みましょう。大丈夫よ。ええ、大丈夫。私は第三王子の乳母をしていたのですからね大丈夫よ、さぁ私に預けてちょうだい」
橋の方から貴族の馬車を取り囲んだ者たちの怒号が聞こえる。
「お前たちだけ逃げようとするな!」
「魔術師の塔が光って城が崩れたのを見たぞ!何をやったんだ!」
「魔女の国なんかに手を出すからだ!」
ポトシは愕然とした。
城のラフィの居室は魔術師の塔に近いところにある。
「城が?ラフィ坊っちゃんは……」
橋の反対側から兵を乗せた馬車がやってきたが混雑した橋を越えられず、様子を伺いに数人の兵が走ってきた。
「なんだこりゃ!城が崩れたって?魔女の森だけじゃなくてこっちもかよ!」
ポトシは貴族の馬車に駆け寄り叫んだ。
「城は!王子は!ラフィ第三王子は大丈夫なのか!」
「あんた第三王子探してんのか?」
ひょろりとした兵がポトシに問いかけた。
「俺たちプリエラで第三王子に会ったんだよ!」
「なんだっけほら誰か手袋預かってて。なんか変わった細工がしてあるやつ」
「その第三王子はの魔女の森へ向かったんだよ。何だっけ?どっかの国を沈めた酷い魔法石を使うのを止めるとかって」
「でもそっちでもさっきみたいな光と風が吹いたから……」
「なんかとてつもなくでかい黒い雲が上がったんだよ!ありゃあ多分もう」
兵たちの言葉を聞きながら、ポトシの血の気は引いていった。
「なんだって……ラフィ坊っちゃん……」
黒く重い雨は、なおも降り注いでいた。
次)脱出




